結束いのり視点
会場の空気が、今まで経験したどれとも比べ物にならないくらいに熱い。
物理的な熱量じゃなく、きっとこれは心が発する熱量だ。
理凰君の移籍の話は私もお見舞いに行ったときに聞いた。
入院と聞いて驚いたけど、以前から理凰君には体質的に高い熱が出やすいという話も聞いていたし、わざわざ電話を入院先の病院からかけてきてくれて、検査と念のための経過観察だって教えてもらっていたから変に動揺はしないで済んだ。
とても手際のよかった対応を見るに理凰君はきっとこういう事態がありうることを予想していて、私に対するメンタルケアの仕方も決めていたんだと思う。
それだけじゃない。
こうして競い合う場に居れば、誰かの想いを向こうに回して自分の想いを貫かなくちゃいけない時があることも。
きっと理凰君は知っていたんだ。
「いいかい、いのりちゃん。君が一番のメダルを求めて滑るというならば、知っておかなければならないことがある」
もうだいぶ前の事。
私の目標を聞いたときに理凰君は言った。
「メダルが一つしかない以上それを手に取るために、君は自分以外の全ての人を踏み越えないといけない。想いも、願いも、決意も。どんな切実なものを向こうに回したって、自分の想いを胸に意思と覚悟をもって勝利を求めなければいけない」
その時は、怖いなと思った。
自分に出来るだろうかと思った。
「君にはきっと出来る。そして、それを恥じる必要も後ろめたく思う必要もない。僕たちスケーターは誰もがそうあるべきだからだ。相手の本気に遠慮するだなんて、相手の抱えたものが大きければ大きいほど失礼だ」
でも理凰君は言う。
君には出来る。
そうしろと。
そうせねばならないと。
「氷上ではだれもが平等だ。等しく己を掲げる権利がある。だからいのりちゃん」
いつもの優しい瞳をしたお兄さんとしての理凰君ではない。
きっとスケーターとして、その頂点に君臨し続けている者としての顔。
「君も堂々と自分の願いを掲げて滑るんだ。君のその素敵な名前の通りに、多くの人の祈りをその胸に。その中にはきっと、俺の祈りも含まれてる」
私の最初の先生。
私の運命を変えてくれた人。
出会う事がなかったら、きっと違う人生だった。
「きっと俺がいなくたって君は歩き出したさ。でも、その歩みの最初のほんの少しの間でも手を引いてあげられた事を、俺は誇りに思う」
理凰君はそう言っていたけど。
誇りに思うのは私の方だ。
光ちゃんはあまりにも遠くて、でもそれでも追いつけないなんて思わない。
だって、理凰君は言った。
「俺には一緒に育った大切な子がいる。悪いけど、その子と戦う時は最高の演技ができるようには応援できるけど勝利は願ってあげられない」
ちょっと残念にも思うけど、同時にあれはこの上ない賞賛だ。
だって、理凰君は私が光ちゃんに勝てるかもしれないと本気で思っていることが分かるから。
私が光ちゃんに勝てるスケーターになれると一番信じてくれているのは、きっと理凰君だ。
司先生は勝たせてみせると言ってくれるしそう導いてくれる。
光ちゃんは、ずっと先で私を待っていてくれる。
二人とも私を信じてくれているのはわかる。
でも、その二人とすら理凰君は違うのだ。
出会った時から、まるで私がそうであると知っているような瞳で私を見る。
信じているという言葉すら実は適当じゃない気がする。
あれは確信だ。
理凰君が私の中に何を見ているのか、私にはわからないけど。
スケートを理凰君に教わり始めるまで、ずっと自分に自信が持てなかった私にとって、理凰君のあのまなざしは何物にも代えがたい宝物。
理凰君の滑りを見た日からは、その価値はさらに天井知らずだ。
とても重いけど同時に私を支えてくれるそれを、私は絶対に投げ出さない。
私はまだ、あのまなざしを頼っているけれど。
いつかそれに相応しい私になる。
氷上に立って。
私は掲げる。
名港の子達にだって決して負けない、私だけの理由を。
理凰君が、あんなにすごいスケーターが私に費やしてくれた時間で積み重ね踏み固めた私の土台。
その上に司先生が築き上げてくれた多くの技術と経験。
それらの全てを尽くして。
司先生は、今から私が取りに行くのは金メダルだと言った。
信じていると言った、
私は任せてって答えた。
覚悟も意思も今、確かに私の胸にある。
きっと理凰君が私に託してくれた祈りも傍らに。
さあ、私の番だ。
映画『カノンとベルの国』より「花の妖精」
とても好きな曲だけど、実は最初はちょっとだけ気後れした。
だって、私が花の妖精だなんて。
でも理凰君は笑って言ってくれた。
「今のいのりちゃんには、この上なく似合うと思うけどな」
曲かけの練習を見ていた時だって、とても幸せそうにしていた。
あんな風に見られてしまったら、気後れなんて吹き飛んでしまう。
先生をしてくれていた時だって。
私のメディカルトレーナーを仮とはいえしてくれていた時だって。
ふらりとただ顔を見に来てくれる今だって。
私は理凰君に与えられてばかりだ。
だからこれから新しい場所へと旅立つ理凰君への想いも込めて。
光ちゃん。
全日本で会おうという約束は忘れてないし、必ず守るけど。
今だけは私も理凰君だけを想って滑るね。
全日本では、ただ光ちゃんへの勝利の為だけに滑れるように。
理凰君に何かを少しでも返したいし、また少し遠くなる理凰君に今の私を見て覚えていてもらいたいから。
そんな気持ちをちゃんと消化するために。
体に焼き付くくらい練習したスケーティングの技術を駆使して氷上を舞う。
きっと本当の妖精のようであれと意思を込めて舞い踊る。
理凰君が私の為に考えてくれた身体操作などを鍛える練習は、私の目指す誰もが素敵だと見惚れるような滑りの確かな糧になっている。
前よりも少しずつ、日々を重ねるごとに確かに、自分が望んだとおりの動きを表現しやすくなっていく。
氷上を蹴って宙を舞う。
ずっとずっと、丁寧に根気よく何度もバックスクラッチを繰り返した一年間。
それが私の軸取りを鍛え上げた。
こんなに早く級を駆け上がれたのは、間違いなくこの積み重ねのおかげもあっただろう。
余裕をもって回転し、美しい着氷を決める。
着氷後の姿勢にだって気は一切抜かない。
心に浮かぶ理想は、理凰君のジャンプ。
まだそれには届かないけれど。
今の私としては会心の出来だ。
さあ、最後のスピンだ。
花の妖精という曲名の通りに、理凰君がそうだったみたいに、氷上に咲く花であれと。
廻る。
姿勢を変えて。
早さを変えて。
廻る、廻る。
手を抜かず、気を緩めず、最後の姿勢までしっかり決めて。
私は完全にノーミスで完走した。
今の私に出来るすべてを尽くした。
ずっと夢見ていた、でも今までは目覚めたときに悲しくて、もう見たくない夢だったキスクラに、現実で座った。
隣には司先生がいる。
ちょっと遠いけど、観客席の理凰君が見えた。
その距離でも、私へ注がれるそのまなざしを感じる。
やっぱり、理凰君は私をその瞳で見るんだね。
私自身にとっては夢でしかなかったキスクラ。
そこに座っている私を、それが当たり前だというような。
私の事を確信している、そんな瞳。
なんでそんなにも私を信じてくれるのか、私にはわからない。
でも、わからなくても良い。
それに応えたい、応えてみせるというこの想いこそが重要だと思うから。
そうして私はキスクラで自分の点数を聞いた。
その日、私は金メダルをこの手に掴み、全日本ノービスへの切符を手に入れた。
この年の中部ブロック大会は関係者の間でずっと語り草になる非常に特別な大会となった。