東京に来てある程度生活が落ち着いてきた頃、夜鷹純からの紹介で俺と光ちゃんは高峰匠先生に引き合わされた。
匠先生は前にもふれたが、漫画で光ちゃんのスケーティングのコーチをしていた人である。
多分アイスダンスで付いた傷なんだろうと思うが、顔についた大きな切り傷が特徴的。
一見すると強面で気難しそうなおじさんなのだが、中身がちょっと面白い。
この人、重度のファミリーコンプレックスなのだ。
24時間に一度、娘か妻に会わないと病気になるとか言い出す人である。
「そうか、君が理凰君か」
そんな匠先生に俺は何かすごく感慨深げに見られていた。
瞳先生や、司先生から話を聞いていたのだろうか。
もしかすると、夜鷹純からも何か聞いていたのかもしれない。
「瞳先生から色々話は聞いていますが、直接お会いするのは初めてですね。鴗鳥理凰です。よろしくお願いします、匠先生」
挨拶と共に握手を求めると、しっかりと握り返された。
「ああ、よろしく」
「と言っても、匠先生には主に光ちゃんの指導に当たってもらう事になると思いますけどね」
まあ、そうなのである。
俺はスケーティングに関しては司先生の指導も受けているしね。
そんなわけで、握手を終えると隣の光ちゃんと場所を変わった。
「狼嵜光です。これからよろしくお願いします」
光ちゃんとも握手をかわした匠先生は、何か深いため息を吐いた。
それは別に嫌な感じのものではなく、何かずっと背負っていた重いものをおろしたかのような、そんな溜息だった。
「君たちを教えるのが、コーチとしての俺の最後の仕事になるだろうな。君たちのおかげで最後のやり残しも無くなった。その分の礼はしっかりと指導で返そう」
そう俺たちに言った匠先生は、程よく力の抜けた良い顔をしていた。
こうして、光ちゃんのもとに漫画と同じ布陣が整った。
そしてその数日後の放課後に迎えに来たライリー先生に連れられて、例の会食の場へ連れていかれた。
最初の方の会話内容はおおむね同じ。
ライリー先生がメンバーの豪華さを笑い、匠先生やレオを褒める。
褒められたレオは上機嫌でライリー先生を褒め返し、褒め殺しの応酬と化した。
匠先生は早く帰りたいと漏らすし、光ちゃんはそんな皆を何とも言えない目で見ていた。
夜鷹純に夜のリンクの貸し切りを許した理由も同じ。
自分が最高のタイミングでオリンピックへ挑戦できたことへの恩返しだとライリー先生は言う。
まあ、この世界では夜鷹純が光ちゃんのコーチであることは公表してしまったので、そこはちょっと違うが。
「理凰、僕はこの料理はもういい。君が食べてくれ」
あ、少しは口付けたんだな。
ふむ。
「味はどうでしたか? 気に入りそうなら今度、似た感じの作りますけど?」
「そこまでだった」
そっかぁ、残念。
んじゃ残りは俺が食べるか。
ちゃんとナイフで切り分けてからきれいに食べているので特に抵抗はない。
「いや、お前らどういう関係なんだ」
匠先生が突っ込んでくるが。
俺が答える前に珍しく夜鷹純が答えた。
「理凰は、量を食べさせないとすぐに拙い痩せ方をするので。僕はあまり食事自体が好きではないし、外食ではよくこうしているんです」
まあ、そうなんだよね。
割と前から夜鷹さんと外食するときはこんな感じである。
俺は俺でお残し嫌いだしな。
「最近は、家に俺たちの様子を見に来たときとかに一緒に食事をするので、外食で気に入ったものがあればそれを作ってあげたりするんです」
俺は補足してそう言う。
でもほとんどそう言うのは見つからないんだよな。
今日は結構いい店だし期待したんだが。
「はあ。いったいどうやってこいつをこんな風にと思っていたが、なるほどなあ」
まあ、言ってしまえば日々の積み重ねだよね。
とっくに俺と夜鷹純の関係性を知っているレオはケラケラ笑っているし。
ライリー先生は目を丸くしていた。
光ちゃんはちょっと微笑まし気。
そしてやっぱりあるホタル観賞。
これっておそらく、観賞用に放しているんだろうなあ。
夜鷹純は漫画通りに蛍を目で追っているな。
それに気づいた光ちゃんが蛍を捕まえに行こうとするが、俺はそれを手で制した。
基本的に人間に害があるようなものじゃないが、蛍には毒性があるから一応ね。
代わりに俺が蛍を捕まえて連れてくる。
「光も近くで見てみる?」
光ちゃんも呼んで、蛍を夜鷹純の手へ移した。
ライトが落とされた場所で見ると、凄く幻想的な光だよな。
「わあ!」
光ちゃんが蛍の光を間近でみて声をあげた。
俺は夜鷹純が、光ちゃんにも見やすいように手の位置を気を付けている事に気が付いた。
自分が思わず目を細めてしまっているのがわかる。
そこには漫画のような少し殺伐としていた会話はなく、やわらかい空気だけがあった。
「最初は少し心配だったんだけど。素敵な関係なのね、貴方達」
いつの間にか俺の傍に来ていたライリー先生が囁く。
「ええ。自慢できるくらいには素敵な関係を築けていると思っています」
俺は胸を張ってそう答えた。
そんな俺にライリー先生はさらに囁く。
「私はコーチとして、理凰君のお眼鏡にかないそうかな?」
ああ、そうか。
考えてみると夜鷹純も父さんも、そして司先生にしても。
どこか中途半端でレッスンは受けていてもはっきりコーチとは言いにくかった。
そんな俺にとって、初めての本格的なコーチはこの人になるのか。
ライリー・フォックス。
計算高い部分と天然な部分を併せ持つ、恐らくは天性の天才。
その中にいくらかの闇のようなモノはかかえていても、受け持った選手に対する責任感と深い情を確かにもっている人。
実を言うとちょっとだけ思っていたのだ。
多分だけど、この世界で俺の知る限りの中で、一番コーチとして俺との相性がいいのはこの人じゃないかと。
移籍先をここに決めたのには、光ちゃんが漫画でここに来ていたことや、もろもろの条件があっていたというのもあるが、それもあった。
夜鷹純は最高の手本にはなるし、いつか超えると決めた目標ではあるが、それゆえにコーチというには遠い。
父さんは身内であるがゆえに、逆に距離が近すぎた。
司先生には、いのりちゃんを優先して欲しいので、あくまでお互いに教え教えられのギブアンドテイク。
だからコーチと教え子という以上に、どちらかというと友人とか共犯とかそんな感じ。
他のクラブのコーチ達にはちょっと例のメソッドで恩を売りすぎたみたいで、力関係が微妙。
「そうですね。お眼鏡にかなうなんて偉そうなことは言いませんが。楽しくやっていけるんじゃないかなと期待しています」
俺みたいな癖の強い奴には、この人はなかなか良いんじゃないだろうか。
現時点でも素直にそう思う。
後はこれからの時間次第だ。
「そう言ってもらえるなら、私も頑張らないとだね」
そういうライリー先生の顔は、素直な笑顔だった。
なんだ、悪役っぽくじゃなく普通にも笑えるんじゃないか。
「そう言えば、ちゃんと言っていなかった気がしますね。俺たち、お互いにちょっと癖が強いですし。……あらためて、これからよろしくお願いします、ライリー先生」
そう言って手を差し出した。
でもそこは流石のライリー先生。
普通に握手を返すのではなく、絡みつくように腕を組まれた。
「癖が強いはひどいなあ。まあ、でも、こちらこそ。これからよろしくね、理凰君」
「ひどいと言いつつ、行動がそれだから癖が強いって言うんですよ全く」
文句は言うが、どうにも笑えてきてしまって困る。
ライリー先生は悪びれた様子もなく笑っている。
そのあと蛍を見ていた光ちゃんがこっちに気が付いて、ライリー先生に呆れた目を向けるまで俺は腕を絡められたままだった。
まあ、少なくとも退屈はしなさそうなコーチであることは間違いなさそうだった。