光ちゃんは、俺が手本に滑ってみせた振り付けをあっという間にものにした。
まあ、ある意味当然ではある。
ちゃんと今滑っているプログラムを下敷きにしているし、これは光ちゃんの為のプログラムなのだから。
「理凰は、私がいつかこうするって分かっていたの?」
光ちゃんは俺にそう聞いた。
でもそれはちょっと違う。
「経緯やきっかけはわからないけど、いつかきっと光ちゃんは選ぶ。そう信じていただけだよ」
俺の言葉に光ちゃんは瞳を閉じて噛み締めるように言った。
「そっか、そうなんだね」
そして、まぶたを開けた光ちゃんはしっかりと俺の目を見ていった。
「あのね、理凰。私は私なりの犠牲との向き合い方を決めたの。私は理凰みたいに犠牲に意味を与え、夜鷹コーチのように犠牲を慈しむ。そして、それ以上にまず、そこに至るまでの選択をこそ尊ぼうと思うの」
煌めく様な、まばゆい意志のこもった瞳だ。
「それは、かつての理凰が出来なかったことだから。私は何かを犠牲にするとしても、しないとしても、ちゃんと考えて向き合って、覚悟を持って決める。そしてその選択に責任をもちたい」
そして、眩暈を覚えるような情を感じさせる熱があった。
「選択の余地すら与えられなかった理凰を、私は知っているから。私はそうしていく」
ああ、本当にこの子は今日この時に一歩を踏み出すのだ。
「ねえ、理凰。ずっとずっと私を信じ続けてくれてありがとう。私は、今日まで追い続けた道を今日こそ本当に逸れて、私自身の新しい道を歩くことを選ぶ。だから見ていてね。今日は理凰の為ではないけれど、きっと素敵に滑ってみせるから」
「ああ、行っておいで。ちゃんと見ているから」
そうして、俺は光ちゃんを送り出した。
今日は観客席から光ちゃんを見ている。
順番がやってきて、光ちゃんはライリー先生に送り出されて氷上に立った。
音楽が始まる。
昨日まで目指していた夜鷹純のそれを真似るような男性的な印象を与えるものだった滑りは、まったく別の女性的なものへと変わっている。
軽やかで、華やかな。
でも確かに強かさも秘めた少女らしいだけじゃない、まさに光ちゃんらしいと言える滑り。
光ちゃんが氷上を滑っている。
野に咲き誇る花のように。
あるいは、夜空に煌めく星々のように。
ジャンプはまるで空で舞うかのようだ。
宙を撫でる指先は星座をなぞるかのよう。
夜の花園の中を、星明りすら不要なくらいに自分自身が名前の通りに光り輝いて踊っている。
そんな光景を幻視する。
夜鷹純の命を燃やすような滑りとは違う。
その内に秘めた生命に満ち満ちてただ爛漫と。
氷上であることを忘れたかのように、舞い踊っている。
俺は光ちゃんの滑りが終わるまで約束の通りに、あるいは約束なんて不要だったほどに、その滑りに見入っていた。
光ちゃんといのりちゃんの二人が歩道を歩きながら話している後を、少し離れて歩く。
大会の後、少し話がしたいといのりちゃんがやってきたのだ。
このあたりは漫画とは違う、この世界の二人だからこそのやり取りだった。
そうして二人は会場近くの夜の歩道を歩いている。
俺は一応のボディガードとして、二人とはちょっと離れてだが一緒に歩いていた。
あんまり様子をうかがうのも良くないと思って適当に視線を逸らしながら。
だから、それに気が付けた。
蛇行しながら走るトラックに。
それは、二人のいるほうに近づいてきていた。
俺は走って二人に近づく。
このまま通り過ぎてくれればいい。
でもそうじゃなかったら。
いるかちゃんの怪我と言い、いのりちゃんの転倒と言い、この大会は本当に心臓に悪い事ばかりだ。
「ごめんいのりちゃん! 上手く受け身とってね!」
二人に追いついて、とりあえず近かったいのりちゃんを、道路から遠い方の歩道脇の茂みに投げ飛ばす。
トラックは間近まで迫っている。
ブレーキ音が聞こえる。
駄目だ光ちゃんは投げるのは間に合わない。
トラックはハンドルを切ったのか俺たちに直撃はしなさそうだったが。
荷台に乗せられた廃品と思しきものが俺たちに降りかかってきた。
特に大きなものを右腕で払いのけて、腕に激痛が走るが構うことなく、光ちゃんを自分の背で庇う。
背中に走る大小の痛み。
幸い、頭部には何も当たらなかった。
俺の下になるように倒れている光ちゃんを見る。
ああ、よかった、怪我はないみたいだ。
「光ちゃんは、いのりちゃんをお願い。そのあとライリー先生に連絡を。俺は事故った運転手の様子を見て警察と救急に連絡を入れてくる。急いで!」
俺の姿をまじまじと見せないために、いつになく強い口調で追い立てた。
角度的に、背と腕の怪我は見えていないはずだ。
混乱気味だったのもあるだろう、光ちゃんは大人しく俺に従ってくれた。
街路樹にぶつかって止まっている車に近づいていく。
ガソリンの匂いはしない。
これならもっと近づいても良いだろう。
途中、廃品をまとめるためのものだろうか、長めの結束バンドが転がっていたので念のために拾った。
運転席のドアは衝撃で脱落している。
運転手は、生きてはいるな。
だが、事故で変形した車に足を挟まれている。
その足の出血もひどそうだ。
くそ、光ちゃんやいのりちゃんが怪我をしていたら容赦なく見捨ててやったのに。
怪我らしい怪我したの俺だけだからな。
運がよかったなアンタ。
結束バンドで応急だが何とか止血を施す。
見ると自分の腕の出血も思ったよりひどかったのでそちらにも。
救急に電話して、なるべく正確に状況を説明する。
その途中、光ちゃんがこちらに来ているのが見えた。
受話器を抑えて声を上げる。
「ごめん!運転手の人の怪我がひどいんだ!見せたくないからこっちには来ないで!」
これも嘘じゃない。
一番見せたくないのは俺の怪我だけど。
警察には救急の方から連絡してくれるらしい。
運転手を救助するための人員も手配してくれるという。
ほっとしたら、力が一気に抜けそうになった。
だけどまだ駄目だ。
電話の向こうの相手も、意識を失わないように言っている。
分かっている。
出血が多いんだ。
止血もしたし大丈夫だとは思うが、ここで意識を失うと最悪がありうるかもしれない。
意地で意識をつなぎとめて待っているとサイレンの音が聞こえてきた。
救急車二台と、ライリー先生がやってくるのはだいたい同時だった。
多分だけど、ライリー先生はこの場所を特定するのに時間がかかったんだろう。
恐らく動揺が著しかったであろう光ちゃんの説明だからな。
「理凰君!?」
「うそ、理凰!?」
ああ、クソ、ばれた。
「大丈夫、大した怪我じゃない」
嘘だとバレバレでも、そう言わなくちゃいけない。
光ちゃんが、あんな顔をしているんだから。
救急隊員が俺を担架に乗せる。
俺はそのまま救急車へ。
ライリー先生と一緒に来ていた慎一郎さんに今気が付いた。
俺もさすがに余裕がなくなってたか。
慎一郎さんに同乗してもらっている車内で輸血を受ける。
もう大丈夫だと。
隊員の人に言われて俺は意識を手放すことしかできなかった。
光ちゃんが悲痛な声で俺を呼んでいたのに、俺は応える事が出来なかった。
狼嵜光視点
なんで。
どうしてこんなことになったんだろう。
ぐるぐるとそんな思考だけが繰り返される。
ほんの少し前、それこそ数時間前までは、一緒に笑いあっていたのだ。
ようやく一歩を踏み出せた私の滑りを、理凰は凄く褒めてくれて。
私自身、殻を破った実感があった。
私は確かに前に進んだ。
理凰との約束の通りにずっと一緒に進んでいけるって、改めて自信を持てた。
でも。
一瞬だ。
本当に一瞬で。
私はただ理凰に守られて。
おかげで私は無傷だったけど、理凰は今、ベッドで眠りについたまま目を覚まさない。
麻酔が効いているだけで、それが切れれば目を覚ますとお医者さんは言っていたけれど。
怖い。
どうしようもなく怖くてたまらない。
私と出会う前の理凰が記憶を失うことになった交通事故。
それと違って今回は頭を打っていないというけど、心に受けた衝撃はどうだろうか?
目を覚ました時。
理凰は、本当に私の知っている理凰だろうか。
目を覚ました理凰が、私の事を覚えていなかったら?
ずっと、体が震えてとまらない。
縋るように理凰の手をずっと握っているけれど。
どうしても震えは止まってくれなかった。
だって、無理だ。
そんなことが起こってしまったら、私はもう生きていけない。
理凰が身を挺して守ってくれた体を傷つけるようなことはしないけど。
心はきっとどうしようもないほどに壊れてしまって、元に戻らない。
そんな確信がある。
理凰が寝かされている病室についてから、私はずっとそうして理凰の手を握って、ただただ震えていた。
途中何人かの人が来ていたような気がするけど、よく覚えていない。
神様になんて願わない。
だって、あなたはいつも理凰から奪う。
記憶を奪って。
子供でいられたはずの時間を奪って。
最近では、居心地のよかった居場所さえ奪った。
あんなものが選択だなんて、私は絶対に認めない。
理凰は、いつだって、そうするしかなかったじゃないか。
ずっと、私は許せないと思っていた。
それが、今の理凰を形作っているのだとしても。
私の大好きな理凰が、その犠牲の上にだからこそ存在していられるのだとしても。
なんで理凰なのって思わずにいられない。
だから、私は神様が嫌いだ。
ずっと嫌いだったのに。
いやだ。
願いたくなんて無いのに。
でも。
だけど。
神様でも、悪魔でも、運命だって何だって良いから。
お願いだから、私から理凰を取らないでください。
理凰は大切な人なの。
ずっとそばにいてほしいの。
理凰がいないと、私はもう、どうしたらいいのかわからない。
生き方も、歩き方も、立ち方も、息の仕方だってきっと分からなくなってしまう。
だから。
だからどうか。
ただ必死に、理凰の手を握りしめて目を閉じて一心に願う。
でも、やっぱり願いは届かない。
理凰は目覚めない。
「やだ。やだよ、理凰。お願いだから目を覚まして。私の名前を呼んで」
ずっと涙が流れ続けて、痛みすら感じる。
不意に、私の頬を、何かが撫でた。
私は弾かれた様に顔をあげ、目を見開いた。
うっすらと開かれた理凰の目。
「ごめん、光。そんな風に泣かせるつもりはなかったんだ」
かすれた声で。
でも、私の知っている理凰の声で。
理凰は私の名前を呼んでくれた。
まだ、麻酔は切れていないはずなのに。
私の声が聞こえたから?
ああ、でも、今はそんなことはどうでもいい。
わたしは、理凰の背中の傷には触れないようにだけ気を付けながら、必死で理凰に抱き着いた。
「理凰……理凰……!」
言葉なんて思い浮かばなくて、ただ名前を呼んだ。
理凰は力の入っていない手で、それでも私の髪を撫でてくれた。
いつもの理凰の手つきだった。
「俺は大丈夫だから。もう泣かないで、光」
かすれているけど、いつもの理凰の優しい声。
「ああ、駄目だな限界だ。もっとこうして撫でてあげたいのに。ごめん光。もう少しだけ眠るね」
「うん。わかった」
もう、不安はなかった。
震えも止まっていた。
涙は、今度は嬉し涙が流れてしまっているけれど。
気が付けば、理凰の手を握ったまま夜が明けていた。
理凰は今度こそ麻酔が切れてちゃんと目を覚ました。
慎一郎とエイヴァが連絡を受けてやってきて、理凰の無事な目覚めを喜んでいる。
少し遅れて、ライリー先生もやってきた。
「理凰君、今日の滑走の事だけど……」
その言葉を聞いたとき、思わず握っていた理凰の手にさらに力が入ってしまった。
少しだけ涙も。
だって、こんな理不尽な形で。
そんな風に思った瞬間、涙の零れた目に、涙をぬぐうようにキスをされた。
頭が真っ白になる。
「俺は滑りますよ。この程度の傷、見た目だけで大したものじゃないので」
嘘だ、そんなはずない。
そう思うのに、キスの衝撃から立ち直れない私は声が出なかった。
「はぁ。夜鷹さんが言ったから棄権はまだしないでいたけど、本当にこうなったかあ」
理凰が、いつになく強い感情をのせて私の目を見つめている。
こんな目は、あの夜に見て以来だ。
「光、昨日の光の滑りは本当に素敵だった。俺は約束通り、しっかりと見ていたよ。だから、今度は光の番だ」
止めたいけど、無理だ。
目を見たらわかる。
それにきっと、理凰は私の為に滑ろうとしている。
「今日の俺の滑りをしっかりと見ていて。いつかの夜に負けないくらいの滑りを見せるから。俺は大丈夫だって、こんなものかすり傷のうちにも入らないって、信じさせてみせるから」
だからもう、そんなことを言われてしまったら、私には理凰を止める事なんてできなかった。