日はとっくに落ちていたけれど、そこは夕暮れ時のように赤く明るかった。遠くから炎に照らされ何もかも赤く染まっている。世界全てが燃えているようなのに、炎に炙られる少女の心は冷えていた。
空では星々が瞬いているはずなのに、黒煙に覆われて曇り空のよう。煙に乗って脂が燃える臭いが届く。
血が焦げる臭い。人の脂が燃える臭い。人が焼け死ぬ臭い。家が燃えて人も燃えて街の全てが燃える臭い。滅びの臭い。死の臭い。
死がそこかしこに散らばっていた。
父は倒れた壁の下敷きになった。バケツをひっくり返したように壁の下から血が流れて、その時に一生分の涙を流したと思った。叫び過ぎて喉が痛み、声が出せない。
出せてもきっと泣けなかった。
きっと悪い夢だった。
父も友達もパン屋のおじさんも全部全部死んでしまった。
燃えている人を見た。半分になってる人を見た。大穴が空いて捨てられている人を見た。
母は見せないように庇ってくれたけど、目を覆うより走らなくてはならない。
彼女は全部見てしまって、人が燃える臭いを嗅ぎ、幾つもの断末魔を聞いた。
彼女が怪我らしい怪我をしていないのは、母が手を引いて火の粉から庇ってくれて、息が切れて心臓が暴れて一歩も動けない彼女を背負ってくれたからだ。
運良く火の手と追っ手がない崖の上まで辿り着けた。
そこであれに出くわした。
母が死のうとしている。
煤だらけになった白いドレスは、街が燃える炎に照らされて赤く染まっている。濡れたところは赤ではなく真っ黒に見えた。母の体は黒いものに覆われて遠いところへ引き摺り込まれようとしている。
さっきまで力強く引っ張ってくれた手は、だらりと下がって緩く開かれている。あの手で何度も頭を撫でてもらった。美味しいお菓子を焼いてもらった。今朝は自家製のパンが朝食に出た。今は真っ赤で、真っ白だった。
真っ白だろうけど赤く見える母の顔は、彼女に向かって何度も唇を動かした。声はなく、微かに震えながら唇だけがのろのろと開け閉めする。
始めは微笑んでいた母は、彼女が座り込んで動かない事に怒りの形相を見せた。少女は咄嗟に動こうとしたが、足が動かなかった。
優しい母だった。大人しい子供であった彼女は、母に怒られた記憶がない。母が怒っているのは初めて見る。母はこんな顔で怒るのかと、どこか遠くで感じていた。
優しい母を怒らせたくない。でも動けない。動けたとしてもきっと動かない。
母は何かを悟ったのだろう。彼女が動こうとしない事にふっと微笑んで、それを最後に表情が抜けた。
ああ、母は死んでしまったのだ。
彼女は呆然とそんな事を思った。
こんなもの、現実なはずがない。そうだ、これは悪い夢なのだ。朝になれば、母はいつものように微笑んで起こしてくれる。父は「寝坊助め」と笑って頭を撫でる。
今日の朝はそうだったのだから、明日もそうに決まっている。
夢だから寒くもないし痛くもない。頬に触れた煤のざらつきも、喉に絡む焦げ臭さも遠い。
母が死んで泣かないわけがない。質の悪い舞台を見せられているようだ。
夢から覚めれば、きっと昨日と変わらない明日が始まる。
ドサリと母の体が地に落ちて、次は自分と彼女は悟った。
それは舞踏会でパートナーを誘うが如く優雅な足取りで近付いてきた。
優雅な足取りに相応しく優雅な装いをしている。それこそ舞踏会に参加するお貴族様。
顔立ちはとても整っている。肩より長い金髪は金砂のようだ。
そして頭部にある一対の捻れた角が全てを無に帰した。
優雅な影からは死の臭いがした。
その男は静かに佇んでいた。月の光を受けた金髪は、揺れる炎に照らされ妖しく輝く。目は無機質で、何を考えているのか分からない。けれど、その視線には確かに意志があった。
彼はただの殺戮者ではない。獣ではない。そこに立つ姿は人に似ていたが、決して人ではなかった。
綺麗な顔をしているけれど、頭に角を生やした種族を彼女は知っている。
何十年か前に首魁を勇者が討ったのだが、脅威は全く衰えない。今も昔も、人類の死因はそれらによる殺害が不動の一位。
人と似た姿をしているのに中身はまるで違う。恐ろしい力を振るって人を殺し、肉を喰らう。
彼女は知識として魔族を知っていた。見るのも遭うのも今日が初めてだ。
母は魔族に喰い殺された。
たったいま母を殺した魔族は感情らしい感情を顔に浮かべていない。
目の前に立たれ、彼女は呆と魔族を見上げた。何も感じなかった。恐ろしいとさえ思わなかった。
炎の熱さも夜の寒さも、魔族の恐ろしさも感じない。感じる心は凍てついた。
父は一瞬だった。
壁に押し潰されたので亡骸は見ていない。壁下から真っ赤な血が流れてきた。
母は吊るされ心臓を抉られた。父よりは長かったけれど、叫んだりはしなかった。彼女を怖がらせないよう最後の力を振り絞ったのかも知れない。少なくとも、彼女の目には長く苦しんだようには見えなかった。
自分は母よりずっと小さいからあれだけ血が流れれば引き千切られる前にきっと死ぬ。
それまでは痛くて苦しいかも知れないけれど、これは悪い夢なのだ。きっと痛くも苦しくもなく終わるはず。
そうしたら夢が終わる。夢じゃなかったとしても、父と母のところへ行ける。
それなのに、魔族は彼女の前に佇むばかりで何もしない。
何も映さない空虚な目で見下ろしている。
「殺さないんですか?」
彼女があと十秒も黙っていられたら、彼女が望む通りになっていた。
たったいま女の心臓を喰らったばかりの魔族は腹が膨れている。それでも殺人に何の感慨もないのが魔族。息をするように殺して、目に付いたから意味もなく殺す。
少女は逃げると思ったが、逃げないのならついでとばかりに殺しておこうと考え、魔法を発動しようとしたところで少女の言葉が縫い止めた。
殺すべきなのか。魔族なら殺すはず。なのに何故か手が動かない。
死を望んでいるらしい。命乞いをされた事はあったが、その逆は初めてだった。
ふと、疑問が湧いてきた。何も知らないかつての彼なら、女諸共少女の体を引き裂いていた。他の魔族も同じだろう。
今は、少し、違う。
殺人に躊躇いはなくても、食べもせず脅威でもない少女を殺す事に果たして意味があるのかと考えてしまう。
魔族は猛獣に例えられる事があり、彼もそれに同意する。しかし獣は食べもせず敵でもないものを殺す事はない。
それをする魔族は何なのか。
飢えているわけではなく、殺人への強い欲求があるわけでもない。ただそこにあるから殺すのが魔族である。
果たして、魔族はどのように人を殺したくなるのか。
その瞬間に何を感じるのか。
「え?」
少女が望む刃は振り下ろされず、小さな体は魔族の腕に抱き上げられた。
母の血に塗れた手で触られた。
「お前を殺すまで生かしておこう」
彼女には、魔族が何を言っているのか理解出来なかった。
人を殺すのが魔族。たったいま母を殺された。それがどうして自分は殺されないのか。生かすと言うのか。父も母も死んでしまったのに。
殺せと叫べば殺してくれるのか、恐ろしさに泣き喚けば殺してくれるのか。
悪夢は終わらず、けども夢のように現実感がない。
ただただ寒くて、心が押し潰された。
街を燃やす炎が遠くになっても、彼女の涙は流れなかった。
翌日、滅んだ街を望む崖の上で、老いた僧侶は黙って女の亡骸を見つめ、静かに目を閉じた。
全10話(予定)、計5万字程度(予定)の短編
一時間後に二話投稿
以降、忘れなければ書いたところまでは連日投稿
現在八話執筆中
3.16記
最終話のPVが一話超えそう
どういう現象なのだ?