いつからか、少女は数えるのをやめた。朝が来て、夜が来る。ただそれだけの日々が繰り返される。
朝起きたら淡々と食事を取って夜の訪れを待つ。暗くなったら眠るだけ。
食事は母の手料理とは比べ物にならない。
味のない麦粥と果物。干し肉もあったが、少女は絶対に手を付けなかった。
日に何度か、獣道を通って近くの川に水を汲みに行く。
何日も何日も経っているのに、少女は未だ一緒に暮らす魔族の名を知らない。
いや、一緒に暮らす、なのだろうか。単に同じ家で寝起きしているだけではないのか。
魔族の足音は異様に静かで、目を瞑ればいるのかいないのかわからなくなる。
魔族の男が家の中にいる時は、少女は外に出て暗い森を眺める。
魔族の男が外に出る時は、少女は埃っぽいベッドの上で蹲り、膝の間に顔を埋める。
同じ家にいるのだから、望まなくても日に何度か顔を合わせる。少女が挨拶をしても、魔族は少女を一瞥するだけで何も言わない。
魔族は時々留守をした。
暗くて寒い家の中に少女は一人きり。生まれて初めて一人きりになった。
父は仕事に出掛けるけども、夜になったら帰ってくる。優しい母はいつも一緒にいてくれた。彼女が夜の闇に怯えて泣くことは一度もなかった。
今は、魔族が出掛けると一人きりになる。
昼間なら外に出られた。いつも水汲みに行く川まで行って、あの向こうは、と思う事もあった。その向こうは暗い森だ。一人で入ったら絶対に迷ってしまう。その果てに飢えて死ぬのか、それとも獣や魔物に喰い殺されるのか。
あの時は父と母の元に行きたかったけれど、今の彼女は生きている。確実に死ぬと思えば足が竦んで川を渡れなかった。
そうして何度も同じドアを開ける。
夜の闇はとても深い。昼でも暗い森は、夜になれば真っ暗だ。夜の闇が怖いのを、彼女は初めて知った。手を握ってくれる母は、もういない。
月明かりすら届かない黒の世界。風が木々を揺らす度に、見えない何かがこちらを窺っているようだ。魔族より恐ろしいものがいるはずない。なのに怖くて堪らない。
遠くで獣が吠える度に小さな体を抱き締めて、尽きたと思った涙を流した。
魔族が帰ってくると心の何処かで安堵する自分が信じられなかった。安心する自分を振り払おうとするが、体は勝手に弛緩してしまう。
母を喰い殺した恐ろしい魔族だ。人を殺す魔族だ。人肉を喰らう魔族だ。
だと言うのに、彼がいれば夜の森が怖くて泣くことはない。
そんな事を感じる自分は、母を穢しているのではないか。
優しかった母を冒涜するなんてあり得ない。それをしてしまう自分は、とっくに人間ではなくなってしまったのではないだろうか。
魔族に囚われて、季節が一つ過ぎようとしていた。
その日も魔族の男は何処かへ出掛け、彼女は震えて眠った。
朝も早く。太陽が昇る前に家のドアが開いた。丈夫なドアだが蝶番が錆び付いて、開け閉めすると不快な音を響かせる。
なのに彼女は安堵を覚えた。魔族に殺されるかも知れないが、夜の闇に凍える事はない。
今まで何度か同じように思って、その度に苦しくなって涙が溢れる。
辛くて苦しくて疲れ果てて眠りに落ちる。これまではそうだった。
魔族が自分の部屋の前を素通りしようとしたその時、少女はベッドから飛び降りた。
怯えて泣くだけだった彼女を突き動かしたのは、真っ赤な情動。凍えて久しかった心が熱くなってる。
飛び降りた勢いのまま、ドアから飛び出した。
少女がドアから飛び出て来るのを、魔族の男は初めて見た。
今まで、頑なに顔を合わそうとしなかった。それについては何とも思わない。人間が考える事なぞ魔族の彼にはわからない。
それが突然飛び出てくれば、意外と感じる。
これまで起こらなかった事が起きた。そこには結果を導く原因がある。少々疑問に思ったが、人間のする事為す事に興味はない。
怪訝に首を傾げた切りで踵を返そうとした。
しかし、少女の言葉は動揺を誘った。少女は震える声でこう言った。
「わたしを殺すのに、どうしてあなたは他の人を殺すんですか?」
ベッドで震える少女が嗅ぎ取ったのは、魔族から漂う死臭だった。近付けば血臭すら嗅ぎ取れる。この魔族は、外で誰かを殺してきたのだ。
彼女があれほど願った死を与えず、魔族は彼女を生かしている。それがどんな理由であれ、彼女の死は魔族の手の中にあるはずだった。いつか殺すために生かしている。彼女がここにいるのは彼に殺されるためだけだ。
なのに他の誰かを手に掛けた。
彼女はまだ生きているのに誰かを殺してきた。
裏切りと思った。
夜の闇も魔族の力も忘れ、怒りが彼女を突き動かした。
「邪魔だったからだ」
「わたしは邪魔じゃないんですか? 他の人を殺すならわたしを先に殺してください」
「……」
言い訳じみた言葉だと、彼自身が思った。
少女を殺すのは決めた事。殺したくなる瞬間を感じたい。魔族が人類を殺す理由を探りたい。
少女の感傷も人類との共存も全く関係ない。純粋に彼が自身に向ける疑問である。
少女を傍に置きながら自身を観察しているのに、そこで少女以外を殺すのはノイズとなってしまうのではないか。少女がそれを知るはずがないのに、真正面から突き付けられた。
もしかしたら魔族は、一定期間以上人間を殺していないと殺人への衝動が出てくる可能性もある。
折角の観察が台無しになる可能性があった。
「そうだな。お前の言う通りだ。私が次に殺す人間はお前にしよう」
「……フェルンです」
「フェルン?」
魔族は少女の言葉がわからない。名前らしいとは思ったが、何故名乗ったのか。
「あなたが殺す人間です。わたしはフェルンと申します」
「そうか」
それきりで言葉が止まる。奥へ戻ろうとする魔族を、フェルンは睨み付けた。
フェルンはお前呼ばわりされるのが嫌だった。父と母が付けてくれた名前がある。
魔族に問い掛けるのも嫌だ。魔族の事なんて知りたくもない。それ以上に「あなた」と呼ぶのも嫌だ。だから、聞いた。
「……何と言うお名前なんですか?」
「リュグナーだ」
短く答え、リュグナーは奥に消えた。問答の時間すら惜しいと言うように。
それからフェルンの日常が少しだけ変わった。具体的には食事を作るようになった。
母がしていた事の見様見真似。味も見た目も到底及ばない。それでも、麦を煮ただけの味がない麦粥に比べたら遥かにいい。
幼いフェルンは食事の量が少なく、一人分を作るのはむしろ面倒だ。大目に作って後で食べようと思っていたが、いつの間にかなくなっている。
リュグナーが食べたのか捨てたのか。
ある日、食事を作らないでいたら、
「まだ用意してないのか?」
と言われた。
「リュグナー様の食事を作ってるつもりはありません」
と、フェルンは答える。その時、フェルンは魔族が表情を変えるのを初めて見た気がした。
魔族でも不味い麦粥より美味しい料理の方が良いらしい。
「リュグナー様の分も作った方がいいですか?」
「……ああ」
今までけして手を付けなかった干し肉を料理に使うようになった。
人間の肉ではと恐れていたが、目の前で獣を解体するところを見せられれば疑いようがない。
リュグナーは黙って食べるだけだが、いつだって全部食べる。それがフェルンに奇妙な高揚をもたらした。
リュグナーに挨拶しても相変わらず返ってこない。
しかし、問い掛ければ返ってくると知った。無味乾燥で感情を滲ませない声と内容でも、聞けば答えてくれる。
リュグナーは家にこもって何をしているかと思えば、本を読んでいるらしかった。魔族の秀麗な顔が嫌悪に歪むのが、フェルンには不思議だった。
奥の部屋にはずらりと並ぶ本棚にぎっしりと本が詰まっている。リュグナーが集めたわけではないらしく、彼がこの家を見付けた時からあったようだ。昔昔、地位のある人間が作った家だろうと聞かされた。
フェルンが本を手に取ってもリュグナーは何も言わない。好き勝手に読むようになった。
フェルンが家の外に出る回数も増えた。
今までは水汲みのために川へ行くだけだったが、用もなく足を運ぶ事もあった。
川のせせらぎに耳を傾け、水の流れをぼうっと見詰める。
出掛けるでもなく家の外に出るリュグナーが、魔力を増すために瞑想しているところを何度も見てきた。
自分にも出来たら。あの時魔法が使えたら。何度も自問した。自問する度に、どうしてリュグナーといるのかと自問が続く。
母を殺した恐ろしい魔族なのに、どうしてリュグナーといるのか。どうしてリュグナーと言葉を交わすのか。どうして一人きりよりリュグナーがいた方が安心してしまうのか。
そんな事を思う度に悔しくて涙が出る。
そんな事よりも心を落ち着けて魔力を練るべきなのに。
難しい本を読み、わからないところは恥知らずにもリュグナーに聞いて、少しずつ魔力の制御を覚えていく。
リュグナーはフェルンが練習している事に気付いていたが、何も言わなかった。興味もなかった。
また季節が過ぎて寒くなってきた。
森の中だから薪はいっぱいある。暖炉にはいつも火が入っていた。
フェルンは凍える事も飢える事もない。
ただ、水を汲むのは辛くなった。
水は重いので、フェルンには鍋一つ分の水しか運べない。
フェルンがしなければリュグナーが勝手に汲んでくる。フェルンが熱を出した日はそうだった。あの日、父の夢を見た。寝て起きたら不味い麦粥があった。
その日もかじかんだ手を擦り合わせ、桶を手に川へ向かう。
寒いけれど、寒いからこそ気が引き締まる。木々に囲まれて風がないのも幸いだ。少しだけ瞑想をして魔力を練って、それが引き寄せてしまった。
「やっぱり人間の子供だ。なんでこんなところにいるんだ?」
「え?」
久しくリュグナー以外の声を聞いてない。こんな森の奥に誰かが訪れる事はない。
人里からの道は途中で崩れた挙句に忘れ去られたらしく、誰かが迷い込む事もない。
ここまで来るのは森に潜む獣か魔物。どちらもリュグナーを恐れて近付かない。
なのに、大人に成り切らない少年がいた。整った顔立ちに身なりの良い衣服。
そして、頭から生えた一対の歪んだ角。
「まあいいか」
少年は魔族らしく何の感慨も見せずに魔法を放った。
フェルンには何が起きたかわからない。ただ反射的に桶を振り回した。
左手だけで振ったのは幸いなのか不幸なのか。
左腕に絡んだ魔力の糸は、音もなく締まった。
フェルンの左手が宙を舞った。
痛くはない。
ただ、凍えた空の下でとても熱かった。