フェルンの日常がまた少し変わった。
食事の準備をして、リュグナーと一緒に食事を取ったり取らなかったり。食卓に色彩が増えたのは喜ばしい限りだ。リュグナーは相変わらず無言で食事を取るが、毎回全部食べるし、食事のペースが前より少しだけ早くなった。
それに加えて、本格的に魔法の訓練を始めた。瞑想をして魔力の存在を掴み制御するところまでだ。魔法の発動まではまだ届かない。
本を読んでの独学であるが、魔力制御に関してはこの上ないお手本が傍にいた。リュグナーである。
魔族とは魔力量に非常な重きを置く種族であるとハイターに聞かされた。しかしリュグナーは魔力量よりも制御に重きを置いているらしい。リュグナーの魔力はとても静かで操作は緻密だ。それを言ったら珍しく顔を苦く歪めて「魔族の風上にも置けん」と吐き捨てた。
下手な事を言って怒らせてしまったかと思ったが、リュグナーの怒りはフェルンに向かわなかった。
フェルンの日常が変わったのと同じように、フェルンの背も少し伸びた。育ち盛りの成長期で、少し見ないだけで見違える。ハイターは会う度にフェルンの成長を喜んだ。
ハイターの元に行くのは月に一度。当初のリュグナーは、食糧だけ受け取ってフェルンの顔を見せたらすぐに帰ろうとした。
訪問の目的は食糧を受け取ること。ハイターはリュグナーから死臭がないことを確認する。どちらも一瞬で済む事を、ハイターが引き留めた。
食糧提供を餌に月一の訪問を勝ち取ったハイターであるが、やはり魔族が望む事はわからない。月一の訪問とて奇跡のようなものだ。
ハイターにとって、リュグナーはどうでも良いとは言わないが、重要ではない。魔族と人間が共存する夢を、今更見る事は出来ない。フェルンとリュグナーの関係はいつか終わる。リュグナー自身が、いつかフェルンを殺すと宣言している。それが一年後か十年後か、或いは明日になるかもわからない。
確実に訪れる未来を避けるには、フェルンをリュグナーから引き離すしかない。幸いにも、リュグナーはフェルンを傍に置いても強い執着はないらしい。美味しいご飯には食指が動くようだが、その時は様々なレシピと共に料理の仕方を教えてやれば良い。魔族に料理を教える未来がある事に、ハイターは思わず声を立てて笑った。
問題はフェルンにある。フェルンが自ら望んでリュグナーの傍にいるように思えてならなかった。何とかして説き伏せたい。その時間がない。リュグナーと共に訪れるフェルンは、リュグナーと共に帰ってしまう。フェルンとの時間を作るには、リュグナーを引き留めなければならなかった。
ハイターの住まいは郊外で近隣に人家が皆無とは言え、森に入る人までが皆無な訳ではない。魔族であるリュグナーを人目につかせるわけにはいかない。
どうすればと頭を捻り、魔族なら魔法が好きだろうと安直に考え魔導書を見せた。
「お貸しする事は出来ませんが、ここにいる間でしたら好きに読んで構いませんよ」
「ほう……」
高位の僧侶であったハイターである。時に書き物をする広い書斎には、本棚にびっしりと書物が詰まっていた。
興味深そうに背表紙を眺めていたリュグナーが手にしたのは、魔法とは全く関わらない一冊。哲学書だった。リュグナーの選択が、ハイターには意外だった。
「そうさせてもらおう。日が暮れたら戻る」
「ええ、ええ。どうぞ好きなだけ読んでください」
人々が空を仰ぐ時間は短い。上よりも前と下を見なければならないからだ。それでも皆無ではない。そのタイミングで少女を連れた魔族を目撃されたら大変な事になる。
そうと知るリュグナーは、太陽が東の果てに隠れている時間を選んでハイターの元を訪れた。リュグナーは夜を主張したのだが、老人は朝早く夜も早いと云うハイターの主張に譲っていた。リュグナーとしてはどちらでも良かった。むしろ早起きを強いられるフェルンの方が大変だった。
大変ではあるけれど、フェルンはハイターの元に行くのが好きだった。
食糧を分けてもらえて、甘いお菓子の用意もある。いつだって素っ気ないリュグナーに比べたら、ハイターはいつもにこやかで優しい。ここで暮らせたら、と思ったことが一度もないとは言えなかった。
一番の理由は、リュグナーに抱き上げられて飛行するから。
始めは荷物扱い。次は腕に座らせてもらった。それから一年も経つとフェルンは前より大きくなって、横抱きで持ち上げられる。
リュグナーと暮らすようになってそろそろ二年が経とうとしている。しかし、言葉で触れ合うことは稀であり、手で触れ合うことは皆無だった。唯一の例外が、ハイターの元へ通う時。
間近に整った顔を見ると、ここならば絶対に安心だと確信できた。それ以外にも、奇妙な高揚がある。それがなんであるか、子供であるフェルンは名付けられない。鼓動が速くなるけれど、それが怖いのか嬉しいのか、自分でも分からなかった。
「フェルンが望むならいつまでもここにいて構いませんよ? リュグナーへはああ言いましたが、報告するつもりも討伐隊を差し向けるつもりもありません。彼は非常に珍しい魔族です。魔力より知の獲得を優先している。フェルンがいなくても進んで人を殺すことはないと思いますよ?」
「進んではしないかも知れません。でもするかも知れません。それに私がいなくなったら誰がリュグナー様のご飯を作るんですか?」
「教えたら出来るようになるでしょう」
「無理です。ハイター様はリュグナー様を知らないからそう言えるんです。リュグナー様に料理なんて出来ません。出来るのは水を沸かしてお湯にすることだけです。お塩の使い方だって知らない方なんですから」
「そう、ですか」
魔族に料理を教える未来が潰えたが、ハイターは苦笑するに留めた。
「そもそもどうしてフェルンはリュグナーと一緒に? リュグナーの目的は聞かされましたが、そんな事のためにわざわざフェルンを拐ったとは思えないんです」
「それは……」
フェルンの口が閉じた。先の冗舌が嘘のように暗く沈む。
人間の少女が魔族と暮らすのだから、そこには必ずや悲劇がある。ハイターはそれを想像すべきだった。害意を見せないリュグナーが口を軽くさせてしまった。一瞬後には自分の発言を後悔し、話さなくても構いませんよ、と優しい声音で告げた。
「リュグナー様は母様を殺しました。私の目の前で」
魔族が関わるなら、ありふれているとさえ言える悲劇。決定的に違うのは、その場にいたフェルンが生きていること。
母と娘がいて魔族が母を殺したならば、確実に娘も殺している。ハイターが知る限り、ただの一つの例外もない。リュグナーが例外なのか、それともリュグナーにとってはフェルンの母を殺したのが例外なのか。ハイターはどちらであるか知る術がなかった。ただ、フェルンの小さな体を優しく抱き締めた。
「街が襲われて、父様は死んでしまって、母様は私を連れて逃げてくれて、そこで、リュグナー様に」
「フェルン! それ以上言わなくていいんですよ。いいえ、言ってはいけません。辛いことを思い出させてしまいました。申し訳ありません」
「……思い出してません。忘れていませんでしたから」
あの日。母は微笑んで、怒って、最後に微笑んで、死んでしまった。忘れることなんてありえない。
リュグナーは母を殺したその手で、フェルンを抱き上げてハイターのところまで飛んでくる。忘れたことはない。ただ、意識しない時はある。
いつか殺すと言われたが、守ってくれたのもリュグナーだ。ハイターに左手を治療された日、リュグナーが守ってくれなければあのまま少年魔族に殺されていた。
母を喰い殺した魔族で、自分の命を守ってくれて、一緒に暮らして、傍にいれば安堵を覚えてしまう。
何でも無言の無表情で食べるけれど、出されたものは全部食べる。食べる速さでリュグナーの好みがなんとなくわかってきた。
魔法は何も教えてくれない。でもリュグナーが魔法の研鑽をしているのを見ていても邪魔だとは言われない。精緻な魔力運用を自分の目で見るのは、魔導書を何度も読むより学ぶことが多かった。
ハイターのところへ飛んでくる時、片手で抱き上げられていたのがお姫様抱っこになった日を覚えてる。こっちの方が安定しているとフェルンが提案し、リュグナーは抵抗なく受け入れた。妙に顔が熱くなった記憶がある。
しかし、リュグナーは母を喰い殺した魔族である。
血の刃で母の体を吊り上げ、胸を開き、脈打つ心臓を取り出した。母の一部がリュグナーの口に運ばれるのを、フェルンは瞬きせずに見ていた。
恐怖はなかった。悪い夢だと思った。目の前の現実を幼いフェルンは受け止められなかった。しかし、紛れもなく現実に起こったこと。
「それに、私がいなくなったらリュグナー様は私以外の誰かを殺します」
「……そうかも、知れませんね」
「はい」
ハイターは何度も聞かされた言葉。フェルンをリュグナーから引き離そうと思っても、最後にはこの言葉が出てくる。
それがあるからこそ自分はリュグナーの傍に居られるとでも言うように。
こんな時のフェルンは、目に冷たい光が宿る。まるで、あの魔族のように。
すぐに優しい少女に戻った。
「そろそろ暗くなります。夕ご飯の支度をします」
「……ええ、私も手伝いますよ。フェルンにばかりさせるわけにいきませんから」
「ハイター様は座って待っていてください。手伝ってもらうならリュグナー様です。リュグナー様は食べるばっかりですから」
「リュグナーの魔力制御は見事なものです。傍に居てもほとんど魔力を感じない。あれと同じくらいに精密な塩加減を覚えたら一流の料理人になれると思うのですがね」
「リュグナー様が塩を入れたら大さじ一つとカップ一つの区別が出来ないと思います」
「……いやそこまで酷いとは」
「そう思います」
「……そうかも、知れませんね」
「そうに決まってます」
フェルンはリュグナーを絶対に厨房に入れないつもりであるらしい。
固い決意に、ハイターは何度目かの苦笑を漏らした。
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二人がそんな会話をしてから一ヶ月後のこと。
まだ暗い夜道を歩く白い影があった。
ハイターの住まいは郊外なだけあって、森の中にある獣道を通らなければ辿り着けない場所である。聖都では高い地位にあったハイターなので、政治やら何やらに巻き込まれるのを嫌ったからだ。
苦労して引っ越した甲斐あって、俗世のいざこざに巻き込まれた事は一度もない。かつてのハイターを知る訪問者は一人もない。
しかし、例外はあった。
「あの生臭坊主、まだ生きてるかな?」
迷いやすい獣道を歩きながら、白い少女が独りごちる。
彼女にとっては、少し前一緒に流星群を見た。直後に勇者の葬儀であった。間をおかずに会いに来たようなものである。
不老のエルフにとって、文字通り十年は一日に過ぎない。最後に会ってからたったの二十年だ。人間にとって二十年はとても長い時間と知ってる彼女であるが、どうしても実感がない。だから平気で五十年も会わないでいた。
そんな彼女がハイターの元を訪れるのは、聖都まで買い出しに来たついでである。
二十年前、最後に会った時も随分と貫禄が出て老いたと思ったものだった。それから二十年。手紙の一つも送らなかった。生きているか死んでいるかすら知らないでいる。
むしろ死んだつもりで、墓に供える酒を買ってきた。若かりし頃のハイターは凄い酒豪で、酔っていない方が珍しい。いいや、酔っていない時があっただろうか。
そんな事を思い出すと、彼女は少しだけ面白かった。白い美貌はそよとも揺らがないけれど。
数多の魔族を葬り、付いた二つ名は「葬送」。
葬送のフリーレンが、少女を連れる魔族に出逢おうとしていた。
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