ヤン・ウェンリーと言う人物は、無責任に彼を英雄視する者たちを失望させるほど年金生活への憧(あこが)れを公言し続けていた。
しかし宇宙暦800年の8月が9月に変わろうとする頃に成っても、理想の年金生活は今だに遠く、どうやら給料分くらいは、仕事をしないと成らない様だった。
かつて自由惑星同盟がフェザーン自治領に駐在させ使用していた弁務官府と高等弁務官公邸は、再び同様な使用目的のために利用されていた。
とは言え、どうしてもヤンには仮住まい感覚が抜けない。
結局の処、これは知性よりは感情に属する理由だろう。
この公邸歴代の住人たちとヤンとは、互いに理解を放棄している精神世界の住民だった。
そして公邸や弁務官府の周辺には、常に数台の地上車が停車していた。
Mrs.キャゼルヌの言い分では無いが「公費で盗難の心配をしないで済む様にしてくれている」と考える事にはしていたが。
もっとも、この邸宅の防犯を心配するならば、ワザワザ帝国軍の憲兵隊を当てにするまでも無かった。
皇帝ラインハルトは、ヤンと交換に残したミュラーに付けたのと同数の警護兵数を、ヤンが同行させて来ても認める積もりだった。
その積もりが、ヤンには無かっただけで。
しかし、ヤン当人以外に悪い言い方をすれば悪ノリしたものが居た。
何のかんのと言っても、ヤンに同行してフェザーンまで行きたがった者も「不正規隊」には多かったが、どうしてもイゼルローンなりエル・ファシルに残らざるを得ない者も居た。
例えば、要塞の管理者であるキャゼルヌだ。
和解の条件として帝国軍にワープエンジンを破壊させる、と言う実務も在ったのだから尚更。
また、エル・ファシル永住を認められたメルカッツも、自治共和国の外へ出る事は遠慮していた。
艦隊を預(あず)かる副司令官の入院が長引きそうな事も助長し、その穴を埋めてもいた。
結局、ヤンの同行者としてはヤン個人の家族である夫人と息子。
駐在武官の名目でアッテンボロー。
警護部隊としては「薔薇の騎士」から選抜中隊。
「選抜」と言う事に成ったのは、連隊の各部隊で志願者が出たためだ。
その選抜したシェーンコップに、なぜか本来は空戦隊の筈のポプランまでが警護の名目で遣って来ていた。
もっともルイ・マシュンゴが同行していた事は、ヤンも自分の事よりも息子のために素直に喜んだが。
しかし、シェーンコップの娘でポプランの教え子までが紛(まぎ)れ込んだ事までユリアンのために喜んだら、公私混同の様な気もした。
流石に自分が地球教団の暗殺対象だったと言う事実まで、ヤンも無視は出来なかったが、今は安全の筈だった。
特に帝国側が「引越し前の大掃除」を決行した後であれば………。
……。
…その日のヤンは、ユリアンをカリンと街に送り出していた。
実の処「親」の立場としては、息子に聞かせたくない相談事も自分の友人とはするものだったりする。
その日、高等弁務官公邸を訪問したのは、とある独立商人だった。
ユリアンたちを地球から「帰宅」させた後も「親不孝」号は、フェザーン独立商人の立場から「ヤン不正規隊」への協力を続けていた。
もっとも自治共和国と帝国との条約が成立した時には、シッカリ報酬と成るだけの商業利権は確保していたが。
ヤンの視点からしても、いっそ首尾一貫していて納得出来た。
ともあれ、今日のヤンとボリス・コーネフは其々(それぞれ)の立場から其々に入手できた情報の交換と確認をしていた。
それだけなら基本的にはユリアンにも隠す積もりも無かったが「親」の立場としては…に類する話題が出るかも知れなかったからだった。
……帝国軍のザルツ中将には「反則」知識が在った。
“9月1日”に惑星ハイネセンで実施される、とある集会に関係して。
「奇蹟の魔術師」は、人知の限界を超える予言者では無い。
入手可能な情報から到達出来る限りの場所まで到達していただけだ。
そのヤンが注目していたのは、帝国軍が7月30日に続いて実行した摘発である。
当日が8月末日だった事、惑星ハイネセンを対象としていた事の意味をボリスと確認していた。
「やはり「あの」集会か」
帰還兵たちが自主的に発案し準備していた慰霊祭が、主催者の予定通りに粛々(しゅくしゅく)と挙行され、終了していた。
「ワーレン提督みずからシトレ「元」元帥を招待して、協力を要請したそうだ」
シドニー・シトレは、現状の自分は単なる私人であり1人の参加者に過ぎない、との前提を置きつつも、自分も予定通りに慰霊出来ることを希望する、と答えた。
「校長らしいな」
そのシトレ校長や主催者たちとは逆の思惑から参加者に紛(まぎ)れ込もうとしていた暗躍者たちは、7月30日と8月末日の2回の弾圧で参加不能に成っていた様だった。
「おそらく旧帝都オーディンは兎も角(ともかく)このフェザーンでも、ハイネセン同様に2回目はあるだろう」
1回目の摘発で拘束されたものには自白剤を使用してでも次の弾圧のための証拠を用意している筈だった。
ある意味では極(きわ)めて素直な民主主義の思想と感性を持つヤンの好みでは無いが、帝国軍の行動は読めてしまう。
帝国軍にとってはヤンたち相手とは完全に異なる形の戦争であり、ヤンとカイザーの間で出来た様な和解すら恐らくは不可能な敵なのだ。
「だろうな」
これも素直にフェザーン独立商人らしい気質と発想のボリスも、ヤンに同意していた。
「もっとも帝国側の弾圧だけじゃ無いな。ヤン。あんたのせいでもある」
不敗の「奇蹟の魔術師」や難攻の要塞を当てにして帝国軍に抵抗しようにも、ヤン本人は皇帝ラインハルトと和解してしまい、皇帝と同じ新帝都フェザーンに連れて行かれていた。
そして民主共和政治は「エル・ファシル自治共和国」と言う形式で、とりあえずは温存されている。
これでは帝国軍へと抵抗する気力も奮(ふる)い立て難いだろう。
だいたい、皇帝ラインハルトの治世は善政なのだ。
大多数の一般住民にとっては、同盟末期の例えばトリューニヒト政権時代よりも。
歴史家“楊文里”としては、ご先祖が生活していただろう古代チャイナ帝国に思いを遡(さかのぼ)らせていた。
*
古代チャイナ帝国の後漢王朝は、人口5千数百万人の臣民を養いながら、繁栄から緩やかで穏やかな衰退へと向かっていた。
だが其の統一と平和が破れた後、群雄割拠の果てに「天下三分」が成立した時点で、その三国が何とか作成出来た戸籍上の人口は、三国を合計しても500万人前後だったとも推定されている。
ふたたび漢王朝時代の人口をチャイナ帝国が超えるのは「三国」から「南北朝」の分裂時代をへて、漢帝国に続く長期統一王朝としては2つ目と成る唐王朝の時代、日本史では遣唐使の時代として知られる政権の下と成る。
いかなるイデオロギーや理論よりも、この生々しい数字によってチャイナ帝国の皇帝たちは正当化されるだろう。
*
ローエングラム王朝の成立以前に人類の総人口が最大と成ったのは、ルドルフ大帝時代の3000億人で間違いない。
だが「アスターテ星域会戦」時点で帝国に限れば250億人、同盟とフェザーン自治領を総計しても400億人にまで減少している。
これは対同盟戦争が大きな理由の1つに違いないが、直接の戦死者のみが原因では無い。
同時期の、とある統計によれば帝国:同盟:フェザーン自治領の国力比率は48:40:12と試算されており、これと250億人:130億人:20億人と言う其々の人口から1人当たり国力を求め、かつフェザーン自治領を1とする指数に換算すると、計算結果は0.32:0.51:1と成る。
この結果から見ても、当時の帝国臣民それも平民階級が戦争のみならず多大な負担の下に疲弊していた事、それが人口減少の理由にも成っていた事が推察される。
片や、同様に疲弊していた筈の同盟の人口が16万人から130億人まで、兎に角(とにかく)も増加していた。
これは帝国からの人口流入が増加の最も直接的な理由と考えるしかない。
特に「アスターテ」当時の同盟は、流入以外の増加力を消失していた可能性が高い。
これは帝国臣民の人種がヨーロッパ系、それも姓名からしてドイツ系に平民階級までもが限定されている事、逆に同盟の人種、人名が地球時代の移民国家並みに“サラダボール”状態である事から推察してみても、それらの系統は帝国から同盟へと流れたと見るべきである。
さらには「ダゴン星域会戦」での同盟側の動員兵数から見ても「ダゴン」以前から非公然の地下組織によって、すでに流出と流入は始まっていたのだろう。
最初に同盟と接触した帝国側の戦艦は、そうした流出者たちの追跡者だったのでは無かったか。
話題を戻せば、ローエングラム王朝発足の時点で帝国本土に限っても、人口3000億人分の潜在的居住圏が確保されていたのである。
しかも「この」3000億人は、銀河連邦が開拓時代に持っていた活力と人口増加力を消失した以後の事であり、だからこそルドルフは、社会の再活性化をもって自らを正当化したのだ。
そして皇帝ラインハルト1世が新領土を征服した事は、単純に言っても「その」居住圏を倍増した事でもあった。
更にラインハルト1世の基本政策を言い換えれば、先の0.32:0.51:1だった指数を1:1:1とする事が目標でもあり、それが達成され維持されれば、無理に強制する事も無く自然に人口は増大する筈だった。
……ローエングラム王朝の第8代皇帝の治世下では、帝国の人口統計に重要な通過点が示されている。
帝国本土の人口がゴールデンバウム王朝時代の、新領土の人口が銀河連邦時代の其々の最大人口を、それぞれに突破したのである。
この両者が同時代と言う結果に成ったのは、ローエングラム王朝の皇帝たちが帝都フェザーンの両側をまったく非差別的に統治し、同時にフェザーン回廊は人口の移動に対しても完全に開かれた連絡通路だった理由による。
いかなるイデオロギーや理論よりも、この生きた数字によってローエングラム王朝の皇帝たちは正当化されるだろう………。
……。
…当然ながらヤン・ウェンリーは、後世の歴史家として「この」議論に参加する事は出来なかった。
宇宙暦800年の秋。この時点で今だヤンは、歴史の中に居た。