四国立教大学文化サークル夏山登山獣害事件脱出期   作:四国の探索人

11 / 11
4年濱口、山口
3年鍋島、畑中、杉山
2年細井
1年山中、寺内、浜下、竹下、岡山


第11話 残されたメンバーと鍋島

「山中君」

 

濱口が、山中の登ってきた斜面を覗き込みながら尋ねた。

 

「さっき言ってた変な跡って、下で何を見た?」

 

「……何かに引きずられたような跡です」

 

その言葉に、周囲が静かになる。

 

山中はすぐに付け加えた。

 

「でも、そう見えただけかもしれません。斜面ですし、鍋島さんが滑落した時についた跡かも。……きっとそうですよ」

 

最後の一言は、皆にというより自分自身へ言い聞かせるようなものだった。

 

寺内が斜面を覗く。

 

「この角度で滑落……まあ、夜でライトもなしならあり得るか」

 

「昨日、真っ暗でしたからね」

 

山中も頷く。

 

鍋島が何らかの理由でテントを出た。

 

暗闇の中で足を滑らせた。

 

スマートフォンを落とし、そのまま別の場所から登山道へ戻ろうとした。

 

そう考えれば、一応の説明はつく。

 

――そう考えたかった。

 

「……熊じゃないんですか?」

 

岡山が口にした。

 

誰も、すぐには返事をしなかった。

 

山中の表情が固まる。

 

昨日本人たちが笑い話にしていた存在。

 

熊山という名前なのに熊なんて滅多にいない。

 

出会えたらラッキー。

 

生きて帰れたらね。

 

そんな冗談を交わしていた。

 

「……そんなわけない」

 

山中は否定した。

 

「四国に熊なんて、確か五十頭もいないはずです」

 

寺内もそれに続く。

 

「生息地域が山一つ越えたところとはいえ……さすがに考えにくいやろ」

 

「でも、絶対にいないわけじゃ……」

 

岡山が言いかける。

 

「まあまあ」

 

杉山が間に入った。

 

「今ここで正体の分からない跡について話してても、答え出ないですよ」

 

全員が杉山を見る。

 

「それより、僕らがこれからどうするか考えた方がよくないですか?」

 

「……そうやな」

 

山口が頷いた。

 

少し考えてから、山道の下方を見る。

 

「鍋島がおらん以上、登山どころじゃない。あんまり良くないかもしれんけど……俺らだけで山を探し回るより、一回下山して電波入るところまで行って、消防か警察に連絡した方がええやろ」

 

「せ……やな」

 

濱口も珍しく歯切れが悪かった。

 

それでも最後には頷く。

 

「山降りながら探せば、途中で鍋島がおるかもしれんしな。昨日歩いてきた道を戻るんやから」

 

「それなんですけど」

 

畑中が自分と鍋島が使っていたテントを見る。

 

「鍋島さんが別の場所からここに戻ってきた時のために、テント一つと、あの人の荷物は置いていきません?」

 

「なんでですか?」

 

寺内が尋ねる。

 

代わりに山中が答えた。

 

「ああ……岡山地底湖行方不明事件の話やろ」

 

「何それ?」

 

竹下が首を傾げる。

 

「昔あった行方不明事件。行方不明者がいるのに、同行者が本人の荷物まで全部持って帰ったことで、ネットで『本人が後から戻ってきたらどうするんだ』って批判されたことがあったんよ」

 

「そうそう、それ」

 

畑中が頷いた。

 

「もし鍋島さんが自力でここに戻ってきたとして、俺らもテントも荷物も全部消えてたら困るやろ?」

 

「確かにな……」

 

濱口もテントを見る。

 

「少なくとも雨風は凌げるし、水も食料も残せる」

 

「スマホだけは僕らが持っていきましょう」

 

山中が鍋島のスマートフォンを取り出した。

 

「警察に渡せば何か分かるかもしれませんし」

 

「そうやな。最悪、置いていったテントや荷物は後から回収すればいい」

 

畑中はザックから紙とペンを取り出した。

 

「書き置きもしとこう」

 

膝を使って紙に文字を書く。

 

――先に下山します。

 

――警察・消防へ連絡します。

 

――ここで待っていてください。

 

書き終えると、風で飛ばないよう鍋島の荷物の上へ固定した。

 

テントの中には水と食料。

 

防寒に使えそうな衣類。

 

そして鍋島自身のザックを残した。

 

濱口が全員を見渡した。

 

「よし」

 

昨日まで一行を率いていた鍋島はいない。

 

自然と、最上級生の濱口と山口へ視線が集まっていた。

 

「予定変更。全員で下山する」

 

誰も異論を挟まなかった。

 

「昨日来た道を戻る。途中途中で鍋島がおらんか確認しながらな。勝手に列から離れるのは禁止。何か見つけても、一人では動かんこと」

 

「分かりました」

 

「了解です」

 

それぞれが撤収を始める。

 

昨夜まで五つ並んでいたテントは、一つだけを残して次々と畳まれていった。

 

やがて準備が整う。

 

畑中は最後に、ぽつんと残ったテントを振り返った。

 

「……帰ってきてくれたらええんやけどな」

 

誰も返事をしなかった。

 

昨日は頂上へ向かうために歩いた道。

 

今日は一人を探しながら、生きて山を下りるために歩く道。

 

十一人で登ってきた一行は十人になって、来た道を引き返し始めた。

 

 

 

 

――同刻。

 

昨日、一行が水を補給した滝場。

 

朝日が木々の隙間から差し込み、岩肌を流れ落ちる水が白く輝いていた。

 

その一見穏やかな光景の中で。

 

「……最悪や」

 

鍋島は、心の底からそう呟いた。

 

下半身を水の中に入れ、岩壁に背中を預けている。

 

上から流れ落ちてくる冷たい水が、容赦なく肩や背中を打ち続けていた。

 

服は当然ずぶ濡れ。

 

身体はすっかり冷え切り、指先の感覚も怪しい。

 

それでも、水から上がることはできない。

 

「……まだ、おるし」

 

水場の向こう。

 

ほんの十数メートル先に、一頭のツキノワグマがいた。

 

こちらを見ている。

 

時々周囲を歩き回り、木の匂いを嗅いだり、地面に鼻先を近づけたりする。

 

だが、決してこの場所から離れようとはしない。

 

鍋島が少しでも水辺から上がろうと身体を動かせば、熊もまたこちらを見る。

 

「なんでやねん……」

 

普通なら、人間を警戒してどこかへ行ってもおかしくない。

 

ましてや、もう一晩近く経っている。

 

それなのに。

 

熊はまだそこにいる。

 

「俺、お前になんかしたか……?」

 

もちろん返事などない。

 

鍋島は冷え切った身体を抱くようにして、昨日の夜を思い返した。

 

 

 

山中と寺内のテントを出た後。

 

「さて……俺も戻るか」

 

鍋島は小さく欠伸をした。

 

明日は登頂を諦める。

 

滝のところまで戻って、皆でボードゲームでもしてから下山する。

 

それなら多少は楽しい思い出として終われるだろう。

 

そんなことを考えながら懐中電灯を点ける。

 

自分と畑中のテントまでは、それほど離れていない。

 

夜の登山道を足元に注意しながら歩いていると――

 

「……ん?」

 

崖下。

 

木々の間で、一瞬何かが光った。

 

二つ。

 

小さな光点。

 

「なんや?」

 

鍋島は何気なく懐中電灯を向けた。

 

光が木々の間を横切る。

 

そして。

 

黒い塊を照らした。

 

「…………」

 

鍋島の足が止まった。

 

丸い耳。

 

黒い体毛。

 

低い姿勢でゆっくりと歩く、大きな動物。

 

「……熊?」

 

声が喉の奥で掠れた。

 

見間違いではない。

 

熊だった。

 

昨日、部室で笑い話にしていた。

 

四国にはほとんど残っていない。

 

会ったらむしろ珍しい。

 

そんな話をしていた。

 

その熊が。

 

今。

 

自分たちのテントがある方向へ、ゆっくりと近づいている。

 

(最悪や……)

 

鍋島は反射的にテントを見る。

 

この時間なら、ほとんどのメンバーがもう寝ている。

 

(起こすか?)

 

一瞬そう考えた。

 

だが、十一人が暗闇の中で突然「熊がいる」と知らされたらどうなる。

 

誰かが叫ぶ。

 

誰かが逃げる。

 

パニックになって散り散りになれば、それこそ危険だ。

 

しかも女性陣を含め、登山経験がほとんどない者ばかり。

 

鍋島はもう一度崖下を照らした。

 

数メートル。

 

斜面はあるが、木々が生えている。

 

降りられないほど急ではない。

 

(熊って走ったらめちゃくちゃ速いんやったよな……)

 

喉が鳴った。

 

まともに追いかけられれば、人間が逃げ切れる相手ではない。

 

それでも。

 

このままテントへ向かわせるよりは――。

 

「……しゃあない」

 

鍋島は斜面へ足をかけた。

 

木の根を掴みながら慎重に降りる。

 

足元の土が崩れた。

 

「うおっ……!」

 

身体が少し滑る。

 

その拍子にポケットから何かが落ちたが、鍋島は気づかなかった。

 

今はそれどころではない。

 

斜面を下りきる。

 

辺りを見回し、足元にあった手のひらほどの石を拾った。

 

熊はまだテントの方向を見ている。

 

鍋島は大きく息を吸った。

 

「おい!」

 

石を投げる。

 

木にぶつかった。

 

ガッ、と乾いた音が響く。

 

熊が止まった。

 

ゆっくりと頭を動かす。

 

こちらを見る。

 

「……」

 

目が合った。

 

背筋に冷たいものが走った。

 

「こっちや」

 

鍋島は後退する。

 

熊が向きを変えた。

 

そして。

 

ゆっくりと鍋島の方へ歩き始めた。

 

(来た……!)

 

心臓が一気に跳ね上がった。

 

だが熊は走ってこない。

 

ゆっくり。

 

確実に。

 

こちらへ向かってくる。

 

(幸い、突進してくる感じではない……)

 

鍋島は熊との距離を見ながら下がった。

 

走りたい。

 

全力で逃げたい。

 

だが、下手に刺激すれば追われるかもしれない。

 

なるべく一定の距離を保ちながら、少しずつテントから離れていく。

 

五十メートル。

 

百メートル。

 

それ以上。

 

夜の山の中で、熊と人間が奇妙な追いかけっこを続けた。

 

「……しつこいな、お前」

 

返事はない。

 

ただ追ってくる。

 

鍋島が止まれば熊も距離を詰める。

 

鍋島が動けばまた後を追う。

 

偶然同じ方向へ進んでいる――そう考えるには、あまりにも執拗だった。

 

どれくらい歩いたのか。

 

緊張のせいで時間の感覚もなくなった頃。

 

ザーッ。

 

どこからか水の音が聞こえてきた。

 

「……ん?」

 

聞き覚えがある。

 

鍋島は木々の間を抜けた。

 

月明かりの下に岩場が見える。

 

「あ……ここ」

 

昨日の昼。

 

全員で水筒を補給した滝だった。

 

「……しめた」

 

滝壺というほど深くはない。

 

だが、水が溜まっている場所はある。

 

鍋島は振り返った。

 

熊はまだ来ている。

 

「ええい!」

 

迷っている暇はなかった。

 

岩を飛び越え、そのまま水の中へ入る。

 

「つっめた!!」

 

冷水が一気に腰まで来た。

 

思わず声が出る。

 

だが構わず奥へ進んだ。

 

岩壁に近い場所まで移動する。

 

熊が水辺まで来た。

 

鍋島は身構えた。

 

「……」

 

熊は水の中には入ってこなかった。

 

岸を歩き回る。

 

鼻を鳴らす。

 

こちらを見る。

 

「よし……」

 

鍋島は荒い息を吐いた。

 

「さあ、どっか行け」

 

熊は動かない。

 

「……行けって」

 

まだ動かない。

 

五分。

 

十分。

 

二十分。

 

「嘘やろ……」

 

熊は、水辺の周囲を離れようとしなかった。

 

「なら……」

 

鍋島はポケットを探った。

 

「せめてみんなに連絡して……」

 

右。

 

左。

 

上着。

 

ズボン。

 

「……あれ?」

 

もう一度探る。

 

ない。

 

「スマホ……」

 

思い出す。

 

崖を降りた時、少し足を滑らせた。

 

「あん時か……!」

 

懐中電灯は手に持っている。

 

だがスマートフォンがない。

 

「マジかよ……」

 

目の前には熊。

 

背後には滝。

 

手元にあるのは懐中電灯くらい。

 

助けを呼ぶ手段もない。

 

「逃げられんし……」

 

鍋島は水の中で岩へ背中を預けた。

 

「我慢大会やな」

 

最初は、そう軽く考えていた。

 

一時間もすれば熊も諦める。

 

遅くとも夜明けまでにはどこかへ行くだろう。

 

そう思っていた。

 

 

 

――そして、朝。

 

「……まだおるやん」

 

鍋島は震えながら熊を睨んだ。

 

夜通し水に浸かっていたわけではない。

 

熊がこちらを見ていない隙に岩の上へ身体を出し、少しでも冷えを抑えようとはした。

 

だが、そのたびに熊がこちらへ近づいてくる。

 

結局、逃げ道として水場から大きく離れることはできなかった。

 

まともに眠れていない。

 

腹も減っている。

 

喉も渇いている。

 

目の前に水だけは腐るほどあるのが、妙に腹立たしい。

 

「こんなん聞いてへんぞ……」

 

鍋島は震える手を握った。

 

「熊って普通、人間見たら逃げるんちゃうんか……」

 

熊がこちらを見る。

 

鍋島も黙って見返した。

 

そして、ふと思う。

 

(……こいつ)

 

昨夜からずっと感じていた違和感。

 

熊は自分を食べようとしているようには見えない。

 

空腹で襲ってくるような動きでもない。

 

ただ。

 

自分がここから出ることだけを許さない。

 

そんな風にすら見える。

 

「……なんで俺なんや」

 

当然、鍋島には知る由もなかった。

 

昨日。

 

自分たちが昼食を取った場所で何が起きたのか。

 

一頭の小熊が死んだことも。

 

その傍らに、人間の匂いが染みついたチョコレートの箱が残されていたことも。

 

ただ一つ分かっているのは。

 

この熊が。

 

普通ではないほど執拗に、自分を追っているということだけだった。

 

鍋島は滝の冷水に打たれながら、小さく息を吐いた。

 

「……誰か、早よ気づいてくれや」

 

その頃。

 

鍋島が守ろうとしていた仲間たちは。

 

彼を探すため、すでにこの滝へ向かって下山を始めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。