四国立教大学文化サークル夏山登山獣害事件脱出期 作:四国の探索人
3年鍋島、畑中、杉山
2年細井
1年山中、寺内、浜下、竹下、岡山
「山中君」
濱口が、山中の登ってきた斜面を覗き込みながら尋ねた。
「さっき言ってた変な跡って、下で何を見た?」
「……何かに引きずられたような跡です」
その言葉に、周囲が静かになる。
山中はすぐに付け加えた。
「でも、そう見えただけかもしれません。斜面ですし、鍋島さんが滑落した時についた跡かも。……きっとそうですよ」
最後の一言は、皆にというより自分自身へ言い聞かせるようなものだった。
寺内が斜面を覗く。
「この角度で滑落……まあ、夜でライトもなしならあり得るか」
「昨日、真っ暗でしたからね」
山中も頷く。
鍋島が何らかの理由でテントを出た。
暗闇の中で足を滑らせた。
スマートフォンを落とし、そのまま別の場所から登山道へ戻ろうとした。
そう考えれば、一応の説明はつく。
――そう考えたかった。
「……熊じゃないんですか?」
岡山が口にした。
誰も、すぐには返事をしなかった。
山中の表情が固まる。
昨日本人たちが笑い話にしていた存在。
熊山という名前なのに熊なんて滅多にいない。
出会えたらラッキー。
生きて帰れたらね。
そんな冗談を交わしていた。
「……そんなわけない」
山中は否定した。
「四国に熊なんて、確か五十頭もいないはずです」
寺内もそれに続く。
「生息地域が山一つ越えたところとはいえ……さすがに考えにくいやろ」
「でも、絶対にいないわけじゃ……」
岡山が言いかける。
「まあまあ」
杉山が間に入った。
「今ここで正体の分からない跡について話してても、答え出ないですよ」
全員が杉山を見る。
「それより、僕らがこれからどうするか考えた方がよくないですか?」
「……そうやな」
山口が頷いた。
少し考えてから、山道の下方を見る。
「鍋島がおらん以上、登山どころじゃない。あんまり良くないかもしれんけど……俺らだけで山を探し回るより、一回下山して電波入るところまで行って、消防か警察に連絡した方がええやろ」
「せ……やな」
濱口も珍しく歯切れが悪かった。
それでも最後には頷く。
「山降りながら探せば、途中で鍋島がおるかもしれんしな。昨日歩いてきた道を戻るんやから」
「それなんですけど」
畑中が自分と鍋島が使っていたテントを見る。
「鍋島さんが別の場所からここに戻ってきた時のために、テント一つと、あの人の荷物は置いていきません?」
「なんでですか?」
寺内が尋ねる。
代わりに山中が答えた。
「ああ……岡山地底湖行方不明事件の話やろ」
「何それ?」
竹下が首を傾げる。
「昔あった行方不明事件。行方不明者がいるのに、同行者が本人の荷物まで全部持って帰ったことで、ネットで『本人が後から戻ってきたらどうするんだ』って批判されたことがあったんよ」
「そうそう、それ」
畑中が頷いた。
「もし鍋島さんが自力でここに戻ってきたとして、俺らもテントも荷物も全部消えてたら困るやろ?」
「確かにな……」
濱口もテントを見る。
「少なくとも雨風は凌げるし、水も食料も残せる」
「スマホだけは僕らが持っていきましょう」
山中が鍋島のスマートフォンを取り出した。
「警察に渡せば何か分かるかもしれませんし」
「そうやな。最悪、置いていったテントや荷物は後から回収すればいい」
畑中はザックから紙とペンを取り出した。
「書き置きもしとこう」
膝を使って紙に文字を書く。
――先に下山します。
――警察・消防へ連絡します。
――ここで待っていてください。
書き終えると、風で飛ばないよう鍋島の荷物の上へ固定した。
テントの中には水と食料。
防寒に使えそうな衣類。
そして鍋島自身のザックを残した。
濱口が全員を見渡した。
「よし」
昨日まで一行を率いていた鍋島はいない。
自然と、最上級生の濱口と山口へ視線が集まっていた。
「予定変更。全員で下山する」
誰も異論を挟まなかった。
「昨日来た道を戻る。途中途中で鍋島がおらんか確認しながらな。勝手に列から離れるのは禁止。何か見つけても、一人では動かんこと」
「分かりました」
「了解です」
それぞれが撤収を始める。
昨夜まで五つ並んでいたテントは、一つだけを残して次々と畳まれていった。
やがて準備が整う。
畑中は最後に、ぽつんと残ったテントを振り返った。
「……帰ってきてくれたらええんやけどな」
誰も返事をしなかった。
昨日は頂上へ向かうために歩いた道。
今日は一人を探しながら、生きて山を下りるために歩く道。
十一人で登ってきた一行は十人になって、来た道を引き返し始めた。
――同刻。
昨日、一行が水を補給した滝場。
朝日が木々の隙間から差し込み、岩肌を流れ落ちる水が白く輝いていた。
その一見穏やかな光景の中で。
「……最悪や」
鍋島は、心の底からそう呟いた。
下半身を水の中に入れ、岩壁に背中を預けている。
上から流れ落ちてくる冷たい水が、容赦なく肩や背中を打ち続けていた。
服は当然ずぶ濡れ。
身体はすっかり冷え切り、指先の感覚も怪しい。
それでも、水から上がることはできない。
「……まだ、おるし」
水場の向こう。
ほんの十数メートル先に、一頭のツキノワグマがいた。
こちらを見ている。
時々周囲を歩き回り、木の匂いを嗅いだり、地面に鼻先を近づけたりする。
だが、決してこの場所から離れようとはしない。
鍋島が少しでも水辺から上がろうと身体を動かせば、熊もまたこちらを見る。
「なんでやねん……」
普通なら、人間を警戒してどこかへ行ってもおかしくない。
ましてや、もう一晩近く経っている。
それなのに。
熊はまだそこにいる。
「俺、お前になんかしたか……?」
もちろん返事などない。
鍋島は冷え切った身体を抱くようにして、昨日の夜を思い返した。
山中と寺内のテントを出た後。
「さて……俺も戻るか」
鍋島は小さく欠伸をした。
明日は登頂を諦める。
滝のところまで戻って、皆でボードゲームでもしてから下山する。
それなら多少は楽しい思い出として終われるだろう。
そんなことを考えながら懐中電灯を点ける。
自分と畑中のテントまでは、それほど離れていない。
夜の登山道を足元に注意しながら歩いていると――
「……ん?」
崖下。
木々の間で、一瞬何かが光った。
二つ。
小さな光点。
「なんや?」
鍋島は何気なく懐中電灯を向けた。
光が木々の間を横切る。
そして。
黒い塊を照らした。
「…………」
鍋島の足が止まった。
丸い耳。
黒い体毛。
低い姿勢でゆっくりと歩く、大きな動物。
「……熊?」
声が喉の奥で掠れた。
見間違いではない。
熊だった。
昨日、部室で笑い話にしていた。
四国にはほとんど残っていない。
会ったらむしろ珍しい。
そんな話をしていた。
その熊が。
今。
自分たちのテントがある方向へ、ゆっくりと近づいている。
(最悪や……)
鍋島は反射的にテントを見る。
この時間なら、ほとんどのメンバーがもう寝ている。
(起こすか?)
一瞬そう考えた。
だが、十一人が暗闇の中で突然「熊がいる」と知らされたらどうなる。
誰かが叫ぶ。
誰かが逃げる。
パニックになって散り散りになれば、それこそ危険だ。
しかも女性陣を含め、登山経験がほとんどない者ばかり。
鍋島はもう一度崖下を照らした。
数メートル。
斜面はあるが、木々が生えている。
降りられないほど急ではない。
(熊って走ったらめちゃくちゃ速いんやったよな……)
喉が鳴った。
まともに追いかけられれば、人間が逃げ切れる相手ではない。
それでも。
このままテントへ向かわせるよりは――。
「……しゃあない」
鍋島は斜面へ足をかけた。
木の根を掴みながら慎重に降りる。
足元の土が崩れた。
「うおっ……!」
身体が少し滑る。
その拍子にポケットから何かが落ちたが、鍋島は気づかなかった。
今はそれどころではない。
斜面を下りきる。
辺りを見回し、足元にあった手のひらほどの石を拾った。
熊はまだテントの方向を見ている。
鍋島は大きく息を吸った。
「おい!」
石を投げる。
木にぶつかった。
ガッ、と乾いた音が響く。
熊が止まった。
ゆっくりと頭を動かす。
こちらを見る。
「……」
目が合った。
背筋に冷たいものが走った。
「こっちや」
鍋島は後退する。
熊が向きを変えた。
そして。
ゆっくりと鍋島の方へ歩き始めた。
(来た……!)
心臓が一気に跳ね上がった。
だが熊は走ってこない。
ゆっくり。
確実に。
こちらへ向かってくる。
(幸い、突進してくる感じではない……)
鍋島は熊との距離を見ながら下がった。
走りたい。
全力で逃げたい。
だが、下手に刺激すれば追われるかもしれない。
なるべく一定の距離を保ちながら、少しずつテントから離れていく。
五十メートル。
百メートル。
それ以上。
夜の山の中で、熊と人間が奇妙な追いかけっこを続けた。
「……しつこいな、お前」
返事はない。
ただ追ってくる。
鍋島が止まれば熊も距離を詰める。
鍋島が動けばまた後を追う。
偶然同じ方向へ進んでいる――そう考えるには、あまりにも執拗だった。
どれくらい歩いたのか。
緊張のせいで時間の感覚もなくなった頃。
ザーッ。
どこからか水の音が聞こえてきた。
「……ん?」
聞き覚えがある。
鍋島は木々の間を抜けた。
月明かりの下に岩場が見える。
「あ……ここ」
昨日の昼。
全員で水筒を補給した滝だった。
「……しめた」
滝壺というほど深くはない。
だが、水が溜まっている場所はある。
鍋島は振り返った。
熊はまだ来ている。
「ええい!」
迷っている暇はなかった。
岩を飛び越え、そのまま水の中へ入る。
「つっめた!!」
冷水が一気に腰まで来た。
思わず声が出る。
だが構わず奥へ進んだ。
岩壁に近い場所まで移動する。
熊が水辺まで来た。
鍋島は身構えた。
「……」
熊は水の中には入ってこなかった。
岸を歩き回る。
鼻を鳴らす。
こちらを見る。
「よし……」
鍋島は荒い息を吐いた。
「さあ、どっか行け」
熊は動かない。
「……行けって」
まだ動かない。
五分。
十分。
二十分。
「嘘やろ……」
熊は、水辺の周囲を離れようとしなかった。
「なら……」
鍋島はポケットを探った。
「せめてみんなに連絡して……」
右。
左。
上着。
ズボン。
「……あれ?」
もう一度探る。
ない。
「スマホ……」
思い出す。
崖を降りた時、少し足を滑らせた。
「あん時か……!」
懐中電灯は手に持っている。
だがスマートフォンがない。
「マジかよ……」
目の前には熊。
背後には滝。
手元にあるのは懐中電灯くらい。
助けを呼ぶ手段もない。
「逃げられんし……」
鍋島は水の中で岩へ背中を預けた。
「我慢大会やな」
最初は、そう軽く考えていた。
一時間もすれば熊も諦める。
遅くとも夜明けまでにはどこかへ行くだろう。
そう思っていた。
――そして、朝。
「……まだおるやん」
鍋島は震えながら熊を睨んだ。
夜通し水に浸かっていたわけではない。
熊がこちらを見ていない隙に岩の上へ身体を出し、少しでも冷えを抑えようとはした。
だが、そのたびに熊がこちらへ近づいてくる。
結局、逃げ道として水場から大きく離れることはできなかった。
まともに眠れていない。
腹も減っている。
喉も渇いている。
目の前に水だけは腐るほどあるのが、妙に腹立たしい。
「こんなん聞いてへんぞ……」
鍋島は震える手を握った。
「熊って普通、人間見たら逃げるんちゃうんか……」
熊がこちらを見る。
鍋島も黙って見返した。
そして、ふと思う。
(……こいつ)
昨夜からずっと感じていた違和感。
熊は自分を食べようとしているようには見えない。
空腹で襲ってくるような動きでもない。
ただ。
自分がここから出ることだけを許さない。
そんな風にすら見える。
「……なんで俺なんや」
当然、鍋島には知る由もなかった。
昨日。
自分たちが昼食を取った場所で何が起きたのか。
一頭の小熊が死んだことも。
その傍らに、人間の匂いが染みついたチョコレートの箱が残されていたことも。
ただ一つ分かっているのは。
この熊が。
普通ではないほど執拗に、自分を追っているということだけだった。
鍋島は滝の冷水に打たれながら、小さく息を吐いた。
「……誰か、早よ気づいてくれや」
その頃。
鍋島が守ろうとしていた仲間たちは。
彼を探すため、すでにこの滝へ向かって下山を始めていた。