四国立教大学文化サークル夏山登山獣害事件脱出期 作:四国の探索人
参加メンバー
4年濱口、山口
3年鍋島、畑中、杉山
2年細井
1年山中、寺内、浜下、竹下、岡山
登山開始から1時間ほどが経過していた。
朝の清々しい空気を感じながら進んできた一行だったが、次第に口数は減り、隊列も自然と間延びしていく。
足元は次第にゴツゴツとした石混じりの斜面となり、湿った土や、露出した木の根、倒木が行く手を阻む。
寺内が前を見ながらぽつりとつぶやく。
「……なんか、登山道にしては荒れてません?」
前方の畑中も頷く。
「俺も思った。踏み跡はあるけど、手入れは全然されてない感じやな」
「標識も一本も見てませんしね……」
最後尾を歩く山中は、二人のやり取りを耳にしつつ、周囲の様子に目を配っていた。
(確かに整備された登山道にしては雑草が多い。案内板も距離表示も一切ない……)
それでも先頭の鍋島はペースを緩めることなく進んでいた。
明るい表情で前のメンバーと笑い合いながら、軽快に足を運んでいる。
山中は、確認のために後方から声をかけた。
「浜下さん、すみません。鍋島さんまで“いったん止まってほしい”って伝えてもらえますか?」
「分かった」
浜下はうなずき、前方の岡山へ、岡山はその前の竹下へ、と伝言が続いていく。
まるでリレーのように内容が少しずつ繰り返され、列全体が止まるまで20分近くかかった。
山中は前方のメンバーを横切り、先頭の鍋島のもとへ歩く。
「なんかあった?」
「道が歩けはするんですが、荒れてきたなと思いまして」
「山道ってこんなもんじゃないん?」
そこで杉山が一歩前に出る。
「多分、山中は“違う意味”で言ってるんですよね」
山中は頷いた。
「はい。本来の登山道と違う気がします」
畑中が提案する。
「確か地図あったよな? 確認しよう」
鍋島が皆に声をかける。
「よし、一度ここで休憩しよう」
メンバーは各々荷物を下ろし、倒木や岩に腰を下ろす。
山中はスマホを取り出し、スリープ状態で保存していた登山者の個人ブログを開いた。
「出発前に参考にしたブログ……あった。ネットは繋がらないけど、ページは読み込まれてる」
スクロールしながら地形を照らし合わせる。
「やっぱり、他の人のルートとは明らかに違うみたいですね」
鍋島が眉をひそめる。
「今の位置は特定できないの?」
「この道は地図に載ってないルートみたいです」
細井が口を挟む。
「道路の記憶を辿ろうぜ。国道から県道に移行して、ずっと真っ直ぐだっただろ」
畑中も頷く。
「そうそう、途中で少しカーブしてた。その先で車を止めたよな」
山中は地図を見つめた。
「……この辺りだと思います。おそらく旧登山道ですね。ただ、このまま進めば既存の登山道に合流しそうです」
鍋島は一瞬考え、にやりと笑った。
「あー、じゃあ行けそうやな。道も歩けないほどじゃないし、一度飯にしてから、このまま進もうか」
その場で昼休憩に入ったサークルメンバーたちは、木陰や倒木に腰を下ろし、それぞれ持参していたおにぎりやサンドイッチを広げていた。
畑中はレジャーシートを半分広げて横になり、細井は座ったままスマホでまたゲームを始めている。
女子メンバーたちは寄り添うように輪を作り、小さな声で話しながら、和やかに昼を楽しんでいた。
寺内が、おにぎりを頬張っていた山中に話しかける。
「山中。俺、さっき気づいたことがあるんやけど」
山中は口をもぐもぐさせながら返す。
「どうした、寺内。おにぎりに塩入れ忘れたか?」
「ちゃうよ。……みんな、水筒持ってるやん?」
「うん?」
「もしかしてやけど――みんな、その水筒分の水しか持ってないんちゃう?」
山中は箸を止め、少し間を置いてから頷いた。
「ああ、つまり……いつもの遠足感覚で、水筒一本だけ持ってきて、追加の飲料は何もないってことか」
「そうそう」
山中は荷物の脇を軽く指差す。
「安心しろ。俺がわざわざ最後尾で、くっそ重いザック担いできた理由がそれや。クソデカ水タンク積んでる」
「……マジか。やっぱ抜かりないな、お前」
「ただ、これだけの人数やと使い切るのも早い。たぶん、明日分まではギリあるけど、それ以降は厳しいかもな」
「夏で暑いし、みんな水筒の減りも早いしな」
「うん。みんなの水筒が空になったら開けるつもり。でも、状況によっては途中で引き返す判断も視野に入れといた方がいいな」
寺内は静かに頷いた。
「鍋島さんも、楽しみにしてたとはいえ、水が尽きたら引く決断はしてくれるはずや。……水タンクのことは、今は黙っといた方がいいかもな。無くなってからじゃ遅い」
「だな。じゃ、そっちは任せた。俺は――甘いもんが食べたくなってきたわ」
山中は立ち上がり、辺りを見渡す。少し先で女子3人組が何やら楽しそうにお菓子を分け合っているのが見えた。
竹下が、小さな箱を開けて個包装のチョコを差し出していた。浜下と岡山が嬉しそうにそれを受け取る。
山中はすっと近寄り、手を差し出す。
「チョコ、ちょうだい」
竹下は振り返って笑う。
「いいよ。でも――義理ね、義理」
「いや、バレンタインデーじゃないんだから。勘違いしませんって」
竹下は箱の中から一つ取り出し、山中の手に乗せた。
山中はぺこりと軽く頭を下げる。
「いただきます。命の糖分」
そう言って、山中はチョコを口に放り込み、満足そうに頷いた。
やがて、鍋島の声が辺りに響く。
「そろそろ再出発するでー!」
メンバーたちは徐々に腰を上げ、荷物を整え始める。
山中もザックを背負い直し、最後尾の位置へと戻っていく。その背後では、竹下が話しながら慌ただしくリュックを締め、浜下と岡山と一緒に列に加わっていった。
──誰も気づかなかった。
竹下が先ほどまで広げていたチョコの箱が、開いたままの状態で、倒木の影にぽつりと置き去りにされていたことに。
風が一度吹き抜け、小さな銀紙がひらりと箱から飛び出した。
あれから1時間。サークルの一行が笑い声とともに山を進んだその後、登山道に静寂が戻っていた。
人の気配が完全に消えたころ、木々の間から二頭の熊の親子が現れた。
大きな黒い体躯をした母熊と、まだ身体の小さい茶色が混じる子熊。どちらも人目につく場所には姿を現さないはずの慎重な性質を持つが――今日に限って、それが崩れていた。
理由は甘い匂いだった。
人間が残していったわずかな痕跡――開けられたチョコの箱が、山の風にその存在を主張していた。
母熊は鼻先をわずかに動かし、倒木の影に落ちていたそれを見つける。
箱に顔を近づけると、まだ中には小さなチョコが数粒残っていた。
母熊は一度周囲を警戒するように見回し、安心したように一歩踏み出す。
そして、そっと前足で箱を引き寄せると、子熊の方を振り返り、鼻先で促すようにチョコを差し出した。
親子は並んでチョコを食べ始めた。人間が作った甘味は、彼らにとって未知だが、拒む理由もなかった。柔らかく、香ばしく、そしてなにより甘かった。
しばらくして、母熊の呼吸が変わった。
「……ゴフッ……」
喉の奥に何かが引っかかるような違和感。胸の中が妙に重たい。
母熊はその場に尻を落とし、大きく息を吐いた。
隣でチョコを食べていた子熊が、ふらつきながら足元に倒れた。
「……キュッ……キュウ、キュウ……」
ひゅうひゅうと、苦しげな呼吸音が鳴る。明らかに異常だった。
母熊は慌てて顔を寄せ、子熊の身体を舐める。何度も、何度も、母親としてできる限りの行動を繰り返す。
だが、子熊の痙攣は次第に弱まり、やがて、まったく動かなくなった。
母熊はその小さな身体を前足で包み込むようにして、しばらくじっと動かずにいた。
何もない静寂の山の中で、たった一つだけ、大切な命が消えていった。
──やがて。
母熊はゆっくりと顔を上げた。
チョコの残り香とともに、そこには人間のにおいがまだはっきりと残っていた。
それは甘さとともに、死の匂いだった。
母熊は鼻を鳴らし、重たい体を引きずるように立ち上がった。
何度も何度も、その箱の匂いをかぎ、風の流れを読み、においの筋をたどる。
目には怒りも悲しみも浮かばない。ただひたすらに、嗅覚だけが導いていく。
だが確かに、その歩みはこれまでと違っていた。
それは「警戒」ではない。
**復讐に似た“意志”**が、そこに芽生えていた。
母熊は、小熊の亡骸を最後に一瞥し、静かに、だが確かな決意で山中へと歩を進めていった。
それは、偶然にしてはあまりにも重たい邂逅の序章だった。