「自由になりてえなー。」
執務室の机で作業しながら、白い軍服に身を包んだ男が背後にある赤レンガで作られた建物の窓から海を見ながら愚痴る。男自身は誰にも聞こえないよう比較的小さな声だったが、それを一文字も聞き逃さなかった同室にいた青い和服を着た女性が咎めた。
「提督。そのような言葉は艦隊の士気に関わります。慎んでください。」
「しかしだな加賀。目の前にこうも書類の山があり、3か月は休みなく働いていると自然とそう言ってしまうのだ。」
提督は、近くで自分と同じように書類仕事を行う加賀に追加でもう少し言おうと思い息を吸ったが、口に出す寸前で取りやめた。加賀もまた提督と同じ期間休みなく働いている。それどころか加賀は鎮守府の空母艦娘の中では最古参で、後輩たちの指導や自身もまた出撃するため提督自身よりも働いている可能性すらあった。
そのため提督は言葉を変えた。
「なあ加賀。次に休暇が合ったらさ、どこかに遊びに行かないか?」
「いいですね。私は温泉に行きたいです。」
「なるほど、温泉か。いいな。」
幸か不幸か銀行口座には労働環境が過酷なため使う暇のなかった給料が貯まっている。基本給に加えて鎮守府が前回の大規模作戦で主力を務めて大成功したこともあり、ボーナスもかなりの額だった。
「できることなら二泊三日、夫婦水入らずで秘境の温泉宿・・・」
提督が想像したのは、雪山にある温泉。寒い寒いと言いながらお湯に入ってその温かさに感動する。別に雪は必要ではない。今の季節、風が吹けば裸の人間などすぐに風を引くほど寒い。ただあった方が風情があるというだけである。
「あの子たちは連れてきませんよね?」
「古鷹と時雨のことか? 確かに二人ともケッコンカッコカリはしているが、あれは戦力増強が目的のものだからな。本人たちもそれで理解してくれたし」
二人の視線が互いの首元に向けられる。首には小さな純白の指輪がネックレスとして輝いていた。軍から支給されたケッコンカッコカリの指輪とは違う、本物の結婚指輪。加賀が他のケッコン艦とは違うことを示すそれを見て、提督の顔に笑みが浮かぶ。
「残りも頑張りますか」
――
温泉旅行の約束を取り付けてから数日後、提督は扉を見ていた。
「遅いな」
壁に掛けたアンティーク調の時計を見て、提督は珍しい気持ちになった。時刻は既に始業時間を過ぎている。だというのに秘書艦である加賀がまだ執務室にいなかった。自分にも他人にも厳しい加賀が時間を守らないことは滅多にない。一度だけ遅れたことがあったが、あれは早朝演習中に模擬弾と実弾の取り違いで参加者が大けがをしたため旗艦として対応していたからだ。艦娘は人間と比べて身体機能が発達しているため体調不良の可能性は低い。仮にそうであっても同室の赤城から連絡があるだろうし、部屋単位で体調不良の場合は感染症の疑いがあるため妖精が動く。
「どうしたんだろうな」
加賀のことを案じつつ執務を始めた提督のもとに、大きな足音を響かせた瑞鶴が飛び込んできた。
「提督、加賀さん見なかった⁉」
扉に少し体重を預けながらそう報告したのは、執務室が鎮守府の三階にあり、瑞鶴が階段を駆け上がってきたからだろう。それほど火急の用件と見た提督は、首を振った。
「加賀さん、朝の演習に来なかったの。食堂にもいなかったし。赤城さんに聞いたら起きた時からもういないって、それで・・・。」
「探せ。哨戒を除く午前の予定は全て変更。妖精と憲兵も動員、艤装も使用を許可する。必ず見つけ出せ」
行方不明。軍隊であれば必ず発生する問題である。多くは戦場で仲間に死を確認されずに朽ちていくか、辛い環境に耐えられずに脱走するかである。しかし加賀は違う。加賀は先週から出撃をしておらず、どこかでひっそりと沈んだはずがない。それに加賀は提督の婚約者である。婚約者が精神的に追い詰められているかどうかなんてのは顔を見れば分かる。提督は昨晩、終業後に一緒に食事を摂った際の加賀の顔を思い浮かべ、脱走した線も消す。となるとあり得るのはもう一つしかない。
提督は机の上にある電話を手に取ると迷わず内線で憲兵詰め所につなげた。
「鎮守府一帯を封鎖。航空隊を出すから鎮守府から離れる船舶と車両を全て臨検しろ。」
艦娘の誘拐。あり得ないと思いたいが現実として発生している事件。それが提督の脳裏に過った。もし数時間以内に見つけ出せなければ発見は困難になる。それはつまり、二人の仲が強制的に引き裂かれることになる。提督はそれを心の底から恐れた。
鎮守府のほぼすべての戦力を動員して行った加賀の捜索だが、結局見つけることはできなかった。行きかう船や車を調べたところで加賀は見つからず、近くの山を空から赤外線センサーで見渡してもいなかった。
未発見の報告が次から次へと提督の元にやってくるにつれて、提督の顔から生気が失われていく。一週間が過ぎた頃には春に撮った証明写真とは全く別人に見えるほど老け込んでしまっていた。
「加賀・・・」
希望はもうない。誰からも言葉としては伝えられなかったがそれを感じ取っていた提督は、カーテンを閉め切って真っ暗な執務室の奥にある自室の布団の上で昼だというのに毛布に包まって膝を抱えて座っていた。寒くはないが震えが止まらず、手に取った水で満たされたコップが大きな波を作っている。
「失礼します、提督」
「入るね」
二人の艦娘・・・秘書艦が行方不明で、提督が機能不全を起こした鎮守府をなんとか動かしている古鷹と時雨が、部屋の明かりをつけた。
「提督。その・・・辛いと思いますが、サインを。」
古鷹が差し出したのは、加賀のMIAが正式に受理されたことを示す書類。これに提督がサインすれば、現在行われている捜索が全て終了する。
「提督、現実を見てよ。僕も古鷹も、みんなも提督の事を心配してる。だから・・・」
「帰ってくれ。俺はそれにサインしない。」
細々とした歪んだ芯のある声が毛布の中から響く。
「俺の心は加賀と共にあるんだ。加賀が死んだと認めることは俺が死んだと認めることなんだ。だから俺は認めない。それに俺には分かる。加賀は生きている。魂がそう語っている。」
「そう、ですか。それでは提督、失礼します。」
古鷹が書類を持ったまま退室しようとしたとき、時雨が待ったをかける。
「古鷹。もういいんじゃないかな?」
妙に無機質な声に提督は違和感を覚える。
「僕たちは長いこと待ったよ。でも提督は変わらなかった。プランBだ」
そう言うと時雨はポケットの中からアクセサリーを取り出した。それを毛布の隙間から見た提督は絶叫した。
「その様子ならこれが何か分かったみたいだね、提督。そしてこれが何を意味するのかも。」
指輪が付けられたネックレス。その大きさとデザイン、嵌められた宝石の種類とサイズ、一目見ただけでそれが加賀に渡した婚約指輪だと気付いた提督は、時雨に詰め寄ろうと立ち上がって、力なく倒れた。
「ダメですよ提督。十分に栄養を取ってないんですから、急に動けるわけないじゃないですか。」
倒れた提督を古鷹が抱きかかえて布団に寝かせる。その際、手を強引に掴んでMIAの書類にサインさせることを忘れない。
「お前たちがやったのか・・・」
布団に寝かせられた提督が、着ける者がいなくなった指輪を見ながら憎しみの篭った声を二人に投げかける。
「そうだよ。加賀がいると僕たちが提督と結ばれない。独り占めは許されないからね。」
「皆さんにも手伝ってもらいました。大変でしたよ? 憲兵や妖精にバレないよう、艦娘一人を工廠まで運び込むのは。」
「お前たちはッ!!」
水の入ったコップを怒りに任せて古鷹に投げる。しかし古鷹は拳でプラスチック製のコップを粉砕した。
「さて、提督。時間はたっぷりあるから、今度は僕たちを心の拠り所にしてよ。」
「一人では満たせないものも、みんなでならきっとできますよ」
「嫌だ。・・・来るな、来るなーッ!!」
じりじりと、二人が近づいてくる。提督は自身が誇りある軍人であることも忘れて泣き叫んだ。しかし二人は止まらず、提督は尊厳を失った。途中で無心に加賀に助けを求めてしまえば、二人から暴行を加えられる。開始から5時間、二人が満たされたとき、提督はこれ以上何も言わないよう必死に口を噤み、恐怖と痛みに耐えた。
数日後、提督は監視の目を掻い潜って脱出することに成功した。窓から外に出て突起部や窓枠を伝い、三階から地上まで降りたのだ。それから提督は周りに気を配りながら、闇夜の中を草むらや建物の影の間を縫うように移動していった。
生きている意味は見いだせない。ただ自ら命を絶つ度胸もない。だけどここにはいられない。ここではないどこか遠くを目指して提督は逃げ出した。
人目につかない裏口まであと少し。それが提督の油断を招いた。
「あれ、提督さんじゃん。久しぶりだね。」
タオルで顔の汗を拭く瑞鶴に、見つかってしまった。
「天命尽きたか・・・」
「何言ってるの? 提督さん?」
「さあ、近づいて来いよ!! お前も古鷹や時雨みたいにやるんだろ!?」
「落ち着いてって提督さん。今もうかなり夜遅いから!!」
口を押えて提督を埠頭に運んだ瑞鶴は、ここなら大丈夫かと提督の口に当てていた手を外す。
「加賀さんが死んだから辛いのは分かる。でも、そんなんで天国の加賀さんが喜ぶと思ってるの⁉」
「殺す!!」
何かがはじけた提督は、瑞鶴の首を両手で絞める。突然のことに瑞鶴は対応できず、目を点にして提督を見つめている。
「どの口がそれを言う!! 加賀を殺した奴がそんなことを言うのか⁉」
「私が加賀さんを殺すわけない!!」
瑞鶴は提督の腕を振り払う。栄養失調気味の人間が艦娘に敵うわけがなく、提督はコンクリートの上をゴロゴロと転がった。
「提督さん・・・辛い気持ちは分かるよ。でも、加賀さんはMIAになっちゃった。過去に囚われるのは仕方ないよ。でも、前を向かなきゃ」
「古鷹と時雨たちに加賀を殺された瞬間から、俺の時間は停まったんだ。それを手伝ったお前が、お前が、そんなことを・・・」
海に飛び込んで藻屑になるしか、もうできることはない。提督は絶望に染まりながら波の音へと近づくが、瑞鶴が止めた。
「提督さん・・・私を信じてよ」
暴れる提督を全身を使って拘束する。力は込めない。ただ思いが伝わって欲しい。瑞鶴は提督の動きが収まるまでひたすらに待った。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・」
「落ち着いた?」
「少しは」
波風で体も頭も冷えた提督は、瑞鶴から恐怖を感じなくなっていた。慣れて感覚が麻痺したのではなく、瑞鶴が恐れを抱く必要のある存在ではないことを理解したからだ。肩がくっつくほど近づいて座った二人は、先程の正気を失った状態で提督が口走った言葉について話し合う。
「それで、古鷹さんと時雨が加賀さんを殺したのって、本当?」
「ああ。婚約指輪を見せられた。それよりも、瑞鶴は関わってないのか?」
「うん。私にとって加賀さんは憧れの人。追い越そうとは思っても蹴落とそうとは思わないよ」
新月でよく見えないが、瑞鶴の手は傷ついていた。弓の鍛錬を身体が限界を迎えてもやっていたのだ。全ては突然かけてしまった鎮守府の大きな穴。それを自分が少しでも埋めるため。ずっと追いかけて、そして突然消えてしまった背中に追いつくため。
「古鷹と時雨以外にも協力者がいるはずだが、瑞鶴は違うのか。」
「うん。それにあの二人、最近少し怖いんだよね。明らかに怒った表情で工廠に行ってるの。数時間経って出てきても怒ってるし。」
「工廠で数時間も? 何をしているんだ?」
「さあ? 少なくとも開発とかじゃないわね。明石さんは知ってる感じだったけど、教えてくれなかったし。」
そこまで聞いた提督は、死んだも同然だった精神が突如息を吹き返したように感じた。それほどまでに衝撃的な一つの考察が降ってわいたのだ。
「可能性は低いが、あるかもしれない・・・」
「ああ…と、どうしたの、急に?」
「聞いてくれ瑞鶴。そして協力してくれ。俺は加賀を助けなければならない。」
「加賀・・・さんを?」
なぜそこで加賀の名前が出てくるのか分からないといった瑞鶴に、提督は自身がここ数日間受けてきた辱めについて話したのち、その経験と瑞鶴の証言からある一つの知見を得た。
「奴らは加賀を殺していない。きっと工廠のどこかに監禁している。俺が加賀の名前を呼ぶたびに奴らは怒った、俺の心を加賀から引きはがせていないからだ。そしてその怒りをどこかで監禁している加賀にぶつけている。だが加賀も俺のことを諦めない。だから怒りはより溜まる。そしてまた俺のところに来るから余計に溜まる。奴らは今、負のスパイラルに陥っているんだ。」
「な、なるほど…でも、もしかしたら殺しちゃったかもしれないよ? それこそ、常に怒りが増す一方ならいつか暴発するだろうし。」
「いや、時雨も古鷹も加賀のことが大の嫌いだ。そんな二人が加賀に与えることができる最大の一撃はなんだと思う?」
「まさか…」
「そうだ。加賀を捨てた俺を加賀自身に見せることだ。」
「悪趣味な…」
「そして今までの鬱憤を晴らしてから殺害する。だから今助ける。ついて来い、瑞鶴」
「ちょっと、待ってよ!! 提督さん!!」
不思議な気持ちだった。体は度重なる暴行と凌辱によって提督の人生史上、最も悪いコンディションだった。しかし体の内側から溢れ出てくるパワーによって、今まで感じたことのないやる気と必ず成功するという自信に満ちていた。
そしてその自信は、実際に正しかった。提督が自室から抜け出したことには誰も気付かず、また埠頭から離れた位置にある工廠に向かう間も誰にも見られなかった。
「明石は…いないみたいだな。」
非常用出口を少し開けて中を確認した提督は、既に明かりが完全に落とされた内部の様子を見てとりあえず安心した。ここは先程と違い屋内、外から見られているのではないかという不安はなくなった。
「それで、どこを探すの? 時間を掛け過ぎると朝になっちゃうよ? それに、朝になる前に誰か来るかもしれない。」
「瑞鶴、加賀が行方不明になってから立ち入りを禁じられた場所はあるか? あるのだとしたら、調べるのはそこだ。」
「立ち入り…禁止…。そういえば、地下にある8番倉庫で試薬の漏洩があったとかで除染が完了するまでは立ち入り禁止って明石さんに言われたわね。」
「つまり、そこだな。」
提督は瑞鶴に誰も地下に入ってこないよう見張りを頼むと、一人で地下に入って行った。地下に設けられた倉庫というものは使わないが貴重品だから保管しているか、或いは季節物で年に一度ぐらいしか出番がないものを仕舞っているかだ。そこなら人目につかない。誰かを監禁するのには適しているだろう。
「8番…フゥ…」
一息入れて、提督は扉を少しずつ開けた。
「また…来たのですか。あなたたちは。」
「ッ」
提督は言葉を失った。一つは探していた想い人を見つけられた喜びのため。一つはその想い人が自分よりも明らかに衰弱していたため。腕を荒縄で縛って吊るされ、頭には黒い布袋を被せられていた。裂かれた服の合間から覗かせる肌は青黒く、足元には血だまりができていた。
「加賀ッ!! 今助けるからなッ!!」
「てい…と、く…」
縄を解き布袋も外した提督は、加賀が右目を開けてこちらを見つめ返してくれたことに涙を流して喜んだ。一方で加賀は目の前に提督が現れて自分を助け出してくれたことがあまりにも都合が良すぎたため限界状態の脳が見せた幻覚なのではないかと疑い、これが現実であることを証明するために少し恐れながらも提督に触れた。
「不思議です。もう会えないと思っていたのに…」
「大丈夫だ、いつも俺は傍にいる。」
長期間の監禁によって艦娘の頑丈な肉体も自力では立てないほどに衰弱してしまった加賀に肩を貸して提督は上で警戒している瑞鶴のところへ戻った。そろそろ古鷹たちが提督が脱走したことに気付いてもおかしくはない。一頻り錯乱した後、奴らはまず提督が外に逃げていないか確認する。提督も加賀程ではないが弱っている。そのため遠くへは逃げられない。近場を捜索していないと分かれば、今度は加賀の事が気になる。もしも提督が加賀の生存と監禁に気付いたら必ず救出する。長年同じ鎮守府で戦ってきた仲間の思考は、両者ともに把握していた。
「瑞鶴、入渠の準備を…どうした?」
地下から出てきた二人は瑞鶴が外に気を配りながらも艤装を展開していたことにどこか違和感を覚えた。ちょっとした戯れで艤装を展開することはあるが、今回は小競り合いどころか内紛に発展する可能性がある。できることならそれは避けたいが、瑞鶴は艤装を展開していた。ここでもし古鷹や時雨、或いはそれに味方した奴と出くわせば死人が出る戦闘になる。
瑞鶴はそれを理解できない艦娘ではない。だというのになぜ艤装を。そう提督が思ったとき、瑞鶴は弓を提督たちに構えた。
「五航戦…」
「まずは加賀さん。生きててよかった。とても嬉しいわ。でも、私にとって嬉しいことが全体にとって嬉しいことかどうかは別の話。」
「なにを言っているんだ、瑞鶴⁉」
「提督さんは今回のこと、上にどう報告するつもりなの?」
瑞鶴はいつでも二人を攻撃できる態勢を維持したまま、質問した。
「…ありのまますべてを報告する。そうすれば、どれだけ温情がかけられても古鷹と時雨は解体される。二人を手伝った奴らも、解体まではいかなくても懲罰としてここにはいられないだろう。」
「提督さんならそうすると思った。けど、だからダメなの。」
瑞鶴の弓を引く力が一層強まった。
「ここは軍全体でも有数の鎮守府。そこで艦娘たちが共謀して提督と秘書艦を監禁して暴行。それが明るみに出ると軍への信用が失墜する。ほかの鎮守府も同じような事件が起きるんじゃないかと提督と艦娘の間に溝が生まれる。士気は下がるし、まとまりもなくなる。そうするとこの戦争は終わる。私たちの負けでね。」
「あなたはつまり、提督に私を捨てろと言いたいの?」
瑞鶴の説明が辿り着く結論に我慢できなくなった加賀が、並みの艦娘では見られただけで心臓が止まってしまうような眼光で瑞鶴を睨む。
「あの二人が事を起こした時点で、提督さんたちが向かうべき道は二つしかなかったの。一つは古鷹さんたちの計画通り、提督さんが加賀さんを捨てて二人のものになる未来。そしてもう一つは…」
つがえていた矢が、まだ発射されていないというのに艦爆へと姿を変えた。
「ここで死ぬ終焉。」
加賀は自身の無力さを恨んだ。今の加賀には攻撃開始寸前の瑞鶴をどうにかすることはできない。そして提督も、艦娘の力に人間が勝てないことはここ数日の間に心の奥底まで刷り込まれていた。
それならば、提督には取るべき道は一つしか残されていなかった。
「殺せ。未練は残るが悔いはない。」
「提督ッ⁉」
「すまない加賀。だが俺は、お前を忘れて生きていくことはできない。」
「…分かりました。私も、あなたのすぐそばに。」
「自由になろう。肉体という檻を捨てて、魂だけの自由に。」
加賀と提督は態勢を変え、より密着できるよう抱き合う形となった。二つの心臓の鼓動すら完全に一つとなった二人を少し嫌そうな顔で眺めていた瑞鶴は、とうとう矢を放った。
「○○さーんッ!! そろそろ陽が沈みますよーッ!!」
「分かった。今戻る。」
山奥の森の中に、一軒の家があった。その家の前には手入れの行き届いた田んぼや畑が広がっており、黄金の秋を迎えていた。
玄関先に出てきたツインテールの女性は、畑ですくすくと育っている野菜を見ていた男性に大声で呼びかける。それに気づいた男は手を女に振りながら、服についた土を払うと家へと向かっていく。
「加賀さんが一緒にお風呂入らないって誘ってたよー!!」
「お前も一緒に入るか、瑞鶴?」
「冗談はやめてよ。加賀さんに七面鳥にされちゃう。」
「大丈夫だよ。加賀も瑞鶴のことは認めてる。いつ切り出そうかと悩んでいるんだ。」
「そうなんだ…。じゃあ、御一緒しちゃおうかな。」
提督と加賀は、死亡した。正確に言えば、書類上は死んだことになった。
「…今から工廠を爆撃する。その間に加賀さんを入渠させて外に逃げて。」
瑞鶴は俗にバケツと呼ばれている高速修復材と加賀の艤装を妖精にドックまで運ばせると、矢によって穴のあいた工作機械の燃料タンクの近くに燃料と弾薬の詰まったドラム缶を並べだした。
「瑞鶴、まさかだが…」
「シナリオはこう。婚約者を失った提督は狂気に奔り工廠で焼身自殺。遺体は火薬の爆発と建物の倒壊で確認できず。あの二人だって提督さんと加賀さんの消息は掴めない。」
「でも、それじゃあ瑞鶴が。」
「大丈夫。加賀さんが行方不明になった時点で覚悟はしていたもの。一人になっても戦い続ける覚悟を。」
爆破の準備を終えた瑞鶴は演習場方面に出る扉に近づいた。おそらく夜間の航空機発着艦練習をしていたと言い訳して爆撃隊を飛ばし、そして第一発見者となる腹積もりなのだろう。だがその計画を加賀は許せなかった。
「瑞鶴…あなたが私たちの事を想ってくれたことは嬉しいです。ですが、あなたはどうするつもりですか。」
「加賀さん…」
「あなたにも疑いの目はいく。私たちを逃がしたことがあの二人にバレたら…いえ、そうであると二人が思い込んでしまったら、あなたは死よりも恐ろしい目にあう。」
加賀は今まで閉じていた左目を開けるが、目は白濁しており、視力を失っていることを示していた。たとえ入渠すれば回復するとはいえ、失うまでの過程は恐ろしい。想像以上の覚悟が必要なのかと瑞鶴は案じた。
「なあ瑞鶴、お前も来るか?」
「提督さん…」
「加賀もいいだろ? 瑞鶴だけ置いていくなんて…」
「いいでしょう。あなたは提督を守ってくれました。その恩には報いたいです。」
「ありがとう、加賀さん、提督さん」
そうして加賀はMIA、提督は遺体すら残らない焼身自殺、二人を慕っていた瑞鶴はショックで軍を引退。各々違う理由で鎮守府を去った三人は集団疎開に乗じて鎮守府から遠い山奥へと引っ越した。
「いい湯だな…」
「温かいね、○○さん。」
「もう少し、寄ってください。この子が冷えてしまわないように。」
家の裏に湧いた温泉に浸りながら、四人の人生は続いていく。