◇◆ 提督の執務室 ◆◇
執務室の窓越しに、朝の光が差し込んでいる。
鎮守府を一望できる大きな窓を背に、据えられた重厚な机。
その机の手前には、深い色味の革張り椅子と重厚な木製テーブルが並ぶ、来客用の一角が静かに広がっている。
波音は聞こえない。
けれど、確かに、海はそこにある。
落ち着いた空気の中、六つの椅子には――
長門、陸奥、大淀、明石、高雄、そして提督が座っている。
◇◆ 状況報告 ◆◇
長門が、端的に切り出す。
「……明石。摩耶の状態について、報告を」
その声は、真っ直ぐで力強い。
膝の上で指を組み直す明石が、深く息を吸って応じる。
「はい。昨日までに、すべてのチェックを終えました」
その声には、迷いも曇りもない。
「フィジカルについては問題ありません。
身体機能は良好ですし、艤装との生体リンクも、脊髄下部経由で正しく再構築されています」
窓際の席に座る提督は、表情を変えず、ただ静かに前を見ている。
その視線の先は、誰にも見えない場所――
きっと、海のさらに向こうにある何かを、見つめている。
◇◆ 一部の記憶 ◆◇
陸奥が、椅子から少しだけ身を乗り出す。
「……メンタルと認知機能は?」
明石は、わずかにうなずき、はっきりと答える。
「メンタルも問題ありません……艦娘としての機能――知覚、判断、戦術応答など――いずれも正常範囲です。
妖精さんたちとも複数回確認しましたが、異常所見はありません」
その場にいた全員が、少しだけ息をつく。
だが――明石は、ふと視線を落とす。
「……ただ、一点だけ」
沈黙が落ちる。
言葉を探しているのではなく、言葉を正しく降ろすための時間。
「……一部、記憶の断絶が見られます」
声は淡々としているのに、心には重く響く。
「提督との日々――その記憶が、まるごと抜け落ちています」
驚きの声はない。
すでに、この場にいる者たちは皆、その事実を知っている。
けれど、それでも――言葉にされることで、その重さが改めて胸を打つ。
◇◆ 心の一番奥に ◆◇
長門が、腕を組んだまま、低く問う。
「……轟沈寸前までいった艦娘の一時的な記憶障害。聞いたことはあるが……摩耶の場合は?」
明石がうなずく。
「はい。外傷による脳の高次機能へのダメージや、極度のストレスによる障害は、これまでに何例か確認されています。
でも……今回のように、特定の記憶だけが、切り取ったように欠落している事例は……」
彼女は一度、静かに息を吐き、首を横に振った。
「……事例はありません……」
大淀が、手帳をそっと閉じながら言う。
「明石……ある種の、防衛機制……なの?」
明石は、ゆっくりとうなずく。
「そう捉えるのが自然ですが……ただ、一般に知られる防衛機制とは、異なると思われます」
陸奥が、つらそうに呟く。
「違うって……?」
明石は、ことばを丁寧に紡ぐ。
「通常の防衛機制は、“受け入れたくないもの”を見えなくして、自分を守るものです。
でも、摩耶さんの場合――」
少し言葉を切り、明石は、優しく続けた。
「……あの極限状態の中で、自分にとって一番大切なものを、
“壊れないように”……いや、“消えないように”――無意識のうちに、一番安全なところ
……心の一番奥へとしまい込んだように思えます」
「まるで、それだけには絶対に、誰にも壊されないように……」
静かな沈黙のなか、高雄の瞳が、ほんのりと潤む。
「……摩耶……」
◇◆ 静かな決意 ◆◇
提督は、まっすぐに前を見ている。
何も言わないけれど、そこに込められた想いは――
高雄が、かすかに声を震わせながら言う。
「……提督、摩耶の復帰は……」
その続きを言う前に、提督は、ゆっくりと目を閉じ――
すぐに大淀が、その意図を受け取る。
「南方哨戒海域で、深海棲艦の機動部隊との接触が確認されています。
緊張状態が続いています」
大淀の声は凛としてるけれど、どこか辛そうで……
「前線への復帰は、当面見送る方針です。
ただし、艤装の再装着と演習への段階的な復帰は、今週末以降にて準備可能です」
明石が、やわらかく微笑んだ。
「身体的には問題ありません。
ただ……無理はさせないでください。
摩耶さん自身が、“取り戻そう”としているように、私には感じられます」
◇◆ 重なる沈黙 ◆◇
言葉は、もう、必要ない。
執務室に満ちた沈黙が――
彼らの決意と、やさしさと、絆を物語っている。
それは、指揮官として。
仲間として。
姉妹として。
そして、誰よりも大切な人を思う者として――
この部屋にいるすべての者の想いが、重なる。
その静けさの中に、
この鎮守府の強さと温かさが、確かに息づいている。