◇◆ 潮風のベンチで ◆◇
ラジオであの曲を聴いてから、何日か経った頃。
重巡寮に戻る前にちょっと遠回りして、鎮守府内の海沿いの散歩道を歩いてた。
昼の任務も終わって、ようやく一息つける午後。
潮の香りがふわりと鼻をくすぐって、どこか遠くから波の音が届いてくる。
自然と、口元からあの歌のメロディがこぼれる。
うろ覚えの旋律と歌詞だけど、なぜか忘れられない。
『You take my heart away…』
ラジオで聴いたあの日、涙が出た理由は、まだ分からない。
でも、心が温かくなって、胸の奥がやさしく揺れた。
それだけは、たしかに覚えてる。
ぼんやり歩いてたそのとき、不意に声がかかった。
「へぇ〜、摩耶。『ロッキー』好きなんだ?」
「……っ!? 誰っ――」
びっくりして立ち止まると、散歩道の脇、ちょっと奥まったベンチに秋雲がいた。
スケッチブックを膝にのせて、にやりとこっちを見てる。
「……秋雲? そこにいたのかよ。全然気づかなかったぜ」
「でしょ? ここ、静かで描きやすいんだよね〜。風も気持ちいいし」
そう言って、秋雲はスケッチブックに視線を戻す。
アタシは少し迷ってから、そのベンチに近づいた。
スケッチブックを覗くと、そこには描きかけの海の風景。
艦娘の絵ばっか描いてると思ってたけど、こんな絵も描くんだな。
「でさ……ロッキーって、なに?」
ぽつりと聞くと、秋雲はちょっとだけ目を丸くしたけど、すぐに口角をゆるめた。
「え、知らないの? 昔の映画だよ。ボクシングのやつ。あたしも詳しいわけじゃないけどさ……さっき摩耶が鼻歌してた曲、『You Take My Heart Away』って言って、それが流れる映画だよ」
「……マジかよ。そんな映画の曲だったのか」
知らなかった。
でも、アタシはあの曲を知ってた。歌詞まで口ずさめるくらいには、ちゃんと。
なのに、映画のことは何も覚えてない。
……なんでだよ、アタシ。
なんか、大事なことわすれてんのかなぁ
「映画、観てみれば? 綾波と敷波がDVD持ってると思う。あの二人、映画好きだし」
秋雲はスケッチブックを閉じて、軽く伸びをする。
なんか、今日の秋雲、いつもとちょっと違う。
あの子にしては、からかってこないし、落ち着いてる。
「秋雲、今日は素直じゃん。いつもだったら、何か余計なこと言ってくるくせにさ」
からかい気味に言ってみたら、秋雲はふっと目を細めて、ちょっとだけ笑った。
「まあね。ロッキーは、あたしにとってもちょっと大事な映画だからさ」
「……そうなんだ」
それ以上、アタシは聞かなかった。
でも、その言い方、すごく……やさしかった。
◇◆ 小さな光 ◆◇
秋雲の隣に腰を下ろして、しばらく波の音を聞いてた。
さっき話したロッキーのこと。
ラジオで聴いた、あの曲のこと。
色んな気持ちが、胸の中でゆっくりとかき混ぜられていく。
ふと、秋雲がスケッチブックをめくったとき――
袖の隙間から、ちらりと何かが光った。
「……ん?」
太陽の光を受けて、手首に巻かれた細いブレスレットが、一瞬だけきらっと反射した。
「秋雲って、ブレスレットなんかしてたっけ?」
声をかけると、秋雲はちょっと肩をすくめて笑った。
「あー……気づいちゃった?」
「いや、別に隠すもんでもないだろ」
「ふふ、まぁね。でも目立たないようにしてたんだよ。たぶん気づいたの、摩耶が初めて」
そう言って、秋雲は袖を少しまくってみせる。
そのブレスレットは、すごく細くてシンプル。
でも、よく見ると、繊細な彫りが入ってて、どこか温かみのあるデザインだった。
「へぇ……これ、けっこう凝ってるじゃん」
「でしょ? 実はね、妖精さんに強化してもらってるの」
「は?」
聞き返すと、秋雲はくすっと笑って、少しだけ声を落とした。
「戦闘中に外れたり壊れたりしないように。明石に頼んで、妖精さんたちに強化してもらったの。肌身離さずつけてたいからさ」
その言葉に、アタシの胸がきゅっと鳴った。
「……大事な思い出の品……なの?」
そう聞くと、秋雲は少し視線をそらして、ほんの少し照れくさそうに笑った。
「……そう……かもね」
それ以上は、何も言わなかった。
でも、言葉にしなくても分かる。
――大事だから、いつも身につけていたい。
――壊れたら、もう取り返しがつかないから。
――だから、妖精さんに頼んで強化してもらった。
アタシの胸の奥が、ちくっとした。
(……アタシも、つけてる)
明石から渡された、小さな箱。
あの中に入ってた、細いチェーンのネックレス。
小さな「R」のチャームがついてて、今もアタシの首元にある。
その意味も、くれた人の顔も、アタシには思い出せない。
でも――
秋雲の話を聞いて、少しだけわかった気がした。
記憶がなくても、大切なものって、きっとある。
自分の中の“何か”が、それをちゃんと覚えてる。
だから、こうしてつけてる。
アタシは無意識に、胸元に手をやる。
ネックレスは、ちゃんと、そこにある。
秋雲はその仕草に気づいてるみたいだったけど、何も言わなかった。
ただ、静かに、やわらかい目でアタシを見てた。
秋雲は知ってる。
アタシが大事な何かを忘れてること、そして、それを無理に思い出させちゃいけないことも。
だからこそ、何も言わない。
ただ、隣にいてくれる。
アタシが、自分の足で思い出にたどり着くまで。
午後の潮風が、ふたりの間をすり抜けていった。
胸の奥で、静かに、何かが輪郭を持ちはじめてた――