◇◆ 夜更け、ひとりの時間 ◆◇
重巡寮の夜は、しんと静まり返ってる。
今日は部屋のシャワーを浴びた。
ふわふわのバスタオルで髪をわしゃわしゃ拭きながら、アタシは壁にかけたカレンダーに目をやる。
明日は――久々の完全オフ。演習も出撃も、なーんにもない日。
「ふふっ……夜更かし決定だな」
自分の声が、やけに静かな部屋に溶けていった。
ぽつんと笑っただけなのに、胸がふわっとあたたかくなる。
みんな出払っていて誰もいない重巡寮。静かで、自分だけの世界みたいな夜。
ちょっと、ワクワクする。
机の上においてある、DVDを手に取る。
綾波と敷波が貸してくれた『ロッキー』――
拳を高く突き上げた男の後ろ姿がジャケットを飾ってる。
アタシが口ずさんでたあの曲、これの中で流れるって秋雲が言ってた。
“You Take My Heart Away”
……ラジオから流れてきたあの時、なんで涙がこぼれたんだろう。
知らない映画のはずなのに、旋律が流れた瞬間、胸が震えた。
(知ってる……知ってる気がしたんだ……)
触れたことがある気がして、触れちゃいけない気もして。
でも、今は――観たい。
全部じゃなくていい。
なにか一つでも、思い出せる気がするから。
(……観てみよう)
◇◆ 鍵のこと ◆◇
寝巻きに着替えようとしたとき、ふと目に入った。
クローゼットの横、壁にちょこんと付いた小さなフック。
そこに――キーホルダーがぶら下がってた。
ちっちゃな妖精さんのチャームが揺れていて、その下には一本の鍵。
「……」
アタシは思わず、そっと手を伸ばして、掌に乗せる。
冷たくて、少し重たい金属の感触。
見慣れてる気もするし、見覚えがまったくない気もする。
(……いつから、ここにあったっけ)
病室から戻ってきた日には、もうかかってたような気がする。
でも、この鍵が“何の鍵”なのかは……思い出せない。
大事なものだった気がするのに。
それだけは、胸の奥でずっと引っかかってるのに。
「……わかんねぇな」
握っているだけで、胸の奥がすこしだけ、やさしくなる。
この鍵で開く扉を見つけたら――きっとその先に……
理由なんか、ない。
でも、確かに――そんな気がした。
長い間見つめて、そっとフックに戻す。
「……ま、今日は映画……」
バスタオルをランドリーバスケットに放り込み、
Tシャツとショートパンツに着替える。
鏡に映ったアタシは、どこかそわそわしてる感じ。
手にDVDを持って、素足のまま、そっとドアを開けた。
◇◆ 夜の映画館 ◆◇
誰もいない重巡寮の談話室。
テレビの画面は黒く沈んでいて、ソファとローテーブルがぽつんと佇んでる。
(……アタシだけの時間、ってやっぱいいな)
静かすぎて、ちょっとだけ寂しい。
でも、なんかワクワクする。
ふと天井の明かりを見上げて、リモコンを手に取る。
「雰囲気、大事だよな……」
ぽちっとボタンを押す。
明かりがふわっと落ちて、部屋が淡いブルーに染まる。
(よし……これなら、映画館みたいじゃん)
DVDプレイヤーにディスクを差し込む。
ピッという音と、ディスクが回る控えめな唸り。
アタシの心も、少しだけ――回り始めた気がする。
◇◆ ビールとポテチ ◆◇
ローテーブルに、談話室の冷蔵庫から取り出した冷えた缶ビールを置く。
酒舗で見つけたちょっといいやつ。
ひんやりとした金属が、指先にしっくり馴染む。
「ふーっ……」
ぷしゅっと静かな音とともに、ビールの香りが広がる。
その隣には、ポテチの袋。
バリバリ食べる気まんまんで、袋はもう開けてある。
(愛宕姉だと許してくれそうだけど……高雄姉か鳥海に見つかったら、絶対怒られるやつ……)
今日は、特別。
明日は休み。誰もいない自分だけの夜。
ソファに沈み込んで、リモコンを握る手に、ほんの少しだけ力がこもる。
親指を、「再生」のボタンの上に置く。
(ボクシングの映画、だって言ってたけど……)
秋雲のあの目――少しだけ、切なかった。
そして、あの曲。
アタシが、涙をこぼした、あの旋律。
――なんで、あんなに胸が締めつけられたんだろう。
(……観れば、わかるかな)
親指で、そっとボタンを押し込む。
画面が光を放ち、静かだった部屋が、音と光に包まれていく。
小さな映画館。アタシだけの夜。
――その物語が、アタシに何かを返してくれる気がする。