◇◆ 朝 ◆◇
朝の鎮守府は、いつもと変わらない光景。
桟橋では駆逐艦たちが元気に点呼を受けていて、遠征帰りの軽巡たちがストレッチしながら埠頭に佇んでる。
食堂のほうからは、賑やかな声が漏れてきて――なんてことない、いつもの朝。
でも、アタシはその喧騒から少し離れて、私服で静かに歩いてる。
今日は、1日完全オフ。
向かうのは、鎮守府の正門を出て、少し歩いた先にある住宅街のマンション。
「帰る」場所を、確かめるために。
ポケットの中には、昨晩ずっと握りしめていたキーホルダーが入ってる。
妖精さんのチャームがついた、小さな鍵。
昨日までは、これが何の鍵なのか分からなかった。
でも今は、はっきりと分かってる。
提督と一緒に暮らすはずだった、新居の鍵。
――だけど、扉が今も開くとは限らない。
契約はとっくに切れてるかもしれない。
鍵は取り替えられてるかもしれない。
もう、違う誰かが住んでいるかもしれない。
(……開かなかったら)
足がふっと止まった。
鎮守府の正門の手前、視界の端で、駆逐艦たちの制服が揺れてる。
ポケットの中のキーホルダーを、ぎゅっと握りしめる。
(アタシの記憶が……間違ってたら?)
提督室に行って、提督の顔を見れば――
きっと、すべてがはっきりする。
でも、足が動かなかった。
あの人の顔を見て……
もし、アタシが思い出したすべてが“勘違い”だったとしたら――
手足が冷たくなっていく。
呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が、ひどく耳に響いた。
(たかが鍵、だろ……? それなのに、どうして……)
これまで幾度も、砲撃の嵐を越えてきた。
どんな戦場でも、アタシは前に進めた。
でも今は――
たったひとつの鍵が、アタシをこんなに震えさせてる。
「……行くしかねぇだろ」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
ここで逃げたら、一生後悔する。
もし開かなくても――それでも、自分で確かめなきゃならない。
アタシと提督が選んだ家具は、本当にそこにあるのか。
ふたりで決めた家電は、今も部屋にあるのか。
あの場所は、今もアタシの“帰る家”なのか。
「……確かめなきゃ」
深く息を吸って、アタシは一歩を踏み出した。
重い。
たった一歩なのに、こんなにも足が前に出ないなんて。
「ったく……アタシらしくねぇ……」
思わず苦笑いしながら、自分を叱るように呟いた。
そして、ゆっくりと鎮守府の正門をくぐる。
波の音が聞こえてくる。
潮の香りが、ふと鼻先をかすめて――懐かしさが胸に灯る。
(……ここ、提督と歩いたよな)
思い出す。
家具を選びに行った帰り道。
ソファの話をして、提督が「仲良しソファ」って名前を知らずに座って――アタシが真っ赤になったこと。
ダブルベッドの前で、あの人の天然な一言に思わず目を逸らしたこと。
キッチンを見て、どんな料理を作ろうかって、アタシなりにワクワクしたこと。
(……確かに、アタシの中にある)
アタシは胸に手を当て、目を閉じた。
ネックレスの“R”のチャームが、肌にやさしく触れてる。
記憶は曖昧でも――
気持ちは、ずっと、ここにある。
(なら……信じてみよう)
静かに息を吐いて、拳をぎゅっと握りしめた。
マンションに着く。
入口を通り、エレベーターに乗って、階を上がる。
廊下をゆっくりと歩き――そして、目の前にたどり着く。
アタシたちの、新しい生活が始まるはずだった部屋の扉。
ポケットから鍵を取り出す。
手が、かすかに震えていた。
(お願いだから……開いて)
喉が、ごくりと鳴る。
手が震えて鍵が上手くささらない……
(落ち着け,アタシ……)
鍵を、ゆっくりと差し込んで――
静かに、回す。
(……)
(…………)
(……………………)
カチリ。
小さな音が、確かに鳴った。
「……っ」
アタシの瞳が、見開かれる。
(……開いたんだ)
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
扉の向こうに、何があるのか――
それはまだ分からないけど。
震える手で、ドアノブにそっと手をかけた。
あたたかい光が、すぐそこにある気がする。