根府川
東海道の小駅
赤いカンナの咲いている駅
たっぷり栄養のある
大きな花の向うに
いつもまっさおな海がひろがっていた
中尉との恋の話をきかされながら
友と二人ここを通ったことがあった
◆
「まっさおな海……ねえ」
アスカは学校からの帰路、しばし立ち止まって独りで海を眺めながら、しじまと共にその詩を思い出していた。
根府川出身だという老教師が、前に授業中に紹介してくれた詩だ。
「茨木のり子という人は、私の故郷の海を詩に読んでくれていましてね──とても有名な詩なんですが」
それを紹介してもらったのはもう随分前の授業だったが、アスカは今でも毎日学校に通っている。通っている学校は異なるが、制服は変わらず第壱中学校のジャンパースカート風のものだ。
何の意味があるのかは分からない。大学を出ている自分にとって、中学に何の意味があるのか。使徒は全て滅んだ。学校に通っても毎日待っているのは代わり映えのしない同じ日だけだ。
それでもアスカは前と同じ日常を繰り返すことに頑なだった。
「そういえば、帰り道──。鈴原の話もよく聞かされたっけ」
中尉ならぬ鈴原トウジへの想いを親友洞木ヒカリからよく聞かされたものだ。
詩は大戦中に十代を過ごしたという作者の実体験を反映したものなのだろうか。私たちと同じように戦う日々の中で、
アスカはふと、会ったことも写真を見たこともない詩人の「茨木ノリコ」を羨ましく思った。ノリコも、ヒカリも恨めしく思った。
「あんたはそれでも生き残ったんじゃないか──想いを叶えたんじゃないか」
忌々しげに呟いて。あんたというのはノリコのことか、ヒカリのことか、それとも──アスカ自身のことなのか。
不分明なままに、足元の小石を掴んで海に向かって投げる。もちろん海までは遠く、届かない。それが何故だか、女の無力さのように思えて空しかった。
それからトボトボと独りの家路を再び歩き始めた。
◆
溢れるような青春を
リュックにつめこみ
動員令をポケットに
ゆられていったこともある
燃えさかる東京をあとに
ネーブルの花の白かったふるさとへ
たどりつくときも
あなたは在った
◆
「非常召集!?」
「戦自が攻めてきたのよ。ネルフ本部に直接カチコミね」
入院中のベッドから保安部員に連れ出され、エヴァ弐号機にエントリー次第、秘話回線を繋ぐように指示されていた。普段はどこかC調のミサトの声にも緊迫感が漂っている。
「戦自って味方じゃなかったの?」
「味方であるうちは味方だったのよ……その辺は男と同じね。とにかくプラグの中が一番安全だから」
「ったく、こちとら病み上がりだってーのに」
──その時、あいつのことなんか、絶対考えなかった。あいつが白馬の王子様になってくれないことなんて最初から分かっていたんだから。
それなのに、溢れるような青春のほんのひとかけらのような気持ちを、あいつとの日々に感じてしまったのがくやしい。それが一瞬にして奪われたように感じてしまうのがもっとくやしい。単にそれは大きな力など関係なく、私が拒絶し、あいつがもう呉れなくなったもの──。ただ、それだけであるのに。
しかも──私にはそれをリュックに詰め込むような時間は与えられなかった。
全てが終わって破壊され尽くした第3新東京市を落ち延びる時に思ったのは、遠いふるさとではなく、海がみたいという気持ち。今さら故郷に帰ってどうなるという諦観もあった。
根府川の海──その詩を覚えていた事が、アスカをこの地に向かわせた。たまには退屈な学校の授業もちゃんと聞いておくものだ。
◆
丈高いカンナの花よ
おだやかな相模の海よ
沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月
うしなわれたたった一つの海賊箱
◆
苦労して根府川にたどり着いたアスカは、その海を見てほっとした。
青い海面にキラキラと陽光が反射して、沖に光る波のひとひら──そんな光景を期待していたわけではないから──それがその日の曇天の下で十分に、おだやかな相模の海と呼び得ることだけに満足した。
ちょっとグラジオラスにも似た、丈高いカンナの花が見あたらなくても失望はしなかった。
もう、高望みなんてしない。
風船のように消えた
無知で純粋で徒労だった歳月
チルドレンとしての厳しい訓練や命懸けの使徒との戦いが、すべて徒労だったことをちゃんと理解できただけで御の字とするべきなのだろう。何も分からないうちに「私」が消えてしまったのでは無いのだから。
──思えば、あの霧島マナとかいう転校生の騒動。あの時にシンジと喧嘩して、あいつにマナを忘れさせ、芦ノ湖の偽物の海賊船を見て帰った日が、私の人生で一番かがやいていた。
「この湖に浮いてる海賊船って、嵐の海を通ることなんか一生できないんだろうね」
「船がかわいそう?」
「いい気味」
だから──海賊箱はまだうしなわれていない。海賊箱があの想い出のようなものだとしたら、それを本当の意味でうしなわせることなんか出来るのだろうか。たとえ私たちが──嵐の海を通った難破船のような敗者だったとしても。
◆
ほっそりと
蒼く
国を抱きしめて
眉をあげていた
菜ッパ服時代の小さいあたしを
根府川の海よ
忘れはしないだろう?
女の年輪をましながら
ふたたび私は通過する
あれから八年
ひたすらに不敵なこころを育て
◆
「ママー! ママ! 私、選ばれたの。人類を守るエリートパイロットなのよ。世界一なのよ」
人類、世界、国──小さいあたしが、それらを守ると誇りに思っていたことはすべて空しかった。でも、そんな姿をあの海は忘れないでいてくれるだろう。幼さゆえの一途な錯誤と謬見と増長を誰もが忘れてしまっては、それは本当に空しくなる。
だが、だからこそアスカは錯誤と謬見と増長を繰り返すつもりはない。
──私は不敵なこころをちゃんと育てようとしている。私は今や世界の半分である。世界に流されるのではなく、誰かに寄りかかるのではなく、するべきことをして、ほしいものを手にいれて、ちゃんと独りで立っていける──はずだ。
だからこれはちっとも増長ではあるまい──と思う。
◆
海よ
あなたのように
あらぬ方を眺めながら……。
◆
家に帰ると誰もいなかった。黙って庭に出てみると、そこから緩やかに下る先に海岸が見えた。
──あいつは、そこにいた。いつもと変わらず。
ずっと浜辺の上で学生服のまま、遠浅の赤い海を見て、膝を両腕で抱えてうずくまっている。アスカは知らず安堵し、庭から大声で声を掛ける。かろうじて聞こえる声で浜から返事がある。
「帰ったわよ──」
「──うん」
「何かあった?」
「別に」
シンジはああして残りの人類が帰還するのを待っている。その兆候をずっと監視するために毎日、浜辺で他の皆が溶け込んだ赤いLCLの海を眺めているのだ。言葉に出して彼がそう説明したことはないが、アスカはシンジの行動の意味をそう解釈することにしている。
庭から部屋に戻り、テーブルの上にスーパーから回収してきた缶詰類を並べ始める。暗くなればシンジは何も言わなくても帰ってくる。そうしたら夕食だ。そろそろ農業を始めないと生活が厳しくなると庭や近所の公園や空き地にとあちこち菜園も作り始めたが、当面はこうして生きている。偶には自家発電機を使って、レトルトパウチ食品をレンチンすることもあるが、温かい料理は貴重だ。燃料調達には手間がかかる。ガス調理が出来るように、乾電池式のガスコンロの調達──いや、その前にプロパンガスの交換方法をそろそろ覚えなくてはならないか。日本が常夏なのは変わっていないのでその点は助かる。
シンジの手首を掴んだまま根府川に避難して来て以来、アスカは平日は制服で、誰もいない学校に行き、ありもしない授業の代わりに、教室で独り実用書や文学を読む。数式が出て来る書籍は、黒板で実際に演算して確かめてみたりもする。本は近くの図書館や書店から借りてくる。
同じく勝手に借りている今の一戸建ての家は、医者のものらしく、書斎には医学書が沢山あった。それも最近では学校に持って行って読んでいる。アスカはいずれは医者になろうかと思っている。
シンジは学校に行くことはない。朝から晩まで浜辺にいる。アスカはシンジに昼食用のレーションや缶詰を持たせてやる。シンジはこれを学生かばんに素直にしまって持って行く。一応毎日食べているようだ。お互いに話はあまりしない。日々は単調だし、「ん」とか「え?」「そう」などのやり取りで了解することも多い。
それに、シンジはアスカと一緒にいるときでも、彼女とは別のどこか──あらぬ
朝食と夕食とベッドだけは共にしている。二階には主を失ったキングサイズのタブルベットがあったのでシーツを取り替えて──IKEAだかニトリだかの新品のものに──、有り難く使わせて貰っている。
電気が使えないので二人は毎晩早く床に入るが、夜の男女の営みは頻度も内容も平均的だ。というのも、アスカとシンジがこの世の最後の人類なので、当然全てが平均値と等しくなる──最近はコツが掴めてきて知ったばかりの性愛の快楽にのめり込み、いささか荒淫気味かも? とちらりと思ったりもするが、うちは平均的だし! とアスカは開き直って、以後気にしないことにした。世界一、キスやセックスをしまくるカップルになるのも容易だ。色々と不満もあるが、アスカはそれにはいたく満足している──。