「失礼、畳間です」
「おお、入りなさい」
久方ぶりの休暇も終わりに近づいたころ、突然に呼び出された畳間は火影の執務室へと足を運び、その扉を叩いた。しゃがれた声が、扉の向こう側から聞こえる。ひんやりとした鉄のドアノブを回し、畳間は扉を開いた。
乱雑とした机が、入室した畳間の視界へ入り込んだ。舞い込む仕事に、処理が追いついていないのだろう。積み上げられた書類は見る者を圧倒し、処理者への憐れみすら感じさせる。
そよ風が畳間の頬を撫でる。
火影の執務室には、里を一望できる巨大な窓がある。開け放たれた窓から入り込む風は涼しく、心地の良いものだった。
畳間は吸い寄せられるように、開け放たれた窓へと視線を向ける。
挿し込む光の向こう側には、慕うべき木ノ葉隠れの里が広がっている。子供たちが駆け、小鳥が飛び交い、木の葉舞う―――窓から見えるその光景は、まるで部屋を彩る一枚の絵画のようだ。
畳間は眩しげに目元を細めた。
「変わりないようだな」
聞こえてきた声に、畳間は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。殺伐とした心象に入り込んだ美しい光景に、意識を奪われ過ぎたようだ。
声の方へ、畳間は視線を向ける。
窓から少し離れたところに、その男は立っていた。
白い外套に身を包み、『火』の文字を刻んだ笠を被ったその男は、笠の奥に隠した口元に微笑みを浮かべている。
畳間は無防備な姿を見られていたことへの恥ずかしさから、数回瞬きをしてみせた。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
畳間は机から少し離れた場所で立ち止まり、足を肩幅に開くと、仰々しく頭を下げる。それは形式ばった待機の姿勢である。
男は畳間の姿を見て思うところがあったようで、微笑みの質を少し変え、口を開く。
「まずは、急に呼び出してすまなかったな、畳間よ」
「いえ、それは構いませんが……。何かまた厄介ごとですか?」
男の慇懃な態度を前に、畳間は表情を動かすことは無く。ただ、言葉の端に滲んだ疲れ切った雰囲気を隠すことは、叶わなかったようである。
「いや、そういうわけではない。そう成り得るやもしれないが、今はまだな」
男は小さく首を振ると、畳間の懸念を否定する。
「なるほど、いつものことですか」
「今となっては、そうなるな」
男は疲れたように喉を鳴らすと、畳間に背を向ける。男が慈しみの視線を向けるのは、窓の外に広がる愛おしい故郷だった。
室内に吹いた一陣の風が男の外套を揺らす。畳間は吸い寄せられるように、その背に刻まれた言葉を見つめた。
≪
男―――猿飛ヒルゼンが『三代目火影』となって、すでに一年が経つ。木ノ葉に横たわる岩盤には一つ顔岩が増え、木ノ葉には新たな命が芽吹いた。
たった一年、されど一年。
この一年間は畳間にとってもヒルゼンにとっても、人生で最も長い一年だっただろう。
―――あの日、二代目火影の葬儀の最中、猿飛ヒルゼンは火影を継承し三代目に就任することを公的に発表した。これにより『長の不在』という混乱は、最低限に留めることが出来た―――はずである。
若き火影への疑念は確かにあり、里内はヒルゼンにうろん気な視線を向けた。
千手柱間に続き、千手扉間と言う戦力を失い、他里への影響力が失われたことへの懸念も、当然のごとく浮上した。
その懸念されたものの一つに、こういった存在があった。その名を、人柱力と呼ぶ。
尾獣という生命体が存在する。
戦国時代においては『触らぬ尾獣に祟りなし』と恐れられた、九体の化物たちのことだ。それぞれが一から九本までの特徴的な尾を持ち、一尾、二尾と尾の数で区別される。
人柱力とは、この『尾獣』と呼ばれるチャクラの怪物をその身に宿した者たちを指す。
尾獣。
曰く、その体は山ほどの大きさを誇り、尾の一振りで百の忍びを肉片に変える。
曰く、生半可な術は通じず、山を吹き飛ばすほどのチャクラ砲を際限なくぶちまける。
曰く、それらは六道仙人の時代から存在し、人の力を歯牙にもかけない。
かつて尾獣によって発生した被害は、もはや人の手ではどうしようもない『自然災害』と区分されていた。捕獲など出来るはずもない。ましてやそんな尾獣を体に宿し、その莫大な力をコントロールする『人柱力』などという存在は、まさに机上の空論だった。
唯一、砂隠れの里だけは人の中に尾獣である『一尾』を封印せしめたことがある。
けれどもその力はお世辞にも安定しているとは言い難く、封印が弱まるがために眠ることも許されない。『人柱力』として兵器運用するどころか、里内で暴走し自滅する危険性の方が高く、そのことごとくが失敗に終わった。よって尾獣の力が暴走することを恐れた初代風影は、人柱力となった僧侶を隔離し、老衰するまでずっと、檻の中に監禁し続けたと言う。
尾獣とは、それほどまでに危険な存在だった。
だが第一次忍界大戦の後、初代火影・千手柱間が二尾から八尾までの尾獣を捕獲し、『戦争の抑止力』として各里へ分配したことでその認識は一変する。
元々、人柱力を運用するに際して不足していたのは、尾獣を完璧に封じ込め、その力を抽出することが出来る封印術の存在だった。
各里は分配された尾獣を封じていた”うずまき式封印術”を独自に解読・改善することで、人柱力のエネルギー源として尾獣を活用するための、新たな封印術を研究し始めたのである。
結果として、各里は不安定ながらも、莫大なチャクラ源を宿した強力な忍び―――人柱力を手に入れた。
その過程において、各里は人柱力の力と、それを制御できなかった場合に発生する震え上がるほどの恐怖を知り、同時に一つの認識をする。
すなわち、「人柱力は人柱力でないと倒せない」。
各里は互いの人柱力を恐れ、同時に己の里に存在する人柱力を恐れた。互いに手を出すことが難しくなると言う状態は、千手扉間が思い描いた通りの、”抑止力”による戦争の終結を完成させたのである。
もちろん例外はある。
戦国の世を駆け抜けた忍びたちの中には、尾獣を相手取っても尚勝利を掴む、文字通りの化物たちが存在する。
忍の神と謳われた千手柱間は、木遁を操ることで尾獣を封殺することが出来た。
うちはマダラはその瞳力により尾獣を縛り上げ、操ることが出来た。
今現在”影”を名乗る者たちもまた、皆が皆、単独で尾獣に対抗できる化物揃いと言っていい。そしてそれは先代の火影、千手扉間にも言えたこと。
ゆえに、人々は尾獣という存在を恐れつつ、安心することが出来た。それは先の大戦で活躍し、実績を立てて来た影達への信頼である。彼さえいればどうにかなるという、無上の信頼。
―――猿飛ヒルゼンは、本当に尾獣に対抗できるのか?
二代目火影が失われ、三代目火影となった時、その疑問が浮かび上がるのは必然だった。
千手柱間は世を去って久しく、うちはマダラは里を抜けた。千手扉間も失われ、唯一残った木ノ葉の人柱力はといえば、老いさらばえ、戦う力などありはしない老婆が一人。
これで不安を抱くなという方に無理があるだろう。
木ノ葉隠れの里が抱える”不安”。
そこにいち早く気づき行動に移したのは意外なことに、内政に力を注いでいた猿飛ヒルゼンでは無く、外交へ力を注いでいた志村ダンゾウであった。
猿飛ヒルゼンにも志村ダンゾウにも、その命を賭けて里を守り抜く覚悟があり、尾獣を相手にしたとしても、恐れず立ち向かう火の意志が在る。
だが、それだけでは人々が納得しないのもまた事実。
ヒルゼンが三代目火影として内部を掌握するには、どうしても里内で燻る『尾獣への恐怖』を取り払う必要があったのである。
これが平時での代替わりならば、何の問題も無かった。
二代目火影・千手扉間が生きているうちに引継ぎを終えることが出来ていたならば―――。
だが、状況がそれを許さなかった。
二代目火影、二代目雷影が殺害され、安定を見せていたはずの忍界は一転した。
砂と霧は公平なる領土拡大を謳い、小国の土地を切り取るために蠢きだした。
二代目火影を失ったとはいえ、木ノ葉は千手とうちはを有する大国であることに変わりない。けれどもかつての権威を失った今、牽制がどこまで通用するかもわからない。
危うい均衡の上に、今の忍界は成り立っている。
そんな一触即発の中に在って人々を安心させるには、猿飛ヒルゼンと志村ダンゾウの二人ではまだ足りない。本来ならば不足ない家名だが、千手とうちはに比べれば仕方の無いことだ。最初からハードルが高すぎる。
扉間の意志を継ぐ唯一の”うちは”たる、うちはカガミは、けれども一族の縛りがそれを許さなかった。かつての内乱でマダラ一派の粛正を成功させ、穏健派が主軸になった今もなお、他一族への風当たりは強いままである。あくまで千手一族には敵わないと認めただけで、そのプライドは未だ燻っている。
秋道トリフは名門の出であるが、志村、猿飛に比べてネームバリューに劣る。うたたね、水戸門は一族としては力が弱く、また精神的な面で支柱として器では無い。そもそも彼らでは尾獣を相手に勝るとは思えなかった。九尾の力の一端を得た金角・銀角兄弟に敗走したとあれば、そう取られても当然である。
八方塞がりといえる状況―――二代目火影が見出した者たち皆が身動きを取れない中で、ダンゾウは、ある男の存在に気づいた。
―――初代火影と二代目火影の遺産。名を、千手畳間。
千手畳間はその肩書きとは裏腹に、木ノ葉上層部には一切の関わりを持っていない。客観的に見て『表舞台から遠ざけられている』状態にあり、生前の扉間もまた、そのように畳間を扱っていた。
ゆえに、木遁を扱えることはごく一部の者にしか知らされておらず、『血統に恵まれながらも中堅止まり』という認識が一般的とされていた彼の存在は、すべての苦境をひっくり返す至高の一手と成り得た。
木遁―――かつて初代火影が得意とし、最強の尾獣・九尾を捉え、最悪の抜け忍・うちはマダラを滅ぼした最強の血継限界。
―――ああ、そうだ、彼がいた。初代様のお孫様が……。
ヒルゼンの側近として台頭した畳間は、ヒルゼンに絶対の忠誠と感謝を示した。人々は初代火影を継ぐ畳間の姿に深い”安心”を覚え、畳間を従えるヒルゼンに絶対の信頼を置いたのである。
初代火影、二代目火影を輩出した千手一族直系という肩書きは、それだけで大きな力となる。
木遁という才能も、初代火影の面影を重ねるには十分過ぎる。そしてその実力も、かつてSランクとしてビンゴブックに記されていた角都を打倒しえたという時点で申し分ない。
だが―――もしも畳間が、二代目火影の政権下で表舞台に立っていたとすれば、ここまで”事”は上手く運ばなかったはずだ。
断言してもいい。扉間の政権下でその名を轟かせ、里の皆に里を守る者として認識されていたとすれば、そのときは確実に、”三代目火影・千手畳間”を推す派閥が現れていた。
だが一方で、猿飛ヒルゼンもまた、二代目火影から直々に”影”を託された身である。ダンゾウを始めとする二代目火影を真の意味で慕う者たちは、是が非でも彼の遺志を継ごうとするだろう。
ならば畳間が
そしてその果てに待つものは一つ―――滅びだ。
『三代目火影・猿飛ヒルゼン』か、
―――それとも
『三代目火影・千手畳間』か。
里は二つの派閥に別れ、統率を失い乱れ狂い、やがて落ち葉となって枯れ果てる。
扉間が、自身の”御旗”に千手畳間では無く、はたけサクモを据えた理由が、そこにあった。
うちはを遠ざけたのも、扉間の身に何かが起きたとき、咄嗟に出しゃばれないように枷を付けるため。
もう一人の千手である綱手をヒルゼンの子飼いとして配置したのも、ヒルゼンの弟子として拘束することで、他所の派閥に取り込まれないようにするため。
そして万が一、千手畳間が他所の派閥に取り込まれたとしても、綱手と言う人質を持っていれば封殺することが出来る。これは扉間が畳間の本質である兄妹愛に気が付いていたがゆえに張り巡らせた予防線でもあった。
二代目火影・千手扉間の政策のすべてが一つの線で繋がっていく。
―――すなわち二代目火影・千手扉間が己の急逝すらも視野に入れ、可能な限りのすべてを次代に残そうとしたという、忍びとしての究極の道。
それに気づいたダンゾウは、扉間の想いに打ち震えることを抑えられなかった。
あの人以上に里を想い、先を見据えていた忍びはいない―――ダンゾウは改めて、涙を流してその死を惜しんだのである。
そんな偉大な男から未来を託された千手畳間はと言えば、師を失ったことでの失意がためか、療養と称し、自宅に引きこもって出てこない。
それを知った時のダンゾウの胸中はどれほどのものか。
けれどもダンゾウは内心を噯にも出さず、直々に千手邸へと出向いた。
―――どうかあの馬鹿を守ってやってくれないか。
ダンゾウが外交のために里を離れると、どうしてもヒルゼンに里内の不満が集中することになる。
ゆえにダンゾウは恥を忍び、火中の栗を拾うこととなった、三代目火影と言う名の馬鹿な幼馴染のために、深く頭を下げたのである。
ダンゾウの姿に胸を打たれた畳間はこれを快諾。臥龍天昇―――ヒルゼンの片腕として、畳間は遂に表舞台へと駆け登ったのである。
三代目火影・猿飛ヒルゼン。
火影直轄、暗殺戦術特殊部総括・志村ダンゾウ。
三代目火影直轄護衛機関総隊長・千手畳間。
ここに、三代目火影政権は完成したのである。
「畳間、あれから一年だ。お前が居なかったら、今のワシは無かった。まずは、礼を言いたい」
振り返ったヒルゼンは笠を取り胸に当てると、深々と頭を下げる。
二代目火影が殺害されたと言う情報が忍界を巡ったあの日から、木ノ葉隠れは孤立無援となった。
五里最強と謳われていた木ノ葉隠れの里の弱体化を、他里が黙って見ているはずがない。若き最高軍事責任者を抹殺しようと、暗殺者が送り込まれるのもまた、必然であったのだろう。
昼夜を問わず襲い来る刺客たちから、畳間は文字通り命を賭けてヒルゼンを守り抜いた。結婚が決まり、猿飛と称するようになったビワコや家族、はてはその弟子に至るまでに伸びた毒牙の全てを、畳間は払い落した。影分身を限界まで活用し、ヒルゼンの周り、その全てを守り抜いた。もしも他里に頭のキレる者がおり、ヒルゼンでは無くその”馬”である畳間の周囲から切り崩されていれば、木ノ葉は終わっていたかもしれないほどの、影の激戦。
ほぼ二十四時間体制でヒルゼンの傍に控え、戦闘行動を阻害しない忍者食のみを摂取し、満足に睡眠も休養も取れないほどの過酷な日々を、畳間は駆け抜けた。かつての甘え、我儘の全てを捨て、木ノ葉隠れの里のために駆け抜けたその姿は、師・扉間が畳間に望んだ未来そのもの。今は亡き師の想いを背に、畳間は戦い抜いたのである。
扉間の修行と影分身の術が無ければ過労で死んでいたと、体力には自信がある畳間をしてそう思わせられる、本当に過酷な一年間だった。
「よしてください、三代目様」
それでも畳間は、必要なことだったと小さく首を振る。
「俺は、俺のやるべきことをやっただけ……。あの人の亡骸を目にしたときに、俺は俺のやるべきことを……忍びとして進むべき本当の道を見つけた。今の俺があるのは、あの人がいたからだ。感謝をするなら、あの人にして欲しい。俺はあの人の真似をしているだけで……そんな”ガラ”じゃぁない」
火の意志―――受け継がれる意志によって繋がった二人は、共に同じ頂を目指している。
口調は固いが、ヒルゼンが畳間と同じ立場だったとしたら、ヒルゼンもまた、同じことを行い、同じことを言っただろうと、畳間は思っている。
「そう、か」
ヒルゼンもその意志を汲み取ったのか、それ以上の言葉を口にすることはなかった。
「っと……」
ヒルゼンは笠を机の上に置き、椅子に深く腰かけると、手を宙でニ、三度振った。
口にキセルを咥え、火をつける。深呼吸するように、肺いっぱいに煙吸い込むと、ふうと、ゆるく吐き出した。
「なあ、畳間。お前、少し老けたか」
「……あんたほどではないがな、
違いないと、二人で笑い合う。
この一年で再び髭を蓄えたヒルゼンは、苦労皺が目立つようになった。
向かい合う畳間は、一年前は長かった髪をざっくりと切り落とし、穏やかだった目つきが鋭く研ぎ澄まされている。
今の畳間の風貌は、二人の亡き恩師を彷彿とさせる。かつて穏やかな初代火影の面影を見た青年は、一年の間で研ぎ澄まされた雰囲気へと変わってしまった。
悪いことでは無いが、少し寂しくも思う。
(あのやんちゃ坊主がなァ……。ふふ、今のワシを見た父上は……、そして初代様は、何と思われるだろうか)
ヒルゼンは深い感慨を胸の中に隠した。思い起こすのは、今は亡き恩師たちの背中。
畳間が扉間や柱間の背を追うようにヒルゼンもまた、偉大な先人たちの背を追っていた。
「しかし畳間、やはり、気づいていたか」
畳間の砕けた口調を叱ることもなく、ヒルゼンは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
先ほどのヒルゼンの所作は、近くに潜んでいた暗殺戦術特殊部隊―――通称暗部の忍びを、この場から遠ざけたものだった。
畳間が失礼な態度を取れば、驚かせるつもりだったのかもしれない。
けれども畳間は近くに潜んでいた気配をすべて察知しており、ぼろを出さなかった。監視の目が無くなったことでようやく、その口調を砕けたものへと変え、窮屈な姿勢を止めたのである。
「当たり前だ。この間の刺客に比べ、隠密がなっていない。まだ若いな」
「お前も十分若いだろうに。一年前のお主に聞かせてやりたいもんだ」
「ふん、お互いにな」
うそぶく畳間を、ヒルゼンは呆れたように笑った。
目元を緩ませるヒルゼンを、畳間は見下ろした。
この一年で、ヒルゼンもずいぶんと変わってしまったものだと、内心で無常感を抱いた。
その口調も、雰囲気も―――かつてのヒルゼンはスケベ野郎ではあったものの、基本的には実直な好青年だったのに、それが今では里長の名が似合う狸なおっさんである。
「ともかく」
流れを切るように言い放たれたヒルゼンの言葉に、畳間は改めて姿勢を正す。ヒルゼンは満足そうにうなずくと、軽快な音を立てつつ、キセルから灰を落とした。
「ようやく暗部の選抜が終わり、厳戒体制が整った。お前もやっと休めるようになったということだ」
「俺が休めても、あんたが休めなくては意味がないと思うが?」
「ワシはお前たちのおかげで睡眠自体は取れていたからな。問題はない」
「どうだか……」
互いの眼の下に燻る厚い隈が、その苦労を物語っているが、互いが互いに、「言っても無駄」な人間だと理解しているため、それ以上深くは追及しなかった。
けれども、変わったものと同時に、変わら無いものも在る。
二人とも、仲間想いなことに変わりはない。この話が終わった後、ヒルゼンはイナに、畳間はビワコに、互いの過労をリークするのだろう。二人は互いの弱点に頬を抓られ、強制的な休みに入ることになる
だが二人は互いにそれすら読み合って、ではどうやってそれを躱すかと、無駄な頭脳戦を繰り広げているのである。
「それで、三代目。俺に話というのは?」
「おお、そうだったな。例の件についてだが……。その前に、あの子たちの様子を聞きたい」
あの子たち―――ヒルゼンの弟子である、大蛇丸、綱手、自来也のことだ。
ヒルゼンが三代目火影となってから、三人への指導時間を満足にとれない状態が続いている。
また、三代目の直弟子であることから人質の価値が高い三人を狙う輩は少なくない。安全のためにサクモとカガミが護衛として配置されているものの、それは監視されていると言うことと同義。三人の子供たちにとって、自由が少ない一年だったことは察せられ、ヒルゼンは以前以上に、三人に心を砕くようになっていた。
畳間はそんなヒルゼンの内心を察し深く頷くと、懐から小さなメモ帳を取り出して、記された内容を含めた自身の考えを諳んじる。
「そうだな、まずは自来也だが……この間の行方不明事件から知っての通り、オオガマ仙人の庇護下に入ることになった。しばらくは修行を付けて貰えるようだ」
今より数週間前のことになる。
久方ぶりにヒルゼンから指導を受けた三人は、各々が研鑽を重ね実力を増していたが、自来也だけが協調性の無いままであるという結果が下された。
その話を聞いた畳間は、自来也が仲間を蔑ろにするとは想えないと考えた。
実際それは真っ当な意見であった。
その実体は、以前のことから思い人である綱手に持て囃されている大蛇丸への対抗心と、久しぶりに稽古を付けてくれる師匠に良いところを見せたいと言う、可愛らしい見栄から生まれたものだったからである。
そんな可愛い盛りの弟子に、三代目として過酷な毎日を送っていたヒルゼンの心が甘々になるのは当然のこと。
一人丸太に縛られた自来也に、ヒルゼンは新たな術を授けることを決めた。
―――口寄せの術。
契約を結んだ忍獣を、いつでも好きな時に呼び出すことが出来ると言う時空間忍術だ。
会得難易度こそ高くはないが、契約獣がいない状態で発動すると、術者が空間を移動してしまうと言うという欠点がある。
ヒルゼンはそのことについて忠告をしていたのだが―――新しい術に浮かれた自来也は、口寄せ動物と契約する前に術を発動してしまった。結果、護衛についていたサクモの前で、自来也は忽然と姿を消してしまったのである。
護衛対象を目の前で見失ったサクモは自責に駆られ、ヒルゼンは愛弟子の失踪に焦燥し、綱手と大蛇丸は仲間の危機かと涙目で畳間に詰め寄った。
そしてすべての問題を一手に任されることになった畳間はといえば、山のように積まれた厄介ごとの中にさらに投げ込まれた厄介ごとに、発狂するがごとく頭を抱えた。
同時に、”師の言いつけを破るはた迷惑な弟子”という存在に既視感を覚え、悶え苦しむことになる。これも因果応報かと、深く刻まれた隈を引きつらせ、畳間は解決に取り組んだ。
そして、大騒ぎになってから一日後。
畳間の苦労も空しく、口寄せの術の効果が切れたのか、あるいは送り返されたのか、自来也は何食わぬ顔で木ノ葉隠れの里へと帰還する。
その飄々とした様子を目の当たりにし、緊張の糸が切れた綱手と大蛇丸が、彼をどんな目に遭わせたのかは、この際割愛する。
その後、妙朴山という蛙仙人が住まう土地に自来也が呼び出されていたことを知った畳間は、自来也に仙人の修行を受けてくるように提案。自来也はしばらく木ノ葉を離れ、妙朴山で暮らすこととなったのである。
「―――妙朴山は知っての通り、外界から切り離された土地だ。木ノ葉よりも安全な場所に自来也を置くと言う意味もあるが……」
「うむ。初代様……お前の祖父である柱間様しか扱えなかった”仙人の力”は、喉から手が出るほどに欲しいものだ」
「ああ、分かっている。可能なら、自来也を通して木ノ葉の秘術として取り込みたいところだ。渋るなら、自来也を開祖に、”
「それに関しては仕方がない。お前がここに居ることがすでに奇跡だと、話を聞いた後からずっと、ワシは思っている。仙術に、木遁。木ノ葉は初代様を失ったが、受け継いだものは確かにここにある」
畳間が言葉を濁すと、ヒルゼンが大きく頷いた。
かつて畳間は角都との決戦において、二代目火影より授けられた禁術を使用した。術者の魂をチャクラへと変換させるそれを使えば、死は免れないはず。
そんな術を使ってなお自身が生きている理由を、畳間は大きな喪失感と共に理解していた。
思えば、”あれ”から十年も経つ。
今更になって泣きわめくほど畳間も弱くはないが、ずっと傍で見守ってくれていた存在との離別は、さすがに堪えるものがある。
扉間の死が重なったこともあり、ダンゾウからの招集に応えるまで、畳間がしばらく自宅に引きこもったのも、仕方がないことだったと言える。
「あとは綱手と大蛇丸だが……。綱手に関しては、イナと婆様が護衛も兼ねて面倒を見ている。千手の姫としても十分な警護は付けてあるから問題はないだろう。念のため、俺の木遁分身も付けてある。問題は大蛇丸だが……」
「むぅ、何か問題か?」
「いや、問題と言っていいのか……。どうも、護衛に着いたカガミ先生やサクモから色々と技を盗んでいるらしいな。あの年ですでに四つの性質変化を扱おうとしている。すでに下忍で納まる器では無い。護衛も、もしかしたら必要がないのかもしれん。やはり、あの子は天才だ。……だがなァ、なんといっていいのか、”だからこその危険”というものもあるだろう?」
「うむ、そうだな……。分かった。大蛇丸一人なら、ワシも指導する時間を取れるかもしれん」
「ああ。なんだかんだ言って、大蛇丸も寂しそうに見える。時間があるなら、見てやったほうが良い」
ヒルゼンは多忙の身であり、三人全員を見てやれるほどの時間は取れない。空いた時間を使って稽古を付けてやれるのは一人くらいであり、だからといって一人を贔屓にするわけにもいかなかった。
けれども現状、各々がその得意分野の先達から教えを乞うているのならば、総合的に伸びている大蛇丸を重点的に指導すると言うのも、悪くないだろう。
畳間は思案気に目を伏せると、思い出したように肩を竦める。
「ともかく、三人に共通していえるのは、悪ガキだった当時の俺以上の天才だということだ。とはいえ、今回の中忍試験はきな臭い。あえて出場させると言う手もあるが……危険が大きすぎる。止めた方がいいだろう。異論はあるか?」
「ふむ……」
「どうした、兄貴。いやに思案気だが」
言葉を濁したヒルゼンに、畳間は片眉を吊り上げる。
ヒルゼンの考えを察した畳間は、少し苛立たしげに声をあげる。
「三代目。あんたは子供たちに降りかかる危険を減らすために、俺を試験官と言う名の護衛役として配置したはずだ。だからこそ俺も、”目立ちやすい”うちはアカリを焚きつけたんだ。元々参加するつもりだったのは助かったが、それはそれ。あの子たちを……綱手を危険に晒すことは許さん」
うちはアカリ。
うちは一族の直系に連なる血筋であり、写輪眼を扱う下忍である。
冷酷、怜悧な仮面を被っているが、その内実は、甘ちゃんのお人好し。
冷酷な言葉を発しつつ、それを実行することを躊躇する優しい女は、ハッキリ言って忍びと言う職種には不向き。自身が死に瀕するか、あるいは大切な者が傷つけられたという状況以外では実力を発揮できない、スロースターターである。
だからこそ外敵の視線を他の下忍から逸らすには、まさに打ってつけの囮役。
いい年をして下忍と言うのは、それだけで油断を誘うにふさわしい。実際畳間とて、アカリの力を子供のころから知っていなければ、「二十歳越えて下忍かよ」と一笑に付していただろう。
だからこそ、最高の囮役。
畳間はアカリを中忍試験に推薦することにより、他の幼い忍びたちを守る盾として利用しようとしていたのである。畳間が接触する前にアカリがエントリーしていたのも、三代目火影であるヒルゼンが畳間と同じ考えに達し、アカリのエントリーを認めたという背景があったからこそ。
だが、畳間は自分以外の人間がアカリを利用することに納得が出来ず、不愉快気な表情を隠しきれていなかった。
ヒルゼンはそれを見抜き、苦笑いを浮かべる。
「仲間想いのお前のことだ。アカリ嬢を危険に晒すことを承諾させたのは心苦しく思う」
「いや……問題はない。アカリ以上の適役は無い。俺でもそうしただろう」
「だが、畳間。お前はワシの命令で……」
畳間がアカリを利用することへの罪悪感に苛まれているのなら、それを楽にすべく”三代目火影の命令”だったという形に落ち着かせることも、やぶさかでは無かったヒルゼンであるが―――。
「三代目。あなたに心配される謂れはない」
それ以上の言葉は侮辱であると言わんばかりの形相に、堪らずヒルゼンは肩を竦める。
「と、ともかく」
ヒルゼンの所作に自身の言動を自覚した畳間は、恥ずかし気にこほんと咳ばらいをし、けれども鋭い視線をヒルゼンに向けた。
「うちはアカリは、この俺千手畳間が命に代えて守り抜く」
言い放った畳間の気迫に圧され、三代目火影であるヒルゼンが息を呑んだ。
「……ふむ。まったく……、誰に似たのか、強情になりおって」
呆れたように、けれどもどこか嬉しそうに笑うヒルゼンに、畳間はふんと鼻を鳴らす。誰に似たのかなど、言わずとも分かることだった。
「だからということもあるが、ヒルゼン班の面子までは面倒を見切れない。無論、試験に参加するのならば、だが」
「それに関しては、ワシも考えがある」
「そうか」
三代目火影就任から、初めてとなる中忍選抜合同試験。
今回の試験に参加する里は、草、滝、雨、そして岩。木ノ葉を除く五大国の内、参加するのは土の岩隠れだけとなる。二代目時代での参加里と比べると、半減どころでは無い。
だが―――。
「岩の二代目、”無人”の
「うむ、それについてたが……。畳間、今の木ノ葉が不可侵を結んでいる里はどれくらいか知っているか?」
「無いに等しい。はっきりいって、火種はどこにでも燻っている」
「そうだ。だからこそ、今やるしかない」
「敵味方をはっきりさせるためにか? だとしても危険すぎる。ダンゾウさん率いる新興部隊『根』に、情報を集めさせ、機を待った方が……」
「出来たばかりの組織にそこまでは求められん。そしてその”機”は近づいている。―――ダンゾウから知らせが入った。……砂だ」
ヒルゼンは机の上に一束の書類を無造作に放り投げる。
ダンゾウからの知らせ。それは砂隠れの里が軍拡を始めていたという情報だった。
砂隠れ、風の国は領土こそ広いがやせた土地が多く、厳しい気候の中にある。初代風影の時代から、砂隠れは常に領土拡大の機会を窺っていた。
穏健派であった木ノ葉隠れの二代目火影が死に、その同盟国足らんとした雲隠れが乱れている今、砂隠れにとって以上の好機は無い。
「つまり……砂が攻め込むとすれば、隣国である木ノ葉か岩ということか?」
「そうなる」
畳間が推測を立てれば、ヒルゼンが頷いた。
「岩と組むことができれば、砂に対する強力な抑止になるだろう。そのために、あえて岩を懐に入れた」
「つまり、中忍選抜試験の名を借りた、同盟締結の会合ということか?」
岩だけが参加したのではなく、岩だけが木ノ葉が中忍試験を開催することを掴み、合同開催を申請してきた。木ノ葉は不穏な動きを見せる五大国を一端据え置き、他国から蔑ろになされている、小国との連携を密にすることを望んだ。
それを敏感に察した岩隠れは、果たして敵か味方か……。
「砂と岩が組んでいた場合はどうする」
「そうなれば、霧と渦に応援を頼むことになるな。霧についてはコハルとホムラが向かっている。渦については、ミト様に橋渡しを頼んだ」
「三代目、言わせてもらうが、それはあまりにも危険すぎる」
ヒルゼンが行おうとしているのは、分の悪い賭けどころの話では無い。
負ければ、敵は腹の中に入り込み、内部から木ノ葉を食い破って来るだろう。畳間は里への危険を考えて、三代目を糾弾する。
だが、怒鳴り声をあげた畳間に、ヒルゼンが鋭い視線を向けた。それはかつての優男のものではない。木ノ葉の、そして忍の世の未来を背負う三代目火影としての力強いものだ。
「危険は承知の上。しかし今しかないのも事実。これ以上時間を空ければ、砂もしびれを切らして動き出す。そうなれば、もはや戦争は止められない。初代様、二代目様の願い、”戦争の無い世界”をワシらは受け継がねばならん」
「だが、大切なのは里……家族だろう!? それを危険に晒すのはッ」
―――何が正解かなど、誰にも分からない。
かつて初代火影は”今”を守るために、永久の友を斬り捨てた。
火の意志を受け継いだ二代目火影は”次代”を守るために、”己自身”を投げ打った。
ならば三代目火影は、先代たちから託されたものを守るために、”今”の苦難を耐え忍ばねばならない―――そう、決断した。
畳間には正解が分からない。
ヒルゼンの考えも理解できる……それを理解していても言葉を濁してしまうのは、畳間が初代火影から受け継いだ想い―――今の里を守らんとする気持ちが強すぎるからだ。
時代は流れ、思想も変化する。
里を守ることが第一であった初代火影の時代と、大戦を阻止せねばならない三代目火影の時代では、優先すべきものも移り変わっていく。
もしも今、里内でクーデターでも起これば、ヒルゼンやダンゾウは苦渋の決断の末、その一族を滅ぼすことを厭わない。
畳間は苦悩する。
同じ師を持つ畳間とヒルゼン、その二人の決定的な違いは、戦争の経験である。
ヒルゼンは第一次忍界大戦を知っている。その凄惨さも、恐ろしさも、残酷さも、その全てを知っている。失われた命の数も、閉ざされた可能性の重さも、その全てを知っている。
ヒルゼンにとって忍界大戦とは、多少のリスクを負ってでも回避しなければならない最悪の”結果”。
「―――そうとも。畳間よ、ワシらのやるべきことは、戦争を止めること。先代たちが願った忍びの世の安寧を、守り抜くことだ。納得しろとは言わん。だが、いつか分かる時が来る」
そういって立ち上がり、窓の外を見つめるヒルゼンの背中を、畳間は直視することが出来なかった。
「……追って沙汰を伝える。下がって良い」
その言葉を受けて、畳間はヒルゼンに背を向けると、部屋を後にする。
退室の直前、畳間は背中越しにヒルゼンへ視線を向けた。研ぎ澄まされた視線をヒルゼンの背に突き刺し、けれどもヒルゼンの内情を理解して、ぶつけどころのない感情のもどかしさに瞼を震わせた。
「……三代目、最後に一つだけ。今回のことだがな、十二分に厄介ごとだ」
茶化すように笑った畳間は、今度こそ部屋を後にした。
ブラック企業怖い