彼女の髪はまるで夜の空気が形を持ったかのように揺らめく。紅桔梗の色彩が、静かに流れる血のように深く、しなやかに、そしてどこか儚げに輝く。肩より長く、風が吹くたびに水面を漂う海月のように揺れる。 その瞳は、まだ固く閉じた蕾のような鈍い青。肌は、花蘇芳の花弁のようだ。
いつのまにかワンピースは純白で、体には傷一つない。
彼女はここが死後の世界だと考えた。自分は既に解体され、怪物の食後のデザートにでもなったのだと。
あっけない人生にもはや悲哀も覚えず、痛みなく殺してくれたことにすら感謝していた。
しかし、こうなると気がかりなのは妹だ。まだこちらにいないが、すぐに、やって来るだろう。
もはや自己嫌悪も手遅れだと思い、ふかふかの芝生に寝転んだ。
棘も刺さらず気持ちいい。芝生はゆったりと波打ち、その揺れが心地よかった。戦場でかぶっていた布切れの何百倍の温かさだった。
「私から話しかけるのは君が初めてだよ」
心がビクッとした。声のした方に顔だけ向けると、5mほど先に木製の未塗装のベンチがあり、そこに人が座っている。さっきまではなかったような気がする。
「だれ?」
なぜか言葉が通じることが当たり前のように思えた。
彼の周囲だけ、まるで古い写真のようにセピア色に褪せていた。 彼を包む空気すら違って見える。
現実から切り取られたように、そこだけ時間が止まっているみたいだった。
灰っぽいダブルブレステッドを着て、茅色の山高帽をかぶっている。ズボンは鼠色のワンクッション。だが、顔がなぜか定まらない。
もしかして、さっきのやつの仲間かも——と、そのまま悪い方向へ妄想が膨らんだ。
悪い人ではなさそうだとも感じたが、少し怖いのでお尻をつきながら後ずさる。
「悪い奴じゃあないんだよ。このサムの話だけでも聞いてくれないかな、サクちゃん」
自称サムは軽く肩をすくめながらも優しく語り掛ける。
「……」
口を、固く閉ざした。彼女は、誰にも言っていない自分の名前を知っている怪しいスーツ姿に恐れた。思わず地面を両手でつかんでしまう。しかし、どのみちここには何もない。
とてつもなく警戒しながらも、聞く気にはなったようだ。
「すまないな。怖がらせる気はなかった。君の友だちから直々に頼まれたんだが、心当たりはないかい?」
無言で小さく首を振る。彼女を"友だち"と呼ぶ者はいないはずだ。
「百合園セイアという名前は?」
「……知らない」
聞いたことがないのに、心の奥に引っかかる。
どこかの少女漫画に出てきそうな響きなのに、妙に現実味を帯びていて、忘れる気がしなかった。
聞こえないくらい小さい声で答えたのに、彼はすぐに反応した。
「困ったな。この名前を出せばすぐに信じてくれると聞いてたんだけど」
気付けばサムが隣にいる。
思わずベンチから飛び退き、数歩後ずさる。
地面の感触が固い。芝生は気付かぬうちにベージュと薄橙と茶色の3色タイル張りになってる。
見渡すと、オレンジや赤の三階建てより大きい石材の家が並ぶ景色に変わっていた。ゴシック様式だ。アーチ形や長方形が目立つ窓も相まって、まるで絵本の中の街並みのようで 、遠くから川のせせらぎが聞こえる。ただし二人以外人っ子一人いなかった。
ベンチだけはそのままだ。
「落ち着いて。ここは夢の中だよ」
彼の言葉に心が鎮まる。夢の中だというなら、サムは何者なのだろう。
「だれ?」
同じ質問だ。この問いを二度も受けるのは、普通なら精神的にこたえるはずだ。だが彼は違う。
「サムだよ。まあジョンでもいいか。ジョンにしよう」
いいと言われればそれでもいいが、そういう問題ではない。言ってることはよくわからないが、その滑稽な物言いに彼女は少し彼へ好感を覚えた。ただ肝心の”あなたはなぜ私の夢に不法侵入してるのか”についての回答は頂けなかった。諦めて、次の疑問をぶつける。
「わたし死んでないの?」
さっきまでの思考は早合点だったようだ。人食いモンスターはいないようで彼女の中で一安心。
妹がミンチになるとこなんて、絶対に見たくない。
「そんな簡単に死ぬって言っちゃあいけない。生きてないとできないことがある」
微妙に返答が飛躍している。最もなことを言ってるが、彼女は死ぬとは一言も言ってない。
それでも彼は気にせず、さらに続ける。
「この言葉を覚えてほしいんだ。”互いを認め合え、他人は自分の鏡だから”」
彼女はまだ幼い。その言葉の意味をすべて理解するには、経験が足りなかった。
彼はわざわざハンドサインまで使って強調した。だからこそ、なおさら引っかかる。
口にした瞬間、意味を持ち始める言葉というものがある。これは、まさにそんな言葉だ。
もともと“他人は鏡”なんて、そんなはずないだろう——そう思いながら、彼女は首をかしげる。
「伝言はこれだけだね。あともう二つ」
彼は人差し指と中指を順にゆっくり立てる。
「なに」
なぜだか分からないが、彼に心が傾き始めていた。
「やがて、死を望む兄弟が訪れる。その時は——決して迎え入れてはいけない」
一拍置いて、彼は続けた。「いけない」の言い方が少し怖かった。
だから彼女は少し息をのむ。小さくうなずいた。
「同じSCPのよしみで、覚えておいてくれ。——SCP-1000+εにも気をつけるんだ」
「……1000+ε?」
彼女は聞き返そうとしたが、口にした瞬間、どこかに引きずり込まれるような感覚を覚えた。
まるで自分の思考がどこか"外側"へ引っ張られるような——
「まあ、気にしないでくれ。忘れても、いずれ思い出すさ」
名称不定人間が纏っていた空気が、少しだけ柔らかくなった。
彼女はそこまで聞いて、なんとなくベンチの方へ戻った。そして彼の隣にそっと座りなおした。
「気を許してくれたんだね。うれしいよ」
顔がやはりおぼつかないが、おそらく笑ってる。
「サム?ジョン?、ありがとう」
微笑んだ彼女の横顔には、言葉にできない魔性の余韻があった。
「こういうので初めて感謝された。ああ、本当にうれしいな。次はジェームズと呼んでくれないか」
名前に次も何もない。彼の常識は普通の尺度で測れないようだ。人並みの喜びは感じれるようだった。
「? ジェームズ、はなんで夢に出るの?」
彼女は、彼の支離滅裂を深く考えずに受け入れた。それよりも、夢に出る方法を知りたがった。
これで眠ってる間も妹に会えると。
「なんでって……ごめんね、もう時間みたいだ」
「えー、残念」
彼女は床に届かない足をパタパタさせる。
「そうだ。最後に、友だちにならないかい?」
動きを止めた。一瞬、顔を上げ目を細めた。
「……友だち? 」
その言葉に、特別な意味を感じたことはなかった。必要だと思ったこともないし、いなくても困らない。
でも、
何かが違う気がする。
「サクと仲良くなりたいんだ。友達になるのに、理由なんていらないよ。」
彼の言葉に、考える。意味はわかる。でも、それが自分にどう関係するのかはまだわからない。 友達が何か特別なものだと思ったことはなかったし、作りたいと思ったこともなかった。
しばらくして、小さく頷いた。
それが何なのかは、まだわからない。ただ、胸の奥が小さく波打っていた。
彼女は俯きながら、そっと指先を握りしめた。その時、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
彼女は呼び捨てられても、もう平気だった。
「私は——」
誰が言ったのかは、もうわからない。
彼女は夢から覚めた。
まぶたの裏に残る微かな残像は、目を開いた瞬間に霧散する。夢を見ていた気がする。しかし、その内容は、まるで霧の向こうに隠されたように曖昧だった。何かを覚えているはずなのに、思い出そうとするたび、その輪郭は指の隙間から零れ落ちていく。
天井に埋め込まれた蛍光灯の冷たい光が目に痛い。ぼんやりとした視界の中に、見慣れない天井が映る。瞬きを繰り返しながら焦点を合わせると、ここがどこかも分からないことに気づいた。
頭が重い。意識はまだ靄がかかったようにぼんやりしている。手を動かそうとした瞬間、かすかな異物感が走った。視線を向けると、腕には点滴のチューブが繋がれている。細い管はベッドの傍の点滴スタンドへと続き、冷たい液体がゆっくりと流れ込んでいた。
さらに鉄の輪も取り付けられてる。以前よりは拘束が緩んでいるようだ。足首にも軽く鉄輪が取り付けられているが、自由が完全に奪われているわけではない。多少は動ける。
体の各部にまかれた包帯は彼女の身体感覚を少しあいまいに膨らませてた。皮膚が余って痺れてるようだった。
空調の低い唸りが、静まり返った室内にかすかに響いている。仕切る白いカーテン、無機質な医療機器のモニター、漂う消毒液の匂い。ここが病室であることを告げていた。
生きている。
その実感が、遅れて訪れる。身体を動かそうとすると、鈍い痛みが走った。けれど、それは耐えられないほどのものではない。
視線を横に移す。もう一つのベッドがあった。
そこには、妹が眠っていた。
彼女もまた、点滴につながれ、拘束され、規則正しい呼吸を繰り返している。安らかな寝顔だった。その姿を見て、ほっとしたような、あるいは何かが締めつけられるような感覚が胸をよぎる。
二人ともいつの間にか身なりが整えられてるようだ。服もパジャマの病衣になっている。妹は緑で、姉は青だ。
その時——
内開きの扉が軋む音を立てて開いた。
ギぃ
反射的に顔を向けた。
「お、起きてる……!」
驚いたような声が、室内に響いた。
黒髪のボブカット。切れ長の瞳。黒いスーツの上着の袖を軽くまくった日本人の女——千夏だ。
彼女は、反射的に母国語で喋ってしまった。
「え、ま、待っ——」
呼び止めたが、間に合わなかった。
話が通じそうな女はすでに部屋を飛び出していた。
「は、博士!起きました!どこですか!」
慌てた千夏が廊下へと駆け出す。その拍子に、彼女の腕から抱えていた書類が床へと散らばった。
近くの廊下を歩いてた職員が何事かと顔を向けるが財団に勤める人間の異常行動は今に始まった話ではないのですぐ興味を失った。
白い紙が、ひらひらと静かに舞う。
この作品は、SCP-990 - 夢の男(著: NineVolt)を基にしており、SCP財団のクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CC BY-SA 3.0)の下に提供されています。