その日は随分暑かった。
空には入道雲がでかでかと浮いているのに、その青色はどこまでも深くて、太陽の光を遮ることもなく地上へと差し出している。
茂る緑との鮮やかなコントラストは彼女の目の奥をツンとさせ、傷めさせるのに十分な威力を持っていた。
仕事着のまま袋一杯の飲み物を抱えて走っていれば、風を受けることも相まり、しぱしぱと瞬きが止まらない。息は絶え絶えで涙が出そうになる。
(最悪だ。今日は時間ピッタリで組んでるのに。夜のシフトはどうしよう。連絡入れなきゃまたクビになる。どうして呼び出し……いや、私が悪い。準備不足が原因。私がきちんと想定して動いていればこうならなかった)
電車もバスも待つのが惜しくて駆ける彼女を、焦りと炎天下がじりじり焼いていく。かけ持ちしている仕事と仕事の間に、父親から買い物の為に呼び出されたのだ。あれはそういう理不尽なものであった。
それでも駆け足を止めないのは、一刻も早く帰宅しなければもっと辛い目に遭うからに他ならない。
彼女は幼い頃から父親と二人暮らしで、それはそれは随分と厳しく育てられた。
言うことを聞かなければ拳でも何でも飛んでくる。
謝罪には言葉と態度が求められた。
殴られないためには積み重ねてきたルールを守るのが重要だが、父親の機嫌一つで簡単に変更されてしまうので、結局は顔色を窺い行動するのが最適解だった。
遊ぶ暇があれば家のことをした。学校の勉強は生意気な子供になるからやるなと言われ、宿題は常に隠れてやらねばならない。
それでも彼女は、全身を痣だらけにしてしまう。
高校は当然行けず、こうしてどうにか雇ってもらえる場所を探して梯子するように働いていた。雇ってもらえても、職場の人達は彼女の普通でない様子を警戒するし、度重なる家庭の事情で迷惑をかけられる内に冷たくなり、最終的に仕事が出来なくなる。
父親の酒代のために働いているのに、その父親が邪魔してくるのだから彼女はどうすれば良いのか分からない状態だ。
明らかに異常でも、それが彼女の世界。彼女の価値はその献身さと従順さによって決められていた。
例え価値が無くても父親だけが家族で、唯一彼女と『一緒にいてくれる』。
学校も職場も親族もダメ。親身になってくれる人はもうおらず、死んでしまった方が良いだろうに、勝手に楽になる事は自分に許されないと思えた。
早々に諦めた方が賢いのに、自分に価値があればもっとなんて、頑固な気性なのだろう。
許される日が来るように祈りながらも、その胸の奥にはなにか燻り続けた。
まるで火種を待つかのように。
随分長く感じていた家路も、公園が見えたことであと少しだと分かる。
公園の左の小道を曲がろうとして、植え込みの近くに小さな子供がしゃがみ込んでいるのに気付いた。
ああ夏休みだものね、と休みのない彼女には懐かしみも無く、ただ怒りでも無感情でも無く。
敢えて言えば、慈しみだった。
小さな背中に目を細めるが、残念な事に余所見をしている暇は全く無い。彼女は急いで再度駆け出そうとした。しかし。
ごとん。と、そう響く音に思わず足が止まる。
まるでコンクリートに硬いものが落ちたような音だった。
「え」
子供が、倒れている。
突然の出来事に体が硬直したが、動け動けと念じてどうにか近寄った。
真横にふせた姿から、頭を強くぶつけているだろうと容易に想像できる。幸い血は出ていない。
子供のからだを緩やかに揺すり、だいじょうぶか、どうかしたのか、と繰り返し問うが返事はない。
熱中症だった。
この時代にまだその言葉は広まっていなかったが、暑さにやられていることは傍目でも分かる。
(っ冷やすもの!水……無い。だめ。袋の中、全部お酒だから飲ませられない。なんで)
公園に備え付けられた時計を見る。父親から呼び出されて1時間は経とうとしており、こうしている間にも針は進む。
――彼女は意を決し、木陰へと子供を移動させて、公園を後にした。
公園の角を曲がって、家に向かう。
無我夢中で玄関を開けて中に駆け入る。
それが間違いだった。
あまりに慌てていて、家の敷居を跨いでから、彼女の父親がどんな顔をしているのかを全く見ていなかったから。
まるで鬼相だったのだろう。
具合が悪くなるほどに猛暑の今日、彼の中ではイライラが昂り不快感で溢れていた。
離脱症状に似た体の震えを、アルコールを摂取しなければならない、と誤解した上で彼女の父親は素直に是とした。
なぜ置いていないのか、と職場に居る娘を電話で怒鳴りつけて呼び戻しても、揺すりは全く収まらない。
そんな危機的状況で帰宅し、「遅くなって申し訳ございません」の謝罪一つもなく家に入った彼女には、ついに凄惨な最期が訪れてしまった。
髪を乱暴に掴まれ、引きずられるように部屋の奥へと連れて行かれる。
抵抗する余裕などない。足がもつれ、膝を打ち、何度も床に転がった。
部屋に着いた途端、視界がぐらりと揺れる。
馬乗りになった影が振りかぶり、容赦のない拳が何度も何度も降ってきた。
――暑い。痛い。苦しい。
容赦のない衝撃に、頭が揺さぶられるたび、視界の端が暗くなっていく。
まともに焦点が合わない。息がうまく吸えない。
息苦しさが増していく。
まとわりつく湿気と血の匂いが鼻をつき、滴る赤が、薄汚れた畳に染みを作る。
あまりの痛みに、声を出そうとしても、くぐもった呻きが漏れるだけ。
腫れ上がった頬は感覚を失い、喉に流れ込んだ血でむせ返って咳が出た。
「たすけて」
「死ぬ」
熱に浮かされたように、震える手を必死の思いで目の前に伸ばした。
その光景を――父親は笑っていた。
死ぬ。
とうとう来たのだと分かった。
暑い日。
あつい。あつかった。
まるで、燃えるように。