暖かな昼下がり。自宅の二階の一部屋にて。
お昼寝に勤しむべき赤ん坊は目をパッチリと開け、隣で眠る母親を眺めていた。
(睫毛長い……美人で可愛いってこういうことなんだ。その上優しくて……こんな人本当にこの世に居るのだろうか……あ、夢なんだったここは……)
寝かしつけをしていた京子が先に寝てしまったのだ。
都留にすることも出来ることも無く、時間潰しにただ寝顔を観察してはしょうもない事で自問自答を繰り返している最中であった。
(夜も、息が止まってないかと様子見に来てくれているし……ゆっくり寝れているかな?なるべく迷惑かけて無いようにしてるけれど)
親の疲れを気にして、夜泣きすら配慮している赤ん坊。何かあるのではないかと訝しげに見る人らもいた。しかし疾患は無いし、何より京子の「都留はすっごく賢い子なんだよ」という一言と笑顔によって疑いは霧散しているのが奇跡のバランスになっている。
都留の以前の記憶を探ろうとも流石に乳幼児期の思い出は皆無。正しい赤ちゃんなんて分かりようもないのだ。
子供側として、京子の読んでいる育児本でも参考にしたいところだった。
(『母親』の顔すら全く覚えてないけど、添い寝してくれたのかな。あは、案外一緒に住んだことないのかも)
生きているのか亡くなったのかを知りはしないが、あの父親と一緒に居なかったところから察するに、一般的な感性はあったのかもしれないと都留は考えている。
答え合わせは、一生出来やしないが。
(……なにか、来てる?)
微かな気配に、都留の全身が一瞬で強張った。
静かな部屋の中で、階段を上ってくる足音のようなものが確かに聞こえる。意識を集中させれば、かすかな軋みすら感じ取れそうだった。
心臓が高鳴るよりも早く、視界の端に人影が映る。逆光に照らされ、輪郭だけがぼんやりと浮かぶその影が、ゆっくりと二人に覆いかぶさった。
「京子ちゃん? あれ……あっ」
戸口に立っていたのは――沢田綱吉だった。
開かれたドアのすぐ前に京子、その奥に都留が横になっている。
最初に目に入ったのは当然、手前の京子だろう。彼は何か言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
しかし、次の瞬間、奥にいる都留と視線が合ってしまう。
(お、おどろいた! 心臓に悪い……! なんでそこで止まってるの……?)
綱吉は微妙な表情のまま、動きを止めている。
まさか、都留が声を出して京子を起こすのではないかと警戒しているのか?と察するのには十分だつむたり
(起こすわけないでしょ! むしろお願いだから、そっちこそ変な動きしないで……!)
都留は必死に睨みつけたが、牽制している場合ではなかった。京子を起こさず、この場を収めなければ。
(……っ、そうだ! 寝たフリ!)
綱吉だって京子を起こしたくはないはず。
都留は素早く目を閉じると、狸寝入りを決め込んだ。
――騒ぐ気はない。だから、お互い静かにやり過ごそう。
そんな無言のアピールが通じたのか、しばらくして綱吉がそっとドアの前から離れる気配がした。
(……うまく誤魔化せた、のかな)
真昼間に帰宅する父親の存在には、引っかか理がない訳では無い。裏社会の自由業とはいえ、この時間に家にいるのは珍しいのではないか。
そんな疑問を抱えながらも、再び耳を澄ませると、微かな足音が戻ってくるのがわかった。
(……?)
薄目を開けると、綱吉が京子にブランケットをそっと掛ける姿が見えた。
(……ああ、そういうこと)
冷えないように、何か掛けるものを探してきたのか。
そして――彼の手が静かに都留へ伸びる。温かな掌が頭を二、三度撫でた。
驚きよりも先に、その手の温もりがじんわりと染み込んでくる。京子よりも幾分大きくて、包み込むような手。触れた場所からゆっくりと安心感が広がり、本来あるべき眠気がじわじわと戻ってきた。
(……不本意だけど、すごく落ち着く……)
まぶたが重い。
意識が次第に深く沈んでいく。
(いいな)
この人たちが両親だったら、どんなに良かっただろう。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸が痛くなった。
比べれば比べるほど、自分の過去が惨めで、救いようがなくなっていく。
こんな夢、早く覚めなくてはならないのに――
それでも今だけは。
温もりに包まれながら、都留はゆっくりと微睡みの奥へと沈んでいく。
そんな夢の時間を破るように、振動音が鳴った。
(なに?!)
「わっ!?」
綱吉のスマホだった。無慈悲に震えたそれが静寂を断つ。
流石の身のこなしで廊下に出た綱吉だったが、努力もむなしく、その音は眠りに落ちかけていた都留の耳にしっかり届いてしまう。反射的に、都留の視線は京子へ向いた。
……幸いなことに、京子は先ほどと変わらず、穏やかな寝息を立てている。
(よ、良かった……)
今や都留の鼓動の方がよっぽどうるさい。
バクバクと波打つ胸を押さえながら、ようやく安堵の息を漏らした。
――それにしても、綱吉は大丈夫だろうか。
気になった都留は、極力音を立てないように四肢を駆使し、布擦れの音すら最小限に抑えながら扉へと向かう。
開けっ放しのドアの向こうから、徐々に綱吉の声が聞こえてきた。
「……うん……ええ?……いや、隼人のやり方で良いけど……あ、待って」
小声で応対する綱吉は、視線を向けた先に都留の姿を見つけると、一瞬驚いたように目を見開き――すぐに屈んで抱き上げた。
(うわっ……!)
突然のことに驚く間もなく、視界が一気に高くなる。
今や綱吉の顔のすぐそば。電話先の獄寺隼人の声すら、はっきりと聞こえそうな距離だった。
『――十代目? どうかしましたか?』
「ううん、何でもないよ。都留をね、起こしちゃって……大丈夫、大丈夫。また準備して行くから、それまでごめんだけど、よろしく」
そう言いながら、綱吉は都留をゆらゆらと揺らし、器用に片手でスマホの画面を叩く。通話を終えると、綱吉はふうっと疲れたように息を漏らした。
(帰ってきたばかりなのに、また仕事に戻るのか……)
都留は腕の中から綱吉の顔を見上げる。
帰宅してもなお、仕事に追われる彼の姿は、もはや強制ワーカーホリックと言ってもいいレベルだった。
……おそらく、電話の向こうの獄寺隼人は、さらにその何倍も職場に縛られているのだろうが。
綱吉は、都留を抱えたまま肩越しにそっと部屋を覗き込む。京子がまだ静かに眠っているのを確認すると、満足したように小さく頷き、静かに階段を下り始めた。
「良かったぁ、よく寝てた……」
ぽつりと呟くその声には、安堵と、どこか申し訳なさが滲んでいた。
「……家のこと、任せっきりだもんな」
そう言う彼の横顔は、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
(私ももっと大きくなれば手伝えるのに……というか、部屋に戻りたいんだけどなんで一緒に降りてるの?!)
神妙にする綱吉の横で都留は焦った。
思えば生まれてから京子とはずっと一緒で、たまにビアンキ達が世話してくれることはあっても、綱吉と都留だけというのは初めてだったからだ。
(泣けば……いや、せっかく起こさずに済んだのに、全部水の泡になってしまう)
都留がうんうんと考えている間にリビングに着いてしまう。
見慣れたこの部屋も、京子の声がないだけで随分人気がないように感じられた。ソファにテーブル、いくつかの観葉植物。テレビが消えたままの静寂が広がる空間に、綱吉は一歩踏み込む。
そして、追いやられるように部屋の片隅へ置かれたベビーベッドに目を向けた。
「よっこいしょ」
綱吉はゆっくりと都留を下ろそうとする。その瞬間、彼女の中に強烈な拒絶の感情が湧き上がった。
「……都留?」
都留は綱吉にしがみついた。そこに置かれたら『逃げられない』と強く記憶しているのだ。
あの場所に置かれるのは怖い。学校で遊びとしてロッカーに閉じ込められて外側から蹴られ、怖い思いをした事があった。
死んだ時と比べれば大したことでは無かったのだが、こっちでも産まれてすぐ病院にいた時、近くで地ならしがする位の爆発が起きたのだ。
手足の自由が聞かないままに命の危機が迫っていると強く感じた以降、過去の事も思い出して、ああいった柵に囲まれたベッドが都留はどうにもダメになっていた。
(お願いしますお願いしますお願いします……!)
「やっぱり嫌い?嫌がるって京子ちゃん言ってたもんなぁ。それとも抱っこが好きなのかな」
そう言いながら、綱吉は再び都留を胸に抱き寄せた。その温かさに、都留は小さく息を吐く。
天敵とも言える彼に抱かれていたい訳では決してないが、一人であの衝撃の怖さを思い出すよりよっぽど良い。一先ず希望がかなった事を都留は無邪気に喜んだ。
綱吉の視線は、服をしっかり握っている小さな手に向けられている。そこに怒りを感じられないことも都留をより安心させた。
都留を寝かせるのを諦めた綱吉は、キッチンへ向かった。相変わらずの静けさの中、片腕に都留を抱えながら綱吉は棚をひとつひとつ開けていき……そしてどんどん困惑が顔に浮かんでくる。
「おかしいな……前はこの辺にあったはずなんだけど……」
(もしかして、コーヒー飲もうとしてる?ミルや豆は机に置いてあるけれど、ドリッパーとフィルターは上棚の右から三番目だから……)
台所に寄る事すら殆ど無い綱吉が場所を知らないのは無理ないが、探し物ひとつ満足にできないのでは家主の名折れである。
片手で赤ん坊を支えながらなんとか戸棚をあさっているが、いつまでかかるか検討もつかない。
(……)
都留は少し悩んだのち、その短い指をまっすぐ棚の上段に向けて声をあげた。
「あ!あ!」
「ん?ここがどうかした?」
懸命に指差しする都留に影響され、綱吉は上棚の右から三番目に手を伸ばす。棚の奥、ふとした拍子に滑り落ちたのかフィルターの袋が、指先に触れた。
「……あ」
まさかと思いながらも、それを引っ張り出して確認する。まぎれもなく、探し求めていたコーヒーフィルターだった。奥にはドリッパーも見える。
「都留って……天才?」
驚きと感心が入り混じった声を漏らし、都留を見下ろす。
都留は得意げな顔をしつつも、心の奥ではほんの少し不安を抱いていた。あくまで子供らしく自然に伝えたつもりだったが、不自然ではなかっただろうか。余計なことをしたのでは——と、一瞬だけ迷う。
しかし、そんな心配を吹き飛ばすように、綱吉はぱっと満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう都留~!パパすごく助かったよ」
優しい声とともに、都留の頭に温かな手が触れる。指先がふわりと髪をなぞり、くすぐったいほどの優しい仕草に都留は目を丸くした。些細な出来事だったかもしれないが、それはまるで小さな奇跡のようで、綱吉は何度も都留に感謝を伝えた。
その後、綱吉がコーヒーを淹れ終わる頃には、都留はすっかり寝入っていた。張り切って声をあげて、疲れ果ててしまったのだろう。小さな胸が静かに上下し、丸まった小さな指が、まだ余韻を残すようにピクリと動く。
「また行くって言っちゃったけど……これじゃあ動けないよなぁ」
ふっと満更ではなさそうに苦笑しながら、綱吉はソファに深く背を預けた。胸の上で都留の温もりがじんわりと広がる。軽いはずの赤ん坊の体重が、不思議と心地よい重みになって、綱吉の動きを封じ込めていた。
鼓動のリズムに合わせるようにまぶたが重くなり、気がつけば、ふわぁ、と大きな欠伸が漏れた。
***
「……んん。やだ、寝ちゃってた……? 都留?」
京子はゆっくりと目を開け、ぼんやりとした視界のまま辺りを見渡した。しかし、すぐそばにいるはずの都留の姿が見当たらない。
先に起きて、どこかに行ってしまったのだろうか。
まだ寝ぼけた頭には不安が広がり、慌てて身体を起こした。
「……?」
その拍子に、肩に掛けられていたブランケットがふわりと滑り落ちる。
京子は小さく瞬きをした。自分で掛けた記憶はない。ということは誰かが——。
そう思うと、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。とはいえ、やはり都留の姿を確認するまでは落ち着かない。
隣の部屋を覗くが、そこにも誰の姿もない。
静まり返った家の中、かすかに階下から聞こえてくる気配を頼りに、京子は足早にリビングへ向かった。
「あ……!」
灯りが着いていることには驚かなかったが、目にしたものには思わず声が漏れた。
ソファの上で、綱吉が都留を胸に抱いたまま、横になって静かに眠っている。都留もまた、小さな手で服の裾をぎゅっと握りしめながら、父の腕の中で安らかな寝息を立てていた。
そんな光景を前にして、京子の口元は自然とほころんでしまう。
「ふふ。寝顔そっくり……かわいい」
さっきまでの動揺はすっかり消え、笑顔でそっと二人を見つめる。綱吉が目覚めて慌てるまでの間、優しい寝息と穏やかな時間が三人の家を包んでいた。