Project Sekai SCP incident feat . 作:唯尊
あらすじ
篤樹秀治とダミアン・オコナーらが起こした『ダウンフォール・プロジェクト』を粉砕し、リハビリを終え退院した志熊理雄は、宮益坂女学院に復帰していた。
一歌達との交流により、少しずつ感情を見せる様になった理雄は、束の間の平和な時間を彼女達と過ごしていた。
彼女達の成長を一歩離れた位置から見守る中、ある日、SCP財団サイト-8156の人事担当官である後藤海から呼び出しを受ける------。
これは、人類の為に"闇"で命を落とした幼き財団職員の物語である。
宮益坂女学院に復帰した志熊理雄は、1-Cにて生徒達に教鞭を震っていた。
「『整数の性質』を理解する上で、『素数』の概念は必ず知っておく必要がある」
現在、数学Aの『整数の性質』を解説している。黒板には数式と生徒達が理解しやすい様に重要な要点を綺麗な字で纏めている。両親の躾が厳しかったおかげで、自分は幼少から習わされた書道の経験を活かした整った字を書ける。
他にも。水泳、スキー、ピアノといった様々な習い事を習わされた。空手一本に絞れたのは小学5年からだった。
当時は嫌々やらされていた感じだったが、一応真面目にやってはいたので、こうして申し訳程度には役立っている。
「『素数』というのは、簡単に言えば『1とその数以外で割り切れない数』の事だ」
口で説明しながらそれらを黒板に書き込んでいく。重要な所は赤いチョーク、それ以外は白いチョークと分けて書いている。
ちら…と背後を見ると、クラスの全員が真剣にノートを取っているのを確認したので、そのまま進める。
「すべての正の整数は必ず『素数のみで構成されるかけ算で表す事が出来る』。例えば8は2×2×2で表す事が出来る。45なら3×3×5。1680なら2×2×2×2×3×5×7…という様に、全ての正の整数は素数のかけ算の形に分解する事が出来る------だが、正の整数は無限に存在する」
自分の担当は本来なら英語をはじめとした外国語なのだが、今では現国や世界史、科学や体育まで教えている。自分はあくまで客員講師であり、正規の教員免許を取得している訳ではないので、様々な教科の授業を"手助け"という形で担当しているのだが、今回の様に全てを自分1人に任せられる事も最近は多い。まぁ、それだけ信頼して貰えてるのだと思えば、気分は悪くない。
宮益坂女学院は創設100年を迎える伝統校であり、都内有数の進学校でもある事から、授業内容はかなりハイレベルでテストも多い。
自分の最終学歴は高卒なのだが、SEALs入隊におけるASVABテスト(資質テスト)で理数系やら語学やら暗号化能力、その他10項目……それら難解な試験を突破した自分にとって、進学校のだろうがなんだろうが、高校レベルの学問なんてとうの昔に踏破した道だ。
話はずれるが、自分が約2年間留学したNavy SEALsにはASVABテストの他に、年齢制限(17歳以上28歳以下)、国籍(アメリカ市民権保有)、軍務所属(アメリカ海軍もしくは沿岸警備隊)などの入隊資格がある。
訓練校卒業後、年齢はともかく、日本人であり国籍も日本のままの民間人(当時の公式記録上)だった自分を、財団がどうやってあの精鋭集団にねじ込んだのかは不明だが、財団のこれまでの実績と手腕を考えると、造作もない事の様に感じる。
まぁ、留学前に財団の職員から『アメリカ市民でアメリカ海軍の軍籍を持つ日系人』というカバーストーリーが詳細に書かれた指示書を渡された辺り、概ねそんな感じの設定で通したのだろう。
実際、あそこの同期達にはカバーストーリー通りに自己紹介した。……信じて貰えたかは微妙だったが…。
「数が大きくなればなるほど、素数のみのかけ算に分解するのは困難になる------そこで用いられるのが『素因数分解』だ。これは------」
*
その後も授業は順調に進み、一通りの解説を終える。
「------以上だ。ここまでで何か質問はあるか?」
一旦手にしていたチョークを置き、席を見回していると、廊下側-------前から3番目の席から手が上がる。
挙手したのは亜栗色の髪をセミロングにした女生徒だ。理雄も何度か話した事がある。確か医学部志望の子だ。
「『約数の個数の求め方』なんですが……あまりよく分かりません…」
少し申し訳なさそうにオズオズと申し出てくる。彼女は以前から『数学が苦手』だと自分から話して来た事がある。
「そうだな。確かにこれの公式は言葉だけだと分かりづらい…。俺も苦戦したから分かるよ。高校時代に『だれだこんなモン考えた奴はッ!絶対タコみてぇに頭部と脳味噌が肥大化してんだろ!!』って叫びたくなったからな〜…」
彼女が気負わない様に、冗談を混ぜながら苦笑してみせる。するとクラスから小さく笑いが起きた。
「先生、『タコみたい』は言い過ぎじゃない〜?」
「いいや絶対にタコ頭だ。そうに違いない断言する」
「先生も高校の頃数学苦手だったから嫉妬してるだけじゃないの〜?」
「そうだ嫉妬だよ120%嫉妬だよ悪いかッ」
あえて開き直るような態度をとると、クラスの笑いが大きくなった。
「アハハハッ、先生正直過ぎ〜」
「最低〜」
「やかましい。……コホンッ、さて話を戻そう。こういう時は実際に解いてみるのが1番良い。試しに240の約数の個数を求めてみよう」
理雄は再びチョークを手に取り、計算式を黒板に書いていく。
「まずは240を素因数分解する。素因数分解が完了したら、それぞれの指数をさっきの公式に当てはめていって------」
計算を完了し、答えを弾き出す。
「-----以上により、240の正の約数は正の約数は20個と求める事が出来る訳だ」
先程の女生徒に視線を戻すと、納得した様に首を小さく縦に振っていた。
「なるほど……分かりました先生。ありがとうございます!」
そう言って笑顔で頭を下げてくる。どうやらちゃんと答えられた様で安心した。
「よし…。他に質問は------」
他の席に視線を移そうとした時、軽快な鐘の音が鳴り響く。どうやら授業時間が終了したらしい。
「今回はここまで。『整数の性質』は高校に入って数学で1番最初に躓く所だ。充分に理解しておけ。分からない事があればいつでも聞いて良いから、予習復習はしっかりしておく様に……以上だ」
教員用の教科書類を纏めて1-Aを後にしようとする。
「リオせんせー!」
元気な明るい声が聞こえて振り向くと、天馬咲希が背後から駆け寄ってくる。
「聞いてください!私、この間の練習でようやくシホちゃんから褒められたんですよー!?」
太陽の様な笑顔で、天真爛漫な少女は嬉しそうに語る。
「おーやったな。なんか『いつも厳しくされてる』とか泣き事ばっか言ってるから、もうダメかと思っていたよ」
意地悪そうに言ってやると、咲希は不満そうに頬を膨らませる。
「ぶー!私だって真面目にやってるのに〜」
「アハハ…まぁ志歩は私達の中で1番意識も実力も上だから…」
途中から一歌が会話に混じってくる。彼女は苦笑しながら咲希の隣に並ぶ。
「一歌はどうだ?確かギターボーカル担当だよな?」
「はい。私もようやく志歩からの注意が減って来た所で…」
そう言って一歌は日々の練習の様子を語る。
星乃一歌をはじめとする幼馴染4人で結成されたバンドグループであるLeo/needは、結成後、上級者である日野森志歩が他の3人の指導を行っている。しかし、彼女らが疎遠になって以降、本格的な練習をしていたのは志歩1人だけであり、他の3人はブランクを取り戻そうと必死らしいが、それでも志歩のスパルタ指導は身に染みる物があるらしい。
「みんな志歩のペースについて行くのに必死で……、今の演奏は志歩が私達に合わせてくれている状況なんです…」
一歌はそんな自分の現状が情けなく思えるのか、少し落ち込んだ様子だった。
「でも練習の成果は出ている。実際、咲希は褒められ、一歌は注意が減ったんだろ?」
「それは……はい」
「なら自分を褒めろ。どんなに小さな成果でも、それを認めて自分に報酬を与える事で、少しずつ成長していくんだ」
これは訓練校でもSEALsでも習ったメンタル管理技術だ。いつまでも上に行けない自分に落ち込み続けていると、人間の精神は案外保たない。
無論、花里みのりみたいな生まれつきのメンタルタフネスもいるが、案外、精神の強さというものは大した個人差がない。自分も機動部隊に所属するまでに過酷な訓練を長期間受けて来たが、必要とされるのは"屈強な体力"と"不屈の精神"だ。戦場ではそれ以上の物が求められる。極端な根性論に縋らずとも、己の精神を鍛える事は出来るのだ。
「一歌、君は復縁した幼馴染達とバンドを組んだ。何故そうしたかった?」
一歌は核心を突いた質問に思わず言葉が詰まる。
「え…それは…」
「答えられないか?」
「…私は、また4人で一緒にいたい……ミク…いえ、大事な先輩と音楽が私達を繋げてくれたから……また4人で一緒に演奏がしたかったからですッ!」
咳切ったように言葉を出す。
「ならそれが目標だ。志歩は中途半端を嫌うだろ?仲間の信頼に応えられる自分をイメージしろ。そしてそこまで全力で走れ、目標を達成した自分を想像出来れば、段々と道が見えてこないか?モチベーションが上がってこないか?」
「あ…」
理雄の言葉に一歌は顔を上げる。
「君には叶えたい理想がある。咲希も、志歩も、穂波も……君達が共にいたいと願ったんなら------叶えてしまえ。その為に目の前の物事をひとつひとつ出来るようにしていくんだ。出来る事がひとつ増える度に自信が付き、またひとつ取り組む事が出来る。そうして自分が成長していくのが嬉しくなり、集中力と持続力が高まる。話を聞いた辺り、実際に君達の演奏は上達してる」
「…そう、ですか…?」
「あぁ、大丈夫だ。いずれ志歩と同レベルの位置まで辿り着き、更に上を目指せる。だからそう気負うな、君に必要なのは向上心と持続力だ」
「向上心と…持続力…」
一歌がこちらを見たまま真剣な表情で口の中で反芻する。
「そうだ。まずは最初の壁を乗り越えろ。ひとつ乗り越えられたら『自分は上に行けた!』と認めろ。そして次の壁に挑戦だ。乗り越えたらまた次、また次と繰り返し、最後にはどんな壁も易々と乗り越えられる自分になっている」
そう言って理雄は一歌の両肩に手を置き、彼女の両目を真っ直ぐに見つめる。一歌は一瞬ドキンッと身体を震わせ、顔を赤らめるが、理雄から目を逸らしはしない。
「君達はまだまだ進化できる。だから臆せず上を目指せ」
そう締め括ると、両肩から手を離す。一歌の顔はまだ少し赤いままだったが、その瞳は前を見据えていた。
「は、はい!頑張りますッ」
心地の良い返事と共に、黒髪ロングの少女は奮起し、落ち込みの沼から抜け出した。
「はいせんせー!私も上に行けますか!?」
咲希がバッと手を挙げる。
「勿論だ。君"達"って言ったろ?っていうか咲希は大して落ち込んでないし、激励する必要ないだろ」
理雄がそう言うと、咲希はむ〜ッと可愛らしく唸りながらジト目で睨んでくる。
「そんな事ないもん!いっちゃんだけずるい!私だってリオせんせーから激励さ〜れ〜た〜い〜!!」
「はいはい、ウザいからまた今度な。その時はハンス・クリスチャン・アンデルセンの『赤い靴』をフルで朗読してやるよ。世界一憂鬱な話だ。ちゃんと全部聞き終える事が出来たら頭でも撫でてやるよ」
「うわッ、リオせんせーサイッテー!!」
先程の真面目な顔から一転し、ニヤニヤしながら言う理雄。子供の様に両手をブンブン振り回し反抗する咲希。2人のやりとりに困惑する一歌。
ふと、廊下を歩く生徒たちが、3人の様子を教室の窓越しから見てクスクス笑っているのに気づき、恥ずかしくなって全員居住いを正す。
「コホンッ……まぁなんであれ、君達4人なら大丈夫だって事だ。それより、2人は次の授業大丈夫か?確か体育だから教室移動だろ?」
理雄が促すと、一歌がハッとする。
「あ…そうでした!」
「ゲ〜…、今日の体育って舞祭狗先生じゃん…。やだな〜…」
咲希はゲンナリした表情をする。
体育担当の舞祭狗美幸は、ここの生徒だけではなく教師陣の間でも大層嫌われている。理雄自身もまた、あの心身ともに醜く冷酷に振る舞う自己中デブ女を嫌っていた。自己中なのは自分も同じだが、理雄と違って周囲の人間への迷惑を一切考えず、常に自分の価値基準と利己的判断のみを優先して発言・行動するブタ野郎を好く人間は、どうやらいつの時代も存在しないらしい。
「う〜〜ん……それにしても…」
理雄が思考を巡らせていると、咲希がこちらを不思議そうに見ていた。
「リオせんせー……最近何か変わった?」
突然、何の前触れもなく唐突な質問をされる。
「あ、それは私も思ったかも…」
一歌が小さく手を挙げ同意を示す。
「そ、そうか?」
特段自覚はないのだか……。
「そうですよ!最初この学校に来た頃は、少し怖いけど、優しくてキリッとした感じの王子様だったのに……今はなんかSっぽい!」
「え…Sっぽい…?」
咲希の口から飛び出してきた単語に思わずびっくりしてしまう。
「確かに……優しい所は変わらないけど、最近はちょっと意地悪な感じがする…」
一歌の言葉に勢いよく首を縦に振る咲希。
「今のリオせんせー、私が入院してた頃に読んでた漫画の腹黒王子様みたいッ。ドS王子!毒舌男!鬼畜イケメン教師!!」
なんだよ鬼畜イケメン教師って……。
妙に興奮しながら叫ぶ咲希にどの様なコメントを返したものか分からず固まっていると、一歌が助け舟を出してくる。
「まぁまぁ……。でも、私は今の理雄先生の方が好きですよ」
「え…意地悪にされたいの?弄られたいの?いっちゃんドMなのッ?」
「そうじゃなくてッ……ほら、最初の頃の理雄先生、少し私達と距離を取ってる感じがしたから…」
「………そう…か?」
「はい。あッ…もちろん嫌だった訳じゃなくて!ただ……初めて会った時の理雄先生って、やっぱり少し怖かったんです…。身体が大きくて、雰囲気が抜き身の刃物みたいに鋭くて、独特で………まるで私達とは別の世界を生きてるみたいで、近寄り難かったんです」
「…………」
不意を突かれた様に間の抜けた返事をする理雄に、一歌は慌てた様子で訂正を入れるも、そのまま懸命に話し続ける。
「でも、理雄先生は私達に親身に接してきてくれました。私達を怖がらせない様な話し方をしてくれて、表情も穏やかにしてくれて……私が思い切って、志歩たちの事を相談した時も、最初はすごく不安でしたけど、先生はこっちを優しく気遣ってくれて、真剣に話を聞いてくれました------私は、それがとても嬉しくて、先生が眩しく見えたんです!」
気が付けば、時間の流れを忘れて一歌の話に聞き入っていた。
------俺が……眩しい?
そんな言葉、最後に言われたのはいつだったか…。
「志歩達とまた一緒にいられる様になって、いつか理雄先生にこの恩を返したいってずっと思っていたんです。けどやっぱり、先生は簡単に人を近づけない様な、私達とは少し距離を取っている所が何となくあって……それでも、最近はこうして、私達の前でも怒ったり、笑ったり、少し子供っぽい所とかも……色々な理雄先生を見せてくれる様になって、以前より先生の事を知れた感じがしたんですッ、だから------」
そこまで話した一歌は、やがて何かを決心した様に、正面から理雄と向き合う。
刹那、理雄はその凛然とした美しさに目を奪われ、呼吸を忘れた。彼女の星空の様な幻想的に輝く瞳から目を離せなかった。
「私は、理雄先生への想いを込めて演奏を------貴方の為に歌います!!」
「------!!」
理雄は目を見開き------今度こそ目の前の少女の声と言葉に息を呑んだ。
「私は……ある音楽の先輩に、『一歌は何を想って歌うの?誰の為に歌いたいの?』と訊かれた事があります。私自身、今までそれが分かっていなくて……けど、今なら分かります。私は------私が想いを届けたい人の為に歌います!それを……理雄先生にも届けたいんですッ!!」
「ッ………」
力強い意志を感じる瞳から、言葉では言い表せない"何か"が、理雄の魂に突き刺さる。
脊髄を伝って脳がそれを合理的に処理しようと試みるが、うるさい位に鳴り響く心臓の鼓動に掻き消されてしまう。
身体が思うように反応できない。只々、彼女から受け取った膨大な質量のエネルギーに圧倒される。
胸の奥から熱いモノが込み上げてくる。それは間違いなく、彼女の------星乃一歌の"想い"なのだろう。
「------まいったな…」
口から漏れ出たのは、溜息混じりの苦笑だった。だがその口元には小さな------それでいて、心に熱く炎を燈されたような……確かな笑みを浮かべていた。
「まさか…そこまで嬉しい事を言ってくれるとはな…」
「そ、そうですか…?」
一歌は一旦身を引くと、先程の熱量はどこへ行ったのやら、いつもの天然混じりの控えめな少女に戻っていた。
「いっちゃんかっこいい〜〜!私ちょっとドキドキしちゃた!!」
「そ、そうかな…」
目をキラキラさせ、胸をキュンキュンさせる咲希に少し恥ずかしそうに答える一歌。
そんな2人を見ながら、理雄はこの世界に来れて良かったと…心から思っていた。
彼女達が……闇の中で生きる自分に、希望の光をもたらしてくれた。
「----君達がいたから、俺は……」
「え?」
何か言ったかと、一歌は首をこちらに向ける。
「-----いや、なんでもない……さ、そろそろ行かないと本当に遅れるぞ」
理雄が教室の時計を指さす。次の授業開始まで残り10分を切っていた。
「ヤバッ!咲希、急ごうッ」
「う、うん!それじゃあせんせー、失礼します!」
「失礼しますッ」
2人は丁寧に頭を下げ、教室の外へと駆け出す。
「急ぐのはいいが、走って転ぶなよー」
一歌達の背中に軽く注意を送り、そのまま教室内で1人となる。
「…俺も移動するか」
ポツネンと1人佇んでいる訳にもいかず、室内の電気が消されている事を確認し、外に出て扉を閉める------。
------さっき途中で呑み込んだ言葉は、また別の機会に話そう。
いずれ彼女達にも、自分の想いを伝える日が必ずくる。
それまで死ぬ訳にはいかない------。
昼休みに入り、珍しく自作の弁当を持参した理雄は校舎の屋上へと向かっていた。
屋上への階段を登り切り、扉を開ける。
------ガチャリ……。
ドアノブを開くと、春風が穏やかに涼を運んでくる。
この学校に客員講師として赴任してから、はや1ヶ月------。
既に桜は散り始め、土筆が生える季節となっていた。
澄んだな空気を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出す------。
屋上のフェンスに近づき、地上を見下ろしてみると、昼間のシブヤは変わらず喧騒としていた。こうしてみると、この美しい世界が薄氷の平和の下に成り立っているのが嘘のようである。
音楽を中心としたサブカルチャーが盛んな街------シブヤ。
東京都内にある若者が集まるこの街は、自分が元いた世界の東京都渋谷区と殆ど変わりがない大都市の一角……しかし、やはり自分にはこの街が、あの世界の渋谷と同じ物だとは到底思えなかった。
「あれ…理雄先生?」
背後から澄んだ美声で呼ばれる。物憂げな思考を打ち切り振り向くと、青髪のショートカットが映える美顔の少女-----桐谷遥が空色の弁当袋を手にこちらを見ていた。
見れば彼女の背後には、『MORE MORE JUMP!』のメンバーである花里みのり、桃井愛莉、日野森雫の全員が揃っていた。
「こんにちは。珍しいですね、先生が屋上にいるなんて」
風で靡く青髪を右手で抑えながら、にこやかに微笑んでくる。
「昼飯でも食おうと思ってな…、そっちは?」
「私達も同じです。丁度みんなで食べようって……良ければ先生も一緒にどうですか?」
遥がお昼のお誘いをしてくれる。自分としてはありがたい申し出だが…。
「いいのか?別に俺に気を遣わなくても……」
「そんな事ありませんよ。-----皆んなもいいよね?」
遥が背後の少女達に問いかける。
「もちろんッ、理雄先生なら大歓迎だよ!」
みのりが元気に応え------。
「私も先生とお昼をご一緒したいわ〜」
雫がほんわりした様子で応え------。
「いいんじゃない?私も構わないわ」
愛莉が豪胆に頷いた。
「なら決まりだね」
最後に遥が笑顔で決定を下す。どうやら断る理由はなさそうだ。
「そうか…なら遠慮なく------」
小さく円になってその間にお邪魔する。女性陣は座る場所に弁当箱を包んでいた布を敷いていた。
「「「いただきます」」」
行儀よく手を合わせて合掌し、各自食事を始めた。
理雄は黒い長方形の弁当箱の蓋を外す、容器の右半分には冷めた白米がみっちりと詰まっており、左半分には昨夜作った回鍋肉のあまりが詰まっていた。こちらも当然冷めていが、美味い米は冷めていても美味いし、回鍋肉は表面の焦げがいい具合に焼けていて、こちらも中々いけそうである。
回鍋肉を箸で口に運ぶ。口の中で豚肉の歯応えとピーマンのほろ苦さを感じる。少しピリッと辛い強めの味付けをしており、肉の脂と旨味が口内で広がる。うん、美味い。流石俺。
気が付けば、隣に座る遥が理雄の弁当をジッ…と見ていた。
「…どうした?」
「あ、いえ……その、理雄先生も料理するんだなって」
「自炊は一人暮らしの基本だ。コイツは昨日作った夕飯の残りだが、割と食える出来だと思うぞ……なんなら一口食ってみるか?」
「…いただきます」
そう言って箸で豚肉を一切れ遥の青色の弁当箱に移す。遥はそれをそのままパクリと口に運ぶと、目を見開く------!
「美味しい…!」
「なら良かった。それにしても、遥は随分ヘルシーなメニューだな?」
理雄は正座して食事する遥の膝上に置かれた弁当箱に視線を移していた。
彼女のやや大きめの正方形の容器の中は、鶏肉のササミと、レタスやトマトを中心としたサラダ類で占められており、米などの炭水化物類は見当たらない。
「スタイル維持に食事制限は重要ですから」
「相変わらずストイックねぇ…」
少し呆れた調子で言うのは、遥と対面する形で女の子座りする愛莉だった。
「今朝のランニングだって、1人余裕でぶっちぎっちゃうし、その後の筋トレも1番回数こなすしで…、ホント頭が下がるわ…」
先輩であるにも拘らず、年下の後輩に勝てる要素が少ない自分に「あ〜あ…」と嘆息する愛莉。
「そんな事ないよ。愛莉も頑張れば私並みには走れるかもしれないよ?」
遥は少し勝ち誇った様な笑みを浮かべる。それに対し愛莉は嫌な顔をする。
「…ねぇ、アンタさりげなく私達を呼び捨てにしてない?一応先輩よ?」
「先輩呼びして欲しいならそうしますよ?桃井先輩?」
遥は小生意気にクスクス笑う。
「それじゃ私が器の小さい人間みたいじゃないッ」
「そんな事ありませんよ?桃井先輩♪」
「だーッ!もういいわよ呼び捨てで!!」
投げやりに頭を抱えながら天に向かって絶叫する愛莉。遥はどこか楽しそうだ。そんな2人を見ながら、理雄はふと思う。
「そう言えば、愛莉は元バラエティアイドルだったんだよな?昔は変なマスク着けて色々やらされたとか…」
その言葉に、遥とのやり取りで憔悴し切っていた愛莉がビクッと身体を震わせる。
「ま…まぁ、会場とかを盛り上げる為に……色々…」
ギギギッ……とブリキ人形みたいに首を動かし、視線を理雄から逸らす愛莉。心なしか顔がどんよりしていた。
「聞いた話だと------女子プロレスラーと腕相撲したり、女子プロレスラーと戦ったり、『鰻飛ばし祭り』に参加したり、世界各地で外来種を川や沼に片っ端から放り投げて在来種を皆殺しにした後、その様子を動画で撮ってSNSに上げて大炎上した挙句、ネットユーザーから『外来種ぶん投げおじさん』との異名が付けられたとか…」
「最初の方のエピソード以外全部出鱈目だし"おじさん"でもないわよッ!っていうか誰よ!適当な噂吹聴してる奴は!!」
どうやら過去の芸能活動が尾を引いて、微妙に愛莉の人物像が歪められているらしい。詳しい事情は知らないが、愛莉にとっても当時の事は黒歴史として記憶されているようだ。
不意に、鮭弁当を食べていたみのりがビシッと手を挙げる。
「私、当時の桃井先輩のDVD全巻持ってます!」
「やめてみのりお願いだから余計な事言わないでッ」
「へ〜、俺も是非一度見てみたいな〜」
「理雄先生も話に乗らない!ちょッ…まさかあの番組の収録じゃないわよね?アレだけはやめて!今すぐ忘れて!!」
「私も持ってますよ。良ければ今度貸しましょうか?」
「おッ、いいのか遥?ありがとう楽しみだよ」
「勝手に話を進めないでくれるッ!?」
「愛莉ちゃんのバラエティ、私好きだったわ〜」
「雫、アンタは黙って食べてなさいッ!」
みのりが元気よく話の火に油を注ぎ、遥が面白そうにクスクス笑って最悪の提案を差し出し、理雄がニヤニヤ笑いながらそれに乗じ、雫が空気を読まずホワホワ和み、愛莉がギャアギャアと喚き立てる。
ついに我慢の限界と言わんばかりに、愛莉が青筋を立てながらピクピクと痙攣し始め------ついに爆発した。
「アンタ達ッ……いい加減にしなさーーーーい!!!!」
宮益坂女学院の校舎屋上は、その後も騒がしい時間が続いた------。
ようやく場が静かに落ち着いた時、ふと、みのりがひとりでに呟く。
「そう言えば……理雄先生、最近少し変わった様な気がします」
「突然なんだ?」
みのりが教室での咲希みたいな事を言い出し、理雄が怪訝な表情を浮かべる。
「なんか…私達に対して遠慮がなくなった感じがするというか…」
みのりが「う〜ん…」と思考を捻り出しながら答えていると、遥が話に食い付いてくる。
「…確かに、今までは私達を『君』とか『君達』とか呼んでいたけど、最近はたまに『お前』って呼ばれる様になったし……変な遠慮とか気遣いとかされなくなったかも…」
「そうね〜。でも私は今の理雄先生の方がいいわ。だって前よりもお近づきになれた感じがするもの」
雫が笑顔で肯定し、愛莉も頷く。
「私達の場合、名前で呼んでもらってるしね。その影響じゃない?」
「……かもな」
理雄はそれに短く答え、烏龍茶のボトルを煽る。
一歌達だけじゃなく、みのり達までが自分は変わったと言う。ジュリエットのメンバーからも度々言われてきたが、表の自分まで変わったという事は、今まで裏の自分である"財団職員としての顔"を隠す様に取り繕ってきた仮面が剥がれ、本来の志熊理雄が段々と顕になりつつあるのかもしれない。
思い返してみれば、最初の頃、一歌達と話す時の口調はだいぶ丁寧に……声や表情、仕草までもが気持ち悪いくらい潔癖で優男然としていた。
英牙や信孝達と普段話している時が本来の自分だとしたら、エライ差がある。
……もし、ジュリエットのメンバーらに以前の様な『僕』なんて一人称を使った『ちょっと怖いけど優しくてイケメンな完璧王子様系教師』の顔でお嬢様JK達と接している所を見られ様ものなら、遠慮なく笑い飛ばされた挙句、おそらく死ぬまで……いや、死んだ後も永遠に話のネタにされるに違いない。
そうなったら、流石の自分も恥ずかしくて死にきれない。まだ『ドSで毒舌で鬼畜なイケメン教師』の方が何万倍もマシである。
------とはいえ、それだけ自分が彼女達を信頼し、距離が縮まった証拠なのだろう。だから今までの様な猫被りを無意識の内にやめ、本来の自分の性格で彼女達と接する様になってきているのだろう。
「まぁ、その話は別にいいだろ。それより、ユニットの活動の方はどうだ?」
話題を変え、みのりに話を振る。
「はい!現在遥ちゃんの指導の元、歌とダンスの練習中です!」
みのりが威勢よく答える。それを見ながら、ピンク色の弁当箱からタコさんウィンナーを箸で取り出した愛莉は呆れた様に指摘する。
「みのり……アンタこの前投稿したダンス動画で、最後のパート盛大にコケていたでしょ…」
先輩の鋭い指摘にみのりは「あぅぅ…」とガックリ肩を落とす。
『MORE MORE JUMP!』は結成当初は、芸能事務所に入所した上での活動を試みた様だが、他の3人はともかく、完全など素人のみのりに事務所の看板を背負わせ、プロの現場に立たせるリスクを負うプロダクションが存在する筈もなく…。
また、遥という元国民的アイドルの存在も大きな一因だった。一旦業界を離れた身とはいえ、彼女の名は非常に有名だ。迂闊に引き入れれば、彼女が以前在籍していた『ASRUN』の所属する大手事務所からのヘッドハンティング……所謂"引き抜き"と見られ、その後の業界内で圧力をかけられる可能性がある。
プロダクション側からしてみれば、遥がいた大手事務所はかなり力が強く。敵に回せば、自分達がプロデュースしたい自社タレント達の活動にも多大な影響を及ぼす恐れがある。
現場での無用な軋轢やトラブルを避けたいのもあってか、遥や愛莉の必死の努力にも拘らず、行く先々で断られた。
結果、彼女達は無所属のフリーとして、ネットを中心に活動を始めた。
しかし……本人も認めている様に、運も悪ければ備えている資質もノウハウも大して持っていないみのりは、初っ端から悪戦苦闘しているらしく、意気消沈としていた。
「あの動画か……俺も見たよ。確かに盛大にすっ転んでいたな…」
理雄は数日前、財団の治療施設にてタブレット端末越しに彼女達のダンス動画を視聴していた。
全員トレーニングウェア姿で、ボーカルのない曲のみに動きを合わせた練習動画だったが、やはりみのりの動きだけが悪い意味で目立っていた。
動作のいくつかにミスがあったのもそうだが、何より、曲の最後のラストパートで思いっきり後頭部を打ちつけていたのは、色んな意味で頂けなかった。
実際、動画のコメント欄には『誰だよコイツ?」だの『端で踊っていてよ』だの『3人と一緒に映らないで欲しい』、『邪魔』、『マジで養成所行っていない素人?下手クソすぎwww』と散々な言われようだった。
中には『みのりちゃん大好き。君の綺麗な足に×××して君の×××に僕の×××を…ハァハァ…』といった「こんなモン、キーボード使ってコメント欄に打ち込むなよ…」と言いたくなる様なとんでもない物まであった。
これを見て卒倒しなかったというのだから、みのりの精神力は相当な物である。改めて驚かされた。
因みに、余談であるが、昏睡中の龍一郎を除くジュリエットの6名もこの動画を視聴しており------、
『…まぁ、誰だって最初は上手くいかない物だ』と悠間が慰めに近い言葉を残し------。
『こういう時が根性の見せ所だ。何でもいいから励ましてやれ…』と初雪が彼なりのエールを送り------。
『健気で頑張り屋な感じの子だ。俺は応援するぜ!』と悟がみのりのファンとなり------。
『ここで躓くんじゃ、資質ゼロだ』と英牙はその後、見向きもしなくなり------。
『俺は足が好きだな!顔はまぁ普通だが……×××するには最高の相手だぜゲヒヒヒ…それで------』と信孝が最低なコメントを口にし------。
『…………』
向一に至っては完全なノーコメント。おそらく何を言えばいいのか分からなかったのだろう。余計な事を言わないのは寡黙な彼の美徳だ。
そして、志熊理雄はというと------。
「重要なのはこれからの努力だ。シモ・ヘイヘやリュドミラ・パヴリチェンコだって最初から一流のスナイパーだった訳じゃない。落ち込むのはいいが、それが済んだらいつもの調子に戻って再チャレンジしてみろ。努力は才能を超えるんだ。その際、努力を持続させ、能力を向上させる方法がある…」
理雄はSEALsで習った『30%ルール』を引用する。
「例えば君が100kmフルマラソンを走ったとしよう。君は10km辺りで疲労困憊になり、身体中から酸素が消失し、全身の筋肉が悲鳴をあげる。その時、君の脳はどう感じる?」
みのりは鋭い視線で質問してくる理雄に小さく息を呑みながらも、毅然とした態度で答える。
「えっと……もう無理…とかでしょうか?」
「そうだ。周りで競争している連中もそう考え、ペースが落ちていき、次々と脱落していく。君の脳も『もう限界だ』、『自分は頑張った。もういいだろう』と諦める様に語りかけてくる……その時、君を勝ち残らせる唯一の方法が『30%ルール』だ」
みのりだけじゃなく4人全員が話に聞き入ってきたのを見計らって、具体的な内容を説明する。
「限界だ……と感じ始めた時、『まだ30%だ』と心の内で考えろ。人間の脳は100%の全力を軽々と出せない構造になっている。これは、脳が生命を守る為の安全装置としての機能だ。大抵は30%〜40%で出力が止まる様に脳が身体と心に働きかける。だが…この30%の壁は超える事ができる」
「ど、どうやって…?」
「『まだ30%だ。自分はまだまだ走れる』と思い込む事だ。1kmでもいいから長い距離を走るんだ。それが出来たらもう1km……それが出来たら更にもう1km……こうして自分の限界を40%…50%と超えていき、気が付けば80%までの力を出していて、50kmの地点まで走り抜いていた…」
「……!」
「この究極の集中状態を維持する事により、自分の中で勝手に決め付けていた"限界の壁"を簡単に踏み越える事が出来る……80%までいってもまだ20%出せていない力がある。それを引き出すだけで結果に大きな差がつく!……まぁ要するに、いつも君がしてる通り『もっと頑張る!』を理論的かつ具体化しろという事だ。才能が欠けているならその分血反吐を吐く位努力しろ。マジで死にそうだったら俺が止めてやる。だから安心して練習に打ち込め。人間は君が思ってるより頑丈だしパワフルだ。特に君の場合はその辺の心配がない。そのタフな調子でドンドン輝いてくれ」
さて、こんな所か…。だいぶ話が長くなってしまったが、みのりの様子はどんな感じだろうと視線をやる。
「お〜…!!」
目をキラキラさせながら感激していた。他の3人も興味深そうに唸ったり頷いたりしている。
「はい!分かりましたッ!花里みのり…理雄先生の期待に沿うべく限界突破しますッ!!」
胸の前で両の拳を力強く握り締めるみのり。どうやら再起完了の様だ。
「おう。頑張ってくれ------それはさておき、あの動画にも見所はあるぞ」
そう言ってやると、みのりはピコンッと聞き耳を立て反応する。
「ほ、ホントですか!?」
期待の眼差しを向けられた理雄は、コクリと頷く。------しかし、その口元は僅かに釣り上がっていた。
「ホラ、最後のすっ転んだ所あっただろ?アレだよ」
「え…アレがッ?そ、それはどういう……」
みのりが困惑した表情を浮かべると------、
「あぁ、あの時に君が着ていたトレーニングウェアのスカートが思いっきり捲り上がっていたろ?おかげで良いものが拝めたよありがとう」
みのりはパチクリと瞬きをすると、バッ!とスカートを両手で押さえる。
「いやぁ〜意外だったよ。まさかあんな派手なパンツ穿いてるとは……レースの多い赤なんて…」
「あ、赤なんて穿いてません!あの時はオレンジでした!布地が多くてレース少なめでッ、っていうか下がショートパンツだったのになんで………あ…」
その時、みのりは迂闊にも罠に嵌められた事を悟った。
あの動画でのみのりは、のんびり泳ぐラッコのイラストがプリントされたTシャツと白のショートパンツという姿だった。どう転ぼうがスカートが捲れる事も下着が見える事もない-----。
「へぇ〜、みのりはオレンジか〜…いい事聞いたな〜」
理雄が嬉しそうに笑う。みのりは簡単な嘘に引っ掛かり、自分から下着の色を暴露してしまったのだ。
「うぅ〜〜〜〜〜……ッ!!」
涙目で睨んでくるみのり、それを愉快そうにニヤニヤ笑う理雄。
励ますフリをして教え子に自らの下着の色を言わせるという、デリカシーもなけりゃ配慮の欠片もない、普通に立派なセクハラである。
その様子を呆れた様子で愛莉が眺め、遥がポツリと呟く。
「理雄先生って意外とサディスト…?」
理雄は聞こえないフリをした。
さっさとみのりの非難がましい視線から逃げ、雫に目線を移す。
雫はさっきから静かに食事に没頭しているが…。
「…雫、さっきから食ってるソレはなんだ?」
雫は理雄の視線に気づくと、穏やかな笑顔のままソレを見せる。
「これですか?うどんですよ。熱々の狸うどん!」
「……それ、家から直接持ってきたのか?熱い汁入れたポットごと?」
「えぇ、美味しくてあったまるわ〜。理雄先生も一口いかが?」
「いや、結構だ…」
この学校の食堂にも給湯器ぐらい置いてある。にも拘わらず彼女は保温ポットに激アツのうどんを入れて登校してきたらしい。
フーッ…フーッと湯気が立ち昇るポットから取り出した太い麺に息を吹きかける雫。
愛莉に視線をやると、どこか諦めた様子だった。
「雫っていつもこんな調子ですから…」
もう慣れましたと言わんばかりに肩を竦められる。
「そういや2人は同じ事務所の同期だったか?」
「えぇ、研究生の時から一緒で……ってそうだわ、雫、アンタ理雄先生に大事な話があったんじゃないの?」
愛莉に指摘されると、雫は「あッ」と何か大事な事を思い出した様に反応する。
「いけない…私ったらこんな大事な事を忘れるなんて…」
そう言って雫は理雄に向き直る。
「理雄先生。実は私、聞きたい事があるんです」
雫の表情から、真面目な質問だと分かる。
「3-Aの……桜結衣先輩をご存知ですか?」
----------瞬間、僅かに心臓が跳ねる。
忘れもしない。先の『ダウンフォール・プロジェクト』なる策謀によって引き起こされた惨禍に巻き込まれ、生命を落とした財団のフィールドエージェント-----。
そして……他でもない自分が、その原因を作ってしまった。
「…知ってる。彼女がどうかしたか?」
変な間が空いてしまったが、何とか平静を装って答える。
雫は心配そうな表情で続ける。
「もう2週間も学校に来ていないんです。私が所属する弓道部の中でも凄く上手で、責任感の強い立派な人で……何かあったのかと、部長や先生方に聞いても何も知らないって……理雄先生は何かご存知で------」
-----プルルルル-----プルルルル……。
その時、理雄の懐から携帯の着信音が鳴る。
デフォルト設定のままの無機質なメロディーとバイブの振動から、それが仕事用携帯だとすぐに分かる。
「悪い…ちょっと外す」
一言断りを入れると、屋上の出入り口を開けてそのまま校舎の中に戻る。
誰にも聞かれない様、扉を閉めたのを確認すると、スマホの画面に表示された番号を見て、通話ボタンを押し端末を耳に当てる。
「もしもし?」
『-----理雄、いま大丈夫か?』
スピーカーからやや野太い男の声が聞こえてくる。
「えぇ大丈夫です。珍しいですね、後藤二佐から直接連絡が来るなんて……どうされました?」
連絡を寄越してきたのは、サイト-8156で人事担当を務める上級職員、後藤海二等陸佐だった。
自分達ジュリエットチームに表の職業を割り当てた人物でもある。
『明日、お前は非番だな?』
「…はい」
『なら明日の朝、0900に『神山公園』前の駐車場に来い。正装でだ』
いきなりの命令に面食らう。
「え…任務ですかッ?しかし隊長達がまだ…」
『違う、今回は遺族訪問だ。道義的に当事者であるお前の同行が必要なんだ』
理雄は内心で首を捻る。
「遺族訪問?誰のです?」
『お前が以前情報の提供を求めた----------桜結衣だ』