Project Sekai SCP incident feat . 作:唯尊
西暦2045年5月、基底世界。
元いた世界で休暇を満喫すること、今日で丁度一週間となる。
ハイパーブラック違法組織であるSCP財団の職員であり、その中でも特に不規則な生活を強いられる
「ふッ-----------!」
肩甲骨を寄せ、胸を張った姿勢を維持したまま、ラックからバーを持ち上げる。ブレが収まるまで一旦静止すると、肩甲骨の位置をキープしながらラックから外し、腹式呼吸で体内に大きく息を吸い込みながら、腹筋に力を入れる。
そのままバーの重さを感じながら、ゆっくりと鳩尾のやや上に向かって下ろしていく。
現在、理雄が取り組んでいるのは大胸筋、三角筋、上腕三頭筋をメインに鍛えるウェイトトレーニング、所謂ベンチプレスである。
バーが胸につくと、まっすぐ上げる。この時、脚や腹にも力を入れ、姿勢を維持するのがポイントだ。尻がベンチから浮いたり、肩が前に出たりしないよう注意する。
ベンチプレスは一度にたくさんの筋肉を鍛えられるが、その分正しいフォームで行わないと怪我を負うリスクがある。
「くッ……うぅ!」
黒く分厚いプレートが幾重にも取り付けられたバーベルは、合計で200kgの重量を誇る。
鋳鉄の塊を最後まで完全に持ち上げ切ると、それを数回に分けて繰り返す。
2……3……4------。
「……ッ5!」
ラストでバーをラックに戻し、一息吐く。
「ふー……よし。悪くないな」
むくりとベンチから上体を起こし、黒のTシャツとハーフパンツ姿の理雄は、近くに置いてあったスポーツ飲料水のボトルを手に取り、キャップを捻って喉に流し込む。
清涼な味を感じながら、消費したミネラルと塩分を補給すると、青のスポーツタオルで顔の汗を拭く。
すっかり傷が癒えた事により、財団の医師から診断を受けた結果、無事に任務復帰を許された理雄は、鈍った身体を鍛え直すべく、ここ、『Red&Glay Academy』にてトレーニングに励んでいた。自身の最高記録であるベンチプレス200kgをクリアし、最高のコンディションを取り戻しつつある。
負傷していた他のメンバーも次々と回復を果たし、各々でトレーニングを再開しているとの事だ。
一番重傷だった龍一郎だけは、車椅子から降り、松葉杖をつきながら歩ける程度までは回復したが、完全復帰までにはもう少し時間が掛かるらしい。
しかし、それでもジュリエットチームは復活の兆しを見せ始めていた。
ジム内の中央には、大会で実際の試合にも使われるリングがあり、様々なトレーニングマシンに加え、トイレやシャワー、自販機なども完備されている。
このジムは財団のフロント組織の一つであり、辺りを見回すと、老若男女様々な人間が身体を動かしている。リングの上でミット打ちに励む者、サンドバッグを叩き続ける者、縄跳びや筋トレを行う者と、各自でそれぞれのメニューに取り組んでいる。
彼らは全員が財団関係者という訳ではなく、普通に一般人も混じっている。
財団はその存在を秘匿しつつ一般社会との接触を行うために、幾つものフロント組織を設立・運営している。国際的なコングロマリットから町の花屋まで、その規模は様々であり、このジムも同様の背景で存在していた。
ここの一般人は一般会員として料金を払い施設を利用しているが、自分たち財団職員は、表向きは特別会員枠として、24時間いつでも無料で利用出来る。
財団の福利厚生は命がけの異常存在収容に従事する職員に対し、最高レベルの医療・防護施設や機密保持と引き換えの安定した報酬が提供される。この組織の数少ない良い所だ。かくいう自分も、重傷の身から治療を受け、こうしたサービスの恩恵にあずかっている。
まぁ----------それでも薄給ではあるが…。
精鋭たる機動部隊員であっても、貰える給料は(階級や職種、契約内容によって変わるが)決して多くはない。一般社会の常識で考えれば悪くはないし、そこそこに良い待遇ではあるのだろうが、異常存在収容の最前線、もしくは普通に戦場に放り込まれ、生死の堺で必死に生き延びる身としては、どう考えても自分の生命と釣り合う額ではない。
唯一、手放しで喜べるとしたら、せいぜい除隊後の退役年金がまぁまぁ多い事くらいである。
宮女に務めている間は、財団からの給料に加えて、勿論ちゃんと報酬を受け取っているが、理事長からのポケットマネーなので、少々多めの小遣い程度にしかならない。
蓄えはあるし、生活に必要な金は十分ある。不満がある訳ではないし、今の所経済的な問題もない。ましてや自分は高給目当てで機動部隊に入った訳ではないのだ。
ただ、毎月の預金通帳に記入されている自分の口座に振り込まれた額を見ると、あまりの安さについつい溜息と苦笑が漏れてしまう。
自分の生命とは、一体どこまで安いのだろうか……と。
不意に、大勢の死を目撃してきた自分にとって、"死"は身近であり、生命はあまりにも脆く、軽い物ではないかと感じる時がある。
小学生の頃、散々周りの大人達や教師から口を揃えて『生命は地球一個分よりも重い』だの、『天は人の上に人を造らず』なんて言葉を聞かされ、それを真実だと信じて疑わなかった自分だが、今となっては、それが嘘で塗り固められた虚像であると断言できる。
生命とは、あまねく全てが平等に軽く、脆く----------消耗されていく物である。
それが、財団で悟った---------志熊理雄にとっての世界の真実であった。
それはこの世界において、表も裏も関係ない。人間を殺すのがアルギュロスか、アノマリーか、同じ人間かの違いでしかない。
もしかしたら、一歌達の世界も---------。
そこまで思考を巡らせた時、頭を振って中断する。
よそう。そんな事考えた所で、あの世界の仕組みと正体が分かる筈ないのだ。
『------近い内に、この世界はいずれ崩壊する』
しかし、あの時セカイにてIAが放った一言が、どうしても頭から離れなかった。
『この世界はいずれ崩壊する…、平和は……天体望遠鏡を使っても見えない、だが……、おそらく破滅は…、靴を飛ばせば届く距離にある…!全てが破壊されていく情景の中……お前も……最期は…ッ!』
そこにダミアン・オコナーの慟哭が重なる。
脳裏を過ぎるのは、自分が見てきた死体の山。
そこに、一歌達の顔があって-----------------。
---------ピロンッ♪
直後、聞き慣れた着信音にビクッと身体を震わせる。
目を向けた先には、黒いスマホカバーに覆われた自分の個人用携帯が新着メッセージの通知を知らせていた。
画面を操作し、ブラウザを開くと---------。
咲希『合唱祭終わりました!アタシ達のクラスが銅賞で、ほなちゃんのクラスはなんと金賞です!☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆』
驚いた事に、なんと向こうの世界にいる咲希からだった。メッセージには彼女らしいポップな顔文字が添えられている。
そう言えば、この世界に帰還する前、向こうの世界で財団の技術スタッフに端末を弄られていた事を思い出す。
こちらと向こうで緊急時の連絡や情報交換を行う為に、通信が繋がるようになってるらしい。
Leo/needのグループチャットに入れて貰った自分の元に、次々とメッセージが届く。
一歌『けっこう盛り上がったし、皆んな楽しそうでした。理雄先生にも見て欲しかったなぁ…』
志歩『まぁ、練習の成果は出せたと思います』
彼女達からのメッセージを一通り読んで、脳裏を支配していた凄惨なイメージから意識が抜け出していく。
穂波『あの後、わたしの意見をクラスの皆んなにちゃんと伝えて、まとめる事が出来ました。理雄先生が相談に乗ってくれたおかげです』
最後に、穂波から感謝の言葉が綴られていた。
どうやら、自分が持つ優しさの形を彼女なりに理解したらしい。ともあれ、穂波が勇気を出して一歩前進できた事は、素直に喜ばしかった。
『コッチも仕事がひと段落つきそうだ。戻ったら色々と話を聞かせてくれ』
画面のキーボードを打ち込んで返信すると、持ち込んだスポーツバックに私物を戻し、シャワールームへと向かう。
汗まみれの服を脱ぎ捨てると、そのままブースへと頭を突っ込み蛇口を捻る。
熱いシャワーを浴びながら、心が落ち着いてくるのを感じると、改めて己の過去を省みる。
穂波は過去のトラウマを克服しつつある。それは他ならぬ彼女自身が、己の過去と向き合う覚悟を決めたからだ。
自分も、かつてとは違う。
今までの様に、己の誇りや世界への復讐心だけではなく、守りたい者全ての為に戦うと誓った以上、これまでの自分のままではいられない。
変わる為には、自身の過去を見つめ直す他なかった。
今まで避けていた----------それこそ、向き合う事を本能的に恐れていた記憶。
志熊理雄は静かに目を瞑り、一人貸切状態のシャワールームで瞑想する。
思い起こすのは、在りし日の自分。
8年前、全ての始まりとなった"あの日"を------------。
*
基底世界。西暦2037年5月16日------北海道札幌市中央区。
志熊理雄は濁流の中にいた。
呼吸が出来ず、血潮を思わせる赤黒い世界は、急流の如く流れており。自分はそれに流されている。まるで血流の中のいる様だ。
身体が滅茶苦茶に回転し、平行感覚を失う。口と鼻からは大量の血が肺に入り込んでくる。全身の内側を引き裂く様な激痛が駆け巡り、悶え苦しみながら流れていく。
行き着く先など見えず、この苦痛が永遠に続くかと思われた時、ふと思い至る。
あぁ、この苦痛は、いずれ自分が味わう物だと---------。
それがどれほど理不尽で、辻褄の合わない道理から外れた運命であろうと、これから自分に降りかかる
忘れるな---------とでも言われてる気分だった。
全てを奪われ、失うのがお前なのだと------。
それを拒むのならば、この世の不条理を許せないのならば---------。
抗い続けるしかないのだと。
「---------さん……兄さん…!」
誰かが自分を呼ぶ声がする。
ずっと昔から聞いてきた声------その可愛らしくも凛とした声の持ち主は、自分がこの世で初めて、誰かを好きになるという感情を抱いた相手だった。
「------兄さん!?起きて下さい兄さんッ!」
身体が揺さぶられるのを感じ、彼女の声が明瞭になった瞬間、理雄はカッと目を覚ました。
「ぐッ……ゴホッ、ゴホッ!」
カヒュッ…と急に息を吸い込んだ事により、気管に唾が入って咳き込む。
「兄さん……大丈夫ですか?」
目線を向けた先には、一人の少女が心配そうにこちらを見つめていた。
160cmに満たない身長。黒のハイソックスに脚を包み、藍下黒のミディアムヘアを襟足の長いウルフカットにした十代半ばの少女。
整った顔立ちは幼さが強く残っており、小柄で華奢な体躯と見合って可愛らしい雰囲気だが、夜空色の瞳からは決して折れない強靭な意志を感じる。
元々は自分の幼馴染であり、ある事情で志熊家の養子となった理雄の義妹である。年齢は15歳で現在中学3年生。理雄より一歳下であり、公立南陵中学のブレザーを着ていた。
「うッ……!」
ベッドから無理やり起きあがると、自分の胸に手を当てる。動悸が激しく、脈も呼吸も速い。寝巻きとしてきているTシャツとハーフパンツは汗で気持ち悪い程濡れていた。
「兄さん、これを…」
李玲が甲斐甲斐しくコップに入れた水を差し出してくる。
「あぁ……ありがとう…」
軽く礼を言うと、受け取った水を少しずつ嚥下していく。天然水の冷たさが徐々に身体の機能を正常な状態に戻していき、乱れた心を落ち着かせる。
「ハァッ……クソッ、何だったんだよアレは……」
ようやく一息吐くと、手で頭を軽く押さえながら、先程の夢に対し悪態をつく。
妙にリアルな悪夢だった。いや、夢の中で脳が感じたあの時の苦痛は、紛れもない本物だった気がする…。
「あの……本当に大丈夫なんですか?すごく魘されていましたよ?」
優しく背中を摩ってくる妹に対し、平静さを取り戻した理雄は改めて部屋の中を見渡す。
ごく普通の7畳程度の一人部屋。閉じられていたカーテンは解放され、朝日の陽光が全面的に差し込んでいる。小学生の頃から使っている学習机には、昨夜の試験勉強で使っていた教科書類やシャープペンシルが置かれており、その反対側の壁には、洗濯を済ませた空手着がハンガーで掛けられていた。組手用の道着なので、型用と比べて薄い作りとなっている。
コップをベッドの傍に置くと、同じ位置に置いてあったスマホの画面を起動する。時刻は現在、午前6時40分となっている。
「兄さんはこの時間帯なら、朝練がなくても早起きしてランニングか筋トレしてますから、起きない事を不思議に思ってたんです。珍しく寝坊したのかと起こしに来てみれば、ドア越しでも聞こえるくらい苦しそうな声が聞こえてきたので…」
見れば、部屋のドアは外側から工具でこじ開けられた形跡がある。昨夜は就寝する前に部屋の鍵をかけていたので、やむを得ず無理やり部屋に侵入したのだろう。
「…すみません。勝手に入って……あと、部屋の鍵も壊しちゃいましたし…」
少し申し訳なさそうな表情で俯く李玲を見て、理雄はその小さな頭にポンと手を置く。
「気にするな。こんなのすぐに直せる。心配してくれてありがとうな」
「………」
触り心地のいい髪を撫でながら、李玲はしばらくされるがままになる。やがて、ベッドから完全に抜け出し、軽く腕と首を回した。
李玲はその様子を見てまだ気遣う様な視線を向けてくる。
「具合が悪いなら、無理して登校しなくても……」
「いや、大丈夫だ。水飲んだおかげで少しはマシになったし、顔でも洗えばスッキリするだろ」
そう言って2階の自室から出ると、階段を降りて脱衣所の洗面台に向かう。
バシャバシャと顔を洗うと、熱いお湯が顔に染みる。濡れた前髪をかきあげると、正面に備え付けられた鏡と対面する。
目の前に映る少年は、相変わらず目つきが悪く陰険な雰囲気を醸し出しているが、顔立ちは周囲から『女性的』と言われる位には整っている。
幼馴染の一人から「もっと優しい
……因みに、その有難いアドバイスをくれた幼馴染からは、「なんか普通に気持ち悪いっていうか……悍ましくなったわね」と理不尽な評価を頂戴している。
これでも小学生の頃までは、幼馴染の少女達と一緒にいても、周りから同性の友達と見間違えられる位には可愛らしい顔だったらしいが……いつからか『陰険』だのと言われる様になっていた。
まぁ、正直気にした事はないが……。
お湯で洗った顔をタオルで拭くと、洗顔料を塗りたくり、濡れた髪をドライヤーで乾かし、最後に軽くヘアブラシをかける。
若干くせ毛気味の黒髪は漆黒で、整えるのに割と苦労はしない。
そのまま歯磨きを済ませ、自室に戻ると、公立
黒曜石の瞳が虚像の中の自分とぶつかり合い、互いに見つめ合う。
特段おかしな所はない。いつも通りの自分である。
考えすぎか…、と苦笑しながら首を振る。
まさかアレが現実になる筈がない。正夢はよく見る方ではあるが、あんな常識を超えた責苦が、一体どこから襲ってくるというのか-----------自身の経験と直感を信じる理雄であっても、流石に現実感が湧かなかった。
既に身体からは悪寒が消え去り、ただの夢だと自分に言い聞かせ、一階のリビングへと向かった。
ドアを開けると、温かな味噌汁の匂いと、焼き魚の香ばしい香りが漂ってくる。
「あ、兄さん」
リビングで今日の朝食作りを担当していた李玲が振り返る。丁度、制服の上から着けていた薄青のエプロンを外している所だった。
「おはよう。李玲」
「おはようございます。もう大丈夫なんですか?」
「あぁ、ちょっと夢見が悪かっただけだ。こんなの平気だよ」
改めて朝の挨拶を交わす。血の気が戻った理雄の顔を見て、李玲は少し安堵した様子を見せた。
「…なら良かったです。さ、朝ご飯冷めてしまいますし、遅刻する前にどうぞ」
「おう」
四角いファミリーテーブルの一席に腰を下ろすと、それに対面する位置に李玲が座る。
クリスチャンである二人は、目を閉じ、掌を組んで軽く祈りを捧げる。
「「神よ、今日の食事に感謝を、アーメン」」
消防士の父親と、整体療法士の母親は早朝から仕事で、現在は家にいない。
二人きりの朝食を取りながら、ふと李玲が聞いてくる。
「もうすぐ中間試験ですよね?昨日も遅くまで勉強して無理が祟ったんじゃ…」
「いや?昨日は10時には切り上げたよ。理数系はどうしても好きになれないからな……ぶっちゃけ、あまり捗りはしなかったけど、多分悪夢の原因はそれじゃない」
李玲は疲労とストレスで悪夢に魘されたと考えたらしいが、空手の練習後ならともかく、今は試験期間中である。他の部活と同様、自分が所属している空手部も完全に休みである。いくらなんでも猛勉強が原因ですり減る様なヤワな精神は持ち合わせていない。
「では、何が原因なんでしょうか?」
「さぁな……生活習慣は乱していないし、実際身体の調子は良いんだが……ま、こんな日もあるだろ。なんか抽象的な夢だったし…」
ましてや自分は不吉な運命を信じる
過酷なアルギュロス戦争を生き延び、消防士として多くの生命を救ってきた父の言葉は、当時の幼かった自分の心に、深く響いた。
また、当時は病弱で周りの子からいじめられていた事もあり、とても辛い時期だった。
そんな時に、父のこの言葉と、いじめっ子から守ってくれた幼馴染達のおかげで、自分は救われたのだ。
これがキッカケで自分は空手を始め、今までの人生の大半を空手に費やし、遂には中学国内タイトル全冠という快挙を成し遂げた。
「にしても、わざわざ悪いな。朝飯作ってもらって……弓道部の朝練は大丈夫なのか?」
「あ、はい。今日はありません。ただ、放課後は後輩の指導をしたいので、帰りは遅くなると思います」
弓道部のエースであり、全道大会優勝の経験がある李玲は、現在南陵中にて部長を務めている。
「面倒見がいいな」
「えぇ、部長ですから」
特に驕る様子もなく、さも当然の事の様に言う。相変わらず真面目で責任感の強い女だ。
鰹出汁が効いた味噌汁をすすり、塩加減が絶妙に丁度いい焼き鮭を箸で口にする。
うん、美味い。流石李玲、毎日食べていられる。
両親が家を空けている間は、ゴミ出しの当番は交代制で決めているが、料理や食事は各自で自由となっている。だが、大抵の場合はこうして李玲にご飯を作ってもらう事が多かった。彼女の予定が許す限り、自分はこの美味しい料理を頂ける。
このままではフェアじゃないので、ゴミ出しだけは自分が全てやろうかと提案したが、「私が好きでやってる事ですから」と笑顔で断られた。
血の繋がりがないとはいえ、勉強も運動もそつなくこなし、しかも自分と違って自己中ではない。むしろめちゃくちゃ優しい。
真面目で厳しい所は無論あるが、そこを含めて自分には勿体無いくらい出来のいい妹に、理雄は感動すら覚えていた。
「やっぱり、お前が作る飯は最高だよ。コレがあれば俺はいつだって無敵だ」
パクパクと幸せそうな顔で食べ続けていると、李玲は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「そ、そうですか……お世辞でも嬉しいです」
「いや、本当だって」
謙遜する李玲に対し、理雄は正直な気持ちをぶつける。
「こういう事言うと、また周りからシスコンみたいに思われるだろうが、この食事にはそれだけの価値がある。マジでこの味が好きなんだ」
嘘偽りない正直な言葉に、李玲はますます羞恥で赤くなる。
「もうッ……いい加減にして下さい。早く食べないと遅刻しますよ?それに……」
一瞬、声のボリュームが下がると、少し悲しげな表情を浮かべる。
「今の兄さんには、莉梨歌さんがいるんですから……そういう事は、私じゃなく彼女に言ってあげて下さい…」
その寂しげな声が耳に届いた瞬間、理雄は己の愚かさを悔やんだ。
「……すまん」
「いいんです。もう終わった事なんですから……あの時、兄さんがちゃんと私達に向き合って、決めた事なんです。だから兄さんが気に病む必要はありません…」
自身の無神経な発言を謝ると、李玲は微笑を浮かべながら此方を気遣ってくる。
だが、自分は知っている。その必死に取り繕った
自分の選択は後悔していない。だが、その結果彼女を傷つけてしまった事実は変わりようがなかった。
「…なぁ、李玲」
「…なんでしょうか?」
「俺は……この先どんな事があろうと、お前の兄貴だ。それだけは変わらない」
「……はい」
会話が終了し、再び食事を再開する
二人以外誰も居ない家の中、不意に訪れた静寂に耐えられず、テーブルの上に置いてあったリモコンを手に取り、理雄から見て右手側の------少し離れた位置にある4Kテレビを点ける。
『---------この様に、密輸された大量の武器は国内の反社会的勢力の手に渡っており、警察は海外の犯罪組織が関係していると------』
朝のニュースを女性アナウンサーが解説していた。どうやら、昨夜未明に海上保安庁が摘発した密輸入業者と、運ばれていた武器を報道しているらしい。
現場の港の映像と共に、捜査員の警官達が漁船を装った密輸船の中から、差し押さえた銃火器や爆発物を次々と運び出す様子が流される。
「なんか……不思議ですね」
しばしそれを黙って見ていた李玲が、ふと呟く。
「何がだ?」
「今の時代、アルギュロスのせいで空路も海路も危険じゃないですか。アルギュロス対策に大金をかけられる国と違って、犯罪組織があんな漁船で海を渡れるものでしょうか?」
確かに、李玲の疑問はもっともである。映像に映る漁船は、サイズこそ立派だが、かなり年季が入っているのか、船体がボロく、デザインは完全に前時代的な木造船である。それこそ幽霊船と言うに相応しい風貌だった。
船底をウロヴォロス合金で覆ってる様には見えないし、アレじゃ速力もたかが知れてる。一体どうやって水中用アルギュロスの脅威を掻い潜ったのだろうか。
「------まぁ、それも調べれば分かるだろ。あの手の連中は犯罪の手段をコロコロ変えるらしいからな」
そう言って話題を完結させる。こういうのは司法の番人たる警察の仕事だ。ましてや自分達はしがない学生の身分。法と倫理を守り、善良かつ平和に日々を過ごすのが務めである。
やがてニュースはスポーツの時間へと変わり、最後に今日の天気予報を報せてから終了となる。
テレビを消すと、朝食を終える。
「「神よ、頂いた生命に感謝を。アーメン」」
略式ながら食後の祈りを捧げる。キリスト教徒とはいえ、ここが日本で、自分達が日本人である以上、家の外での食事は普通に『いただきます』と『ごちそうさま』の風習に従っている。
席を立ち台所に向かうと、二人でパパッと皿洗いを済ませ、登校の準備を始める。
「兄さん、十字架は持ちましたか?」
「大丈夫、ちゃんとあるよ」
自室からイエス像のついた比較的シンプルな見た目の十字架ネックレスを首にかける。かつて死刑の道具だったはずの十字架が、今や愛・赦し・守りなどの象徴になっているとは、正に驚きの逆転現象である。
キリストの処刑後、十字架形が廃止された事により、十字架そのものの意味が変わったらしく、クリスチャン達が己の信仰心を表現する為に身につける様になったらしい。
「「行ってきます」」
習慣になっているのか、誰もいないごく普通の一軒家に挨拶し、二人は教科書類のはいった鞄を手に自宅を後にした。
この時はまだ、思いもしなかった------。
これが自分達にとって、最後の平穏な時間であった事を------。
そして、この日------------。
志熊理雄のセカイが、地獄へと変わった---------。