とらんあんぐる組曲2 ~最後に贈る、鳥の歌~ 作:レトロ騎士
序章 『大空への誓い』
◇
目の前に、青があった。
広大な空。
そこには一片の白すら存在しない、吸い込まれそうになる透き通った薄い青色だけがある。
寝そべって見上げているはずの自分が落ちていくような錯覚に、少しだけ眩暈を覚えるが、それすらも心地よく思えてしまう。
別の世界――。あまりの現実感のなさに、ここは死後の世界なのかと不安を感じ始めたとき、地に接した背中から、鈍く、熱い感覚が押し寄せてきた。
「……痛い」
呟きと共に大きく咳き込んで、そこでやっと、ああ、自分は今この瞬間まで、息をしていなかったのだと理解した。
「かっ……はっ」
痛み以上に、体の内部が「それ」を求めてきた。
吐き出した空気の倍の酸素を求めるように、口を大きく開いて大慌てで息を吸った。
「大丈夫か」
唐突に、男の声。首だけ動かせば、声の方向で、父親が剣を首の後ろに回した構えのまま、笑みを浮かべている。ああ、そうだ。自分は父とここで剣の鍛錬をしている最中だったと、そう思い出せたのは、指先に己の刀のつばが触れたからだった。
父が自分を見据えながら言う。
「どうした、もう終わりか?」
それは、嘲っているのでも、突き放しているのでもない。まだまだこんなもので、息子が根を上げたりはしないと、確信、信頼しているからこその、その言葉だ。
――いい迷惑だ。
父親の自分に対する信頼に、そう愚痴めいたことを考えてしまう。
自分は父を尊敬している。剣の師としてだけでなく、父親としてもだ。
だから、父の為にその期待に答えたいし、自分の為に、父のように強くなりたいとも思う。
でも、体は痛いし疲れるし苦しいし、ここで「もう駄目だ」と言ってしまうのは、とてもとても魅力的な誘惑だった。
多分、そう父に言っても、彼は自分を叱ったりはしないだろう。
少し残念そうに、「そうか」とだけ言って、鍛錬は終わりになるに違いない。
この場の鍛錬だけでなく、剣の道そのものを止めたいと言っても、父はそれを受け入れるのだろう。
そういう男だ。強要はしない。ただ道を作り、示し、導くだけ。
だからこそ、今までどんな苦しくとも、この道を進むことができた。
「どうする?もうギブアップか?」
もう一度、同じ問いかけがされた。
考えるまでもない――はずだった。立ち上がり、無言で剣を構えることが、その答えになるはずだった。
だが、今、自分は、考えるまでもないことを、考えてしまった。今までの苦労と痛み、そしてこれからも生涯続くであろう、更なる鍛錬の道。
それを思い、心が折れそうになる。
このまま、今までの苦労を全て捨てて、逃げ出したい。まだ一桁の年の自分と同年代の少年たちと同じように、おもしろおかしいことを追い求めて遊んでいたい。
そんな弱い心が、このときは何故か収まることなく己を支配していく。
それが、敗北にも等しい言葉となって、口からこぼれそうになった――そのときだった。
ひゅぃー、という甲高い音。
それと同時に、空を一枚の紙に見立て、切り裂いていくように飛ぶ、一羽の鳥の姿が視界に入った。
ひょうろろろろ……と、独特の嘶きをあげ、大鳥は悠然と大空を舞う。
それだけだった。ただそれだけのことで、その姿に心を奪われた。
あれだけ自分をとらえて放さなかった大空が、もうただの青い紙きれのようにしか思えない。それくらい、自分にはその鳥の空を翔る姿が美しく映っていたから。
父の問いかけも、体の痛さも忘れて、その姿をもっと近くで見たいと思った。例え手を伸ばして届かなくとも、少しでも近くへと――
……自分は、何をやっている?
ここでただ寝そべって、自分の弱さを嘆いているだけじゃないか。そんな自分が、お前に憧れるなんて、おこがましいにもほどがある。
ならば。
地に這う自分が、どんなに焦がれてもお前に届かないというのなら、お前が俺に憧れるほど、強くなって見せる。
手探りだけで剣を見つけ、それを握り締めた。
ギシギシと背骨が悲鳴を上げ、疲労が鉛のように手足を束縛するが、歯を食いしばって刀を支えに立ち上がる。
「あ…あああああ!」
立ち上がると同時に空を仰ぎ、腹から自分の中にある音という音を搾り出すように、雄叫びをあげた。空の鳥に、己の決意を届けとばかりに。
そして――
「父さん」
「ん?」
先ほどの大声に驚いたのか、父親の不思議そうに漏らした声が、妙におかしかった。だからというわけではないが、少しだけ笑う。
「父さん、俺は、この道を進むよ」
問いの答えになっていないこの言葉をどう思ったのか分からないが、父は、悪戯が成功した子供のような満足げな顔で、肯いた。
空では、まだあの鳥が、甲高い声を上げているのが聞こえる。
そして、あたりに金属と金属がぶつかり合う音が混ざり始めた。
あの鳥に双翼があるならば、己には双剣がある。
お前が美しく誇り高く空を舞うなら、俺は力強く勇ましく地を駆けよう。
いつか――いつか、きっと。