心が地獄へ向かうたび、私の子宮は悲鳴をあげる。 作:田地町 待乃
そしてこの物語のルールとして、引き続き、公式本編にて描かれたシーンを直接的に描写はしていません(本編を文章化できるほどの筆力・語彙力が自分にはないので)。
その熱帯夜、私は『地味な制服』と『長いスカート』の危険性を知った。
母に騙された、その約一時間後。
外から部屋に戻った私は、部屋着にまとわりついた夜風の匂いと、それから自分の心の揺らめきに、ひとり戸惑っていた。
服が外気をまとっているのは……さっき、数ヶ月ぶりに外へ出たから。
そう、先生を、追いかけて。
母に騙されて先生と対面させられた後、私は怒りと憎しみを彼にぶつけた。
……本当は私みたいなオチコボレのことなんかどうでもよくって、自分の立場を守るために私を再登校させたいんでしょう? って。
そうしたら、先生は机をドン。
あの震えは、今でもこの全身に残りつづけている。
でも、先生はすぐに謝ってきて、お前の言うとおりだって……本心を語ってくれた。
そして、もうお母さんに心配はかけるな……とも。
初めてだった。誰かが自分に対して、本気でぶつかってきてくれたのは。
まず両親は、私を責めたいとき、ネガティブな感情を遠回しに見せてくる。
例えば、私の言動が気に入らなかったりしたら、酔って帰ってきて「お前のために働いてるんだ」と恩を着せてきたり、あるいはあえて食事を不味くしてきたりと、色々あった。
それで、その最たる好例が母の“男の子が欲しい”……。
そしてクラスメイトたちは、私を一個人として見ていないわけだから、本気の付き合いなんて生じようもなかった。
だって彼らにとってクラスメイトとは、交流シミュレーションゲームの使い捨て
それが今、先生は初めて、偽りも取りつくろいもない本当の気持ちを私に投げてくれた。
そのあと私は、思わず先生をフラフラッと追いかけて門の外へ出て、その淋しそうな背中を見送りつづけていた。
部屋に戻ると、私はcheppoさんにも打ち明けた。誰が悪いのか分からなくなってしまったと。
ドアが叩かれる幻聴が完全に聞こえなくなった一方、下のほうからは相変わらず両親の下品なわめきが届いてくる。
唯一の居場所でありながら、居場所としては全然機能していない、この空っぽの家。
行こうか。明日から、学校へ。
……だけど、勇気が出ない。
私はハッと立ち上がると、取っ手がホコリでいっぱいになったタンスから制服を出して、慌てたようにそれを身に着けだす。
引き出しのなかの、加工された木の匂いでいっぱいになった、数ヶ月ぶりの制服。
この夏服に関していえば、実に一年ぶりだった。
まだ学校とか社会とかに対してなんの違和感も抱いていなかった、去年の夏の能天気な私が思い出され、
「はぁ……」
半袖ブラウスに袖を通すのにも、スカートやベストで体を装甲するのにも、それから仕上げに赤いタイを飾るのにも、いちいち、ため息を吐く必要があった。
胸のあたりが少しだけ苦しくなっているけど、大きな姿見に映る“地味なスクールガール”の姿そのものは、数ヶ月前と大差がない。
登校するイメージトレーニングをしよう。
私は、夜の街へフラフラと赴きだした。
……まるで、何かに引きずり込まれるように。
玄関を出て、空の高さに軽い目まいを覚えながらも、門の外へ向かう……
と、そこまでは、さっきも体験したこと。
ところが、熱帯夜の湿ったアスファルトを靴底に感じると、ああ外に出たんだと、思い知らされる。
街灯に群がった虫たちの羽音は、私を熱く応援しているようにも、私に汚い野次を飛ばしているようにも聞こえた。
それにしても、視界の数メートル以内に壁がない感覚は、何か崖の前にでも立ってしまったような空恐ろしさを味わわせてきて……
いつしか私は、久しぶりに着たばかりの制服を汗だらけにしていた。
それでも、先生の通った道をなぞっていけば、不思議と心を落ち着けることができる。
向こうの歩道を眺めてみると、ゆっくり通り過ぎていく新興住宅地の明かり……悪くない。
これが朝だったなら、このまま登校できてしまうかもしれない。とさえ、思った。
ところが、
「先生、ここから、どっちに曲がったのかな……?」
それを思ったとたん、私はその薄暗いT字路にしゃがみ込むことになった。
気持ち悪い。
私は何を突然外に出て得意気になっているんだ?
路地の隙間から遠くに霞んで見えるのは、集合住宅の群れに灯る無数の窓明かり……
ああ、広い。こんな広すぎる世界に、私を受け入れる場所なんてないのに!
「うぅっっ」
生理的な吐き気に口を覆い、すぐそばの電信柱に向かって前かがみになる。
実際に吐き戻すことはなかったのが不幸中の幸いだった。
そんな小さな“幸い”すらなかったら、私はまた深く固く引きこもることになっただろう。
ともかく、このまま落ち着くまでジッとしているしかない。
…………。
しばらくして、そろそろ立ち上がろうか、いや、まだか……と考えていると、
「ねぇ君、どしたの? 気分悪いの?」
いきなり、うらぶれた声が頭上に降ってきた。
見上げると、かすむ視界に小太りな
「大丈夫……です」
やっとの想いで伝えるけれど、それは〈心配しないでね〉じゃなく、〈あっち行け〉の意。
それなのに、おじさんの息はより荒くなってしまう。
「わー綺麗な声。古くさい姿とのギャップもいいねぇ」
何なのこの人は!
さっきまで鉄筋コンクリートの壁に守られきっていた私が、見知らぬ男に声をかけられているなんて!
いやだ!
ああ、いやだいやだいやだ……。
「おじさんのウチまで行こうよ。いい薬、持ってるから。すぐ治るよ」
おじさんの向こうに、ピカピカ光って見えるもの……
あんなのただの自販機なのに、それが今は、よく深夜のテレビに出てくる“いかがわしい宿泊施設”の看板に見えてしまって、それがまた気持ち悪い。
「大丈夫ですから……帰って……下さい……」
「んー? じゃあなんで、制服姿で夜の街をうろついてるのさぁ……イケナイねぇ」
夜の街を制服でうろつくのがイケナイことって……少なくとも私は誰からも何からも教わったことがなかった。
性教育ですら、『子供の作り方』を料理番組みたいに伝授してくるだけで……。
何!?
おじさんは私の長いスカートを手でつまみはじめている。
「最近の女子学生の短いスカート、あれはダメだね。ちっともエロくない」
「何言って……」
なすすべもない私の耳辺りに、おじさんは顔を近づけてきた。
悪夢に出てきた化け物よりもヒドい悪臭!
「何って、おじさん知ってるんだよ。君みたいな
ああ、予定を変更して、こいつを地獄へ流してしまおうか。
いや……。そんな好戦的な心とは裏腹に、どんどん泣きすがるような態度になってゆくしかない自分こそ、地獄へ流すべきか。
「帰って……お願い……」
「ベスト前開きなんだね。事務員みたいな制服……私立なのかな? 育ちのいい女の子、そそるなぁ」
おじさんはとうとう、私のベストの前面から手を
「いやぁあぁっ!」
もう、ダウンしている場合じゃなかった。
私は火事場の底力でおじさんをハネのける。
体育によって私に腕力を与えてくれたこと、そこだけは今、学校に感謝するしかなかった。
それからはもう、足が千切れそうな……いや、足が千切れても構わないという勢いで元来た道を引き返す。
さっきゆったり流れていた街の光は、前から後ろへ夜行列車のように過ぎ去っていった。
やたら神々しいゴールゲートにも見える自宅の玄関を開けると、
「お、久しぶりに外へ出たのかぁ。頑張ったなぁ。父さんも母さんもビックリしたんだぞ」
父は私を軽薄に褒めたたえ、
「ダメでしょう、そんなに汗かいて制服汚しちゃ」
母は冷めた目で私をにらむ。
さっきまで“お楽しみ”だったクセに、今さら何よ!?
愚かな二人に般若の目つきをくれてやると、私は自室へ駆けあがっていった。
ドアを閉めて鍵をかけ、ベッドに身を投げながら私は誓っていた。
明日から、学校へ行く。
家に居つづけても、外へ出かけても、私には地獄しか待っていない。
それなら、たった一人でも理解者がいる場所のほうへ逃げ込もうと。
「先生……」
さっき彼が叩いたテーブルの衝撃が残るこの体を、ロザリオでも握るようにグッと抱きしめる。
そう。私は……数ヶ月間、散々憎んで恨んだ先生のことを、ものの数時間で信仰対象にまで高めてしまっていた。
おじさんが“君”と私を呼んだのに対し、先生は“お前”と呼んでくれる。それもまた、爽やかでいい。
でも……私は気づいていなかった。
さっきのおじさんは、私がこれから体験する本当の“性悪夢”の火付け役にすぎなかったんだってことに。
今回、ヒロインの再登校に至る心情に思いをはせて描いてみました。
アニメですと「いきなり」にも見えた再登校への決意。
でも、一つ一つヒロインの心情を追っていくと、(もちろん筆者による奇怪な追加部分なんかが無かったとしても)不思議なことでも不自然なことでもありませんね。
それに気づけただけでも、これを書いた甲斐がありました。
そして感性の鋭い人は気づくことでしょう。
自宅での「先生対ヒロイン」の構図が、『引きこもり少女は異世界において神である(物理)』最新部分における、母の峠での「スモールマザー対ヒロイン」の構図と似ていることに。
https://syosetu.org/novel/365011/