あなたに幸せでいてほしい 作:綾小路君をTSヒロイン化した作品がみたい
31話
白い光に包まれた空間。無機質な部屋にいた。床も壁も天井も、果てしなく白く、冷たい空気が肌を刺す。そんな静寂の中、厳格な声が響いた。
「神楽坂創、力を持っていながらそれを使わないのは愚か者のすることだ」
僕は静かに頷く。恐れではない。ただ、心の奥で言葉を咀嚼していく。
「はい……でも、この力で何を成すべきか、僕はまだ迷っています」
声は微笑むこともなく、ただ問いかける。
「迷う? なら問おう――おまえは力を得たとして、何を示すつもりだ?」
「力は、ただ持っているだけでは意味をなさない。使うことで世界に影響を与え、己を示すのだ」
僕は静かに応える。
「では、僕は……この力で、誰かを導くことに使いたいと思います。
—―綾小路先生」
声は消え、白い空間には再び静けさが戻る。
そして景色はおぼろげに歪み、消滅した。
目が覚めると、窓の向こうには淡い朝の光が差し込んでいた。
創は布団を軽く整え、眠気を追い払うように伸びをする。
洗面台で顔を洗い、髪を整える。鏡に映った自分の姿を軽く確認する。特別なことは何もない、ただの朝の儀式だ。
朝食を用意しパンを一口、牛乳を少し飲む。食後に、机の上に置かれた小さな薬の瓶を手に取る。毎朝のルーティンとして2粒を流し込む。
寮を出ると、通学路はいつも通りの景色が広がっている。隣を歩くクラスメイトと軽く会釈を交わし、笑顔を交わす。
校門をくぐると、教室へと足を運ぶ。いつも通りの日常が始まった。
チャイムが鳴る少し前。
教室にはいつもより静かな空気が流れていた。
騒がしくはない。けれど、どこか落ち着かない。
今日が中間テストの結果発表日だからだ。
俺は机に肘をつき、窓の外を眺めながら息を吐いた。
――失敗はしていない、はずだ。
自信満々と言えるほどでもないが、やれることはやった。
教室の前方では柴田が「赤点はないよな?」と半ば冗談めかして確認している。
そこでドアが開いた。
「はいはい、みんなお待たせ〜」
明るい声とともに入ってきたのは、担任の星之宮先生だ。
手には結果がまとめられた用紙の束。
教室が自然と静まる。
「今日は中間テストの結果発表ね。安心していいわよ、今回も退学者なんていないから」
ほっとした空気が教室に広がる。
誰かが小さく「よかった……」と漏らした。
星之宮先生は続ける。
「今回のクラスの平均点は…なんと86点。みんなの努力の成果が表れて嬉しいわ。特に体育祭があったりと忙しかったのに、よく頑張ったわ」
教室に小さな拍手が起きる。
平均86点。体育祭の点数のボーナスを考慮しても誇っていい数字だろう。
けれど——星之宮先生はそこで話を終わらせなかった。
「さて、ここからが本題よ」
その一言で、空気の温度がわずかに下がる。
俺も含めクラス全員が無意識に姿勢を正した。
「来週、2学期の期末テストに向けて8科目の小テストを実施します」
「げっ、またテスト!?」
柴田の声に苦笑が漏れる。だが先生は気にせず続けた。
「安心して。内容は中学三年生レベル。成績にも直接は影響しないわ」
一瞬、教室に安堵が広がる。
「ただし。この小テストの結果を基準に、期末テストではクラス内で2人1組のペアを作ってもらうわ」
静寂が広がる。テストで“ペア”という単語が出るなど、想定していないため困惑する。
「ペア……?」
一之瀬も疑問に思ったのか小さく繰り返す。
「ええ。そしてそのペアで一蓮托生。期末テストは8科目、それぞれ100点満点」
黒板に数字が並んでいく。
「赤点は2種類。まず1つ目。各科目60点未満があれば即退学」
ざわめき。
「ただし、60点は“ペアの合計”よ。片方が0点でも、もう片方が60点取ればセーフ」
安堵と不安が同時に広がる。
「2つ目。総合点ボーダーを下回った場合も退学。例年700点前後ね」
教室の空気が、じわじわと重くなる。だが星之宮先生はさらに続ける。
「それからもう一つ。期末テストの問題は、あなたたち自身に作ってもらいます」
今度は明確な動揺。
「作るって……テストの全てをですか?」
俺が口にすると、先生は頷いた。
星之宮先生は、淡々と以下の情報を提示した。
・各クラスは8科目×50問、計400問を作成
・その問題は他クラスに出題され、攻撃と防衛を行う
・勝利したクラスは+100cp,敗北したクラスは-100cpを得る
・カンニングしたものは失格、ペア共々退学
・例年では、Dクラスが1,2組ほど退学する試験
「つまり——クラス間の直接対決の特別試験よ」
放課後。
教室に残ったBクラスの空気は、普段と違い緊張感が生まれていた。
一之瀬が静かに口を開いた。
「まず、対戦相手を決めないといけないね」
視線が自然と集まる。神崎が腕を組み、淡々と分析を始める。
「順当に考えれば、下位クラスを選ぶのが安全だ。勝率は高くリスクも低い」
「でも、それじゃ差は縮まらないよね?」
一之瀬の声は穏やかだが、揺れていない。
「Aクラスに勝てれば、一気に詰められる」
教室に小さなざわめきが走る。
Aクラス。この学年の頂点。
勝てば+100。
負ければ-100。
現状、Aクラスが874cpに対しBクラスが723cpだったはずだ。勝てればクラスの昇格もできる。
神崎が静かに続ける。
「成功すれば大きい。だが敗北すれば逆に突き放される」
リスクとリターン。天秤は拮抗している。
「……みんなはどう思う?」
教室に沈黙が落ちる。誰も軽々しく答えを出せない。
柴田が頭を掻いた。
「正直……怖いよな。負けたらポイント差が開くんだろ?」
素直な本音だ。
「でも、いつか勝たないといけないんでしょ?」
網倉が問いかける。その一言が、空気を変える。
“いつか”。この学校の特権を得る以上、戦うことは避けられない。
神崎が視線を巡らせる。
「勝算は決して0ではないだろう。Aは学力のレベルは高いが、作成した問題の質次第では揺さぶれるはずだ」
一之瀬がゆっくりと頷く。
「私は……挑戦したい。みんなで、上を目指したい」
決して強い口調ではない。だが、その言葉にはBクラス全員を包む力があった。
しばらくの沈黙のあと、ぽつりと声が上がる。
「……俺もAでいいと思う」
「私も」
「やってやろうぜ」
小さな同意が、次第に広がっていく。
流れは決まった。一之瀬が微笑む。
「じゃあみんな、Aクラスに勝とう!」
拍手が起こる。
その後、問題作成の分担について、小テストも特別試験のペア決めに関わるため対策について大まかな方針を決め、今日の話し合いはひとまず終わった。
Aクラスへの挑戦は決まった。あとは、それぞれがやるべきことをやるだけだ。
こうして、Bクラスはペーパーシャッフルへと臨むことになった。
放課後の教室には、まだ数人が残っていた。
俺は神崎と向かい合い、参考書を広げていた。
「ここの式変形、どうしてこうなるんだ……」
「符号を見ろ。移項するとき符号が反転する。もう一度やってみろ」
神崎の説明は簡潔だが、無駄がない。俺がノートに式を書き直すと、今度はすんなりと答えが出た。
「……あ、なるほど」
「基礎の抜けだ。焦らず一つずつ潰せばいい」
淡々とした口調だが、嫌な感じはしない。神崎は教えるのが上手いというより、相手のつまずきを正確に見抜くのが上手い。
「助かる。神崎のおかげでテストも上手くいけるかも」
「別に俺は大したことはしていない。それは神楽坂の頑張り次第だ」
勉強を進めていると、教室のドアが開く音がした。
「あ、よかった。まだいた」
顔を上げると、一之瀬が小走りで近づいてくるところだった。いつもの明るい表情だが、どこかわずかに緊張の色が混じっている。
「一之瀬? どうしたの」
「二人にちょっと話があって」
一之瀬はスマートフォンを取り出し、画面を向けてくる。
俺は神崎と並んでそれを覗き込んだ。
《突然のご連絡、失礼します。一之瀬帆波さん。
近々、少しお時間をいただけませんか。
ペーパーシャッフルに向けて、直接お話したいことがあります。
よろしければ、明日の放課後、カフェテリアのラウンジはいかがでしょう。
こちらからは私を含め3名でお伺いします。
あなたもご自由に同席の方をお連れください》
坂柳有栖。
その名前を見た瞬間、なぜかわずかな悪寒が背筋を走った。
……なんだろう、この感じ。
「坂柳さんってAクラスの人だよね?」
「うん。明日の放課後、カフェラウンジで話したいって。こっちも二人まで連れていっていいみたい」
神崎が腕を組む。
「向こうの意図は」
「正直よくわからないかな。ペーパーシャッフルに向けての話、とは書いてあるけど」
俺は再度メッセージを読んだ。丁寧な文面だ。けれどその丁寧さが、どこか謎めいて見える。
「……それで、俺たちに来てほしいと?」
「うん」一之瀬が真っ直ぐ俺を見る。「神崎くんと、神楽坂くんに」
神崎は小さく息を吐いた。
「断る理由は...ないと思う。向こうが何を探っているか、どこを指名するか直接確認できる機会でもある」
俺はスマートフォンを一之瀬に返しながら、先ほどの悪寒をもう一度思い返す。
坂柳有栖。そういえば体育祭の終わりに会ったことがあるような。……あれ、俺はあのとき何を話したんだっけ?
思い出そうとすると、頭の奥がわずかに重くなり始めてきた...
「神楽坂くんはダメかな?」
一之瀬の声に思考を振り払う。 この特別試験、俺は大きな貢献ができていないし一之瀬のためになるなら断る理由はない。
「わかった。行くよ」
一之瀬がほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ明日、放課後すぐに集合ね」
そう言って一之瀬は教室を出ていく。
神崎が参考書に視線を戻しながら、ぽつりと言った。
「坂柳有栖は油断できない相手だ」
「知ってるのか?」
「…少し顔見知りでな。彼女は頭が切れる。それ以上に、人を見る目が鋭い」
「そうなのか。神崎がそこまで言うなら油断はできないな」
翌日の放課後。
カフェテリアのラウンジは、普段より静かだった。
放課後の人影はまばらで、窓から差し込む西日が床に長く伸びている。
俺たちが席に着いて数分後、入口に人影が現れた。
杖をついた坂柳さん。その隣には体育祭の日に直接呼び出した、確か神室さんと、金髪の髪を束ねた、どこか飄々とした彼は確か橋本だったか。柴田たちと交流しているのを見かけたことがある。
坂柳さんはゆっくりと近づきながら、柔らかく微笑んだ。
「お待たせしてしまいましたね。一之瀬帆波さん」
「ううん、私たちも今来たところだから」
一之瀬が笑顔で返す。その声は自然だが、わずかに張り詰めている。
坂柳は席につきながら、テーブルを囲む全員を静かに見渡した。
そして——その視線が、俺のところで一瞬だけ止まった気がした。
「改めまして。1年Aクラス代表、坂柳有栖といいます」
代表、という言葉が少し引っかかった。
体育祭までAクラスの指揮をとっていたのは葛城だったはずだ。それがいつの間に——
隣で神崎がわずかに眉を動かすのが見えた。同じことを思ったのかもしれない。
坂柳はそんな俺たちの反応を見て、静かに微笑んだ。
「気になりますか。葛城くんのことが」
こちらが何も言っていないのに、先に口を開いた。考えが口に出ていたのか、と自分を疑うが出ていないはずだ。
一之瀬が正直に答える。「体育祭まではAクラスの中心にいた印象があったから」
「ふふ。よく見ていらっしゃいますね」
坂柳は杖を軽く突きながら、続ける。
「葛城くんは優秀な方です。それは変わりません。ただ——クラスの方針として、私が前に立つことになりました。それだけのことですよ」
あくまで穏やかに、自然に。
けれどその言葉の裏に、それ以上を語らない明確な意志があった。
神崎が小さく息を吐く。俺も同じ気持ちだった。
——この人は、こちらの観察に気づいた上で、最小限の情報だけを的確に返してくる。
油断できない人だと、このやりとりで感じ取れた。
「早速ですが、今日お声がけしたのはペーパーシャッフルに向けてのことです」
坂柳は静かにテーブルを見渡しながら続ける。
「孫子はこう言っています。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』と」
穏やかな声だ。けれど、その言葉には確かな重みがあった。
「私はBクラスのことをもっとよく知りたいと思っています。そして、一之瀬さんにも私たちのことを知っていただきたい」
坂柳は微笑む。
「ですから今日は挨拶と、宣戦布告を兼ねてお伺いしました。私たちAクラスはBクラスを対戦相手に指名します。」
一瞬、テーブルに沈黙が落ちた。
先手を取られた。そう感じたのは俺だけじゃないはずだ。
Bクラスがどこを指名するか探りに来たはずが、坂柳は自分たちから指名してきた。主導権を渡さないまま、宣戦布告まで済ませてしまった。
一之瀬が、ゆっくりと口を開く。
「…それは、あくまで私たちがAクラスを指名したら成立する話だよね。私たちがC,Dクラスを指名するとは思わなかったの?」
「ええ、私の予想ではこの状況でBクラスはAクラスに挑戦すると思っていましたから」
「どうして?」
「一之瀬さんはこの機を逃す方ではないとわかっていますから」
「でも私がそうでもクラスの総意は違うんじゃない?」
「ご冗談を。すでに、一之瀬さんはクラスをまとめてAクラスに向けて対策を練っているのでしょう」
一之瀬は少し間を置いた。それから、静かに微笑んだ。
「……さすがだね、坂柳さん。改めて、私たちBクラスはAクラスを指名します。全力で勝ちにいかせてもらうよ」
「あら。それは楽しみですね。私も本気を出さないといけません」
空気が緊迫し始めていたが、ふっと坂柳は微笑み空気を変えた。
「せっかくですから、もう少しお時間をいただけますか。お互いのことを知る機会というのは、そう多くありませんから」
「もちろん」一之瀬が頷く。
テーブルの空気が、わずかに和らいだ。一之瀬が店員を呼びそれぞれ注文を済ませた。
受け取った紅茶を受け取った後、坂柳が提案する。
「せっかくですから、改めて自己紹介をしませんか。名前だけ知っていても、人となりはわかりませんから」
「いいね」一之瀬が頷いた。
「では私から」坂柳はカップに手を添えながら続ける。
「坂柳有栖です。読書とチェスが好きで、最近チェス盤を買いました。一局相手をしてくれる方を探しています」
「一之瀬帆波です。クラスは違うし戦うこともあるけど、何か困ったことがあったら気軽に相談してほしいな。これからよろしくね」
「橋本正義だ。Bクラスは柴田とかと話す機会はあったが、3人はあまりなかったな。改めてよろしく頼むよ」橋本が軽い口調で言う。
「神室真澄」短く名乗り少し困惑するがこれで終わりのようだ。
神崎が静かに続ける。
「神崎隆二だ。よろしく頼む」
そして全員の視線が俺に向いた。
「神楽坂創です。俺も一之瀬ほど頼りになるわけじゃないけど、困っていたら力になるよ。よろしくね」
場がわずかに和らぐ。飲み物を一口含む者、軽く頷く者。宣戦布告の緊張感が少しずつほぐれていった。
一之瀬が口を開く。
「坂柳さん、チェスの相手を探してるって言ってたけど、Aクラスには相手がいないの?」
「いないわけではありませんが」坂柳は微笑む。
「できれば強い相手と指したいのです。クラスの枠は関係なく」
「…それは難しい注文そうだね」一之瀬が苦笑する。
橋本が肩をすくめた。「俺じゃ姫さんの相手は務まらないしな」
坂柳がふと創に目を向ける。
「神楽坂くんは先ほど、困っていたら力になると仰っていましたね」
「……え? うん、そうだけど」
「では、一局お相手いただけますか。チェスの相手に困っておりまして」
軽い口調だった。けれどその目は、どこか真剣な色を帯びていた。
…なぜ、俺なんだろうか? こういうのは一之瀬か神崎のほうが期待できると思うのだが…
「えっと、坂柳さん。申し訳ないけど、それは難しいかな… 俺、チェスは良くわからなくて、駒の動かし方も怪しいよ」
「本当にご存じないのですか」坂柳が首を傾ける。
「それとも…… 受けたくないからはぐらかしているのでしょうか」
「え? そんなことはないよ。俺では実力不足だから坂柳さんに申し訳ないと思って断ったんだ」
「そうですか」坂柳は微笑んだまま続ける。
「では素直に申し上げますが、体育祭のリレーを拝見して少し驚きました。この学校にこれほどの実力者がいたのかと」
「…えっと、坂柳さん?」
「姫さん?」
「…?」
坂柳さんの発言に他の4人が少し困惑していく。
「ええ。正直に言えば、神楽坂くんのことはこれまで目に入っていなかったのです。失礼ながら」
「でもあの走りは違った。まるで別人のようでした」坂柳は静かに続ける。
「それまでずっと手を抜いていたのではないか、と思うくらいに」
…なんだ? 今、俺は問い詰められているのか? 手を抜いているなんて、それこそあり得ない。あのときはただ、がむしゃらに自分の精一杯を尽くしただけにすぎない。
どう言葉を返そうか考えていると神崎が口を開いた。
「坂柳、少し言い過ぎじゃないか」
神崎の声は静かだが、はっきりとした牽制があった。
「神楽坂は体育祭の準備期間、練習に真剣に取り組んでいた。あの走りはその成果が出ただけだ」
少し間を置いて、続ける。
「第一、神楽坂に手を抜くなんて器用なことはできない。こいつはそういうやつじゃない」
俺は少し驚いて神崎を見た。神崎は俺を見ていなかった。ただ真っ直ぐ坂柳を見据えていた。
坂柳はしばらく神崎を見てから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうですか。失礼しました、神楽坂くん」
「いや、気にしてないよ」
坂柳は視線を神崎に戻し、どこか懐かしむような表情を浮かべた。
「それにしても、神崎くん」
「なんだ」
「気に入っているのですね、神楽坂くんのことが」
神崎は答えなかった。
「昔のあなたは……どこか人付き合いに一線を引いていた印象がありましたから。少し意外でした」
一之瀬が興味深そうに口を開いた。
「……2人って、知り合いなの?」
坂柳と神崎に視線が集まる。
「ええ」坂柳が微笑む。「お久しぶりですね、と言おうとしていたのですが、タイミングを逃してしまって」
橋本が少し身を乗り出す。「へえ、どういう関係なんです?」
「親同士がつながりがあってそれで顔見知りなだけだ」神崎が静かに答えた。
「ええ、そうですね。神崎君のお父様がエンジニアリング会社の社長を務めている関係で、確かパーティーに参加させてもらったのがきっかけでしたか」
一之瀬が少し目を丸くした。
「へぇ、そうなんだ! 神崎くん、お坊ちゃんだったんだね」
俺も少し驚いたが、前々から育ちのよさは感じていたからどこか納得もしていた。
神崎は特に表情を変えることなく、カップに手を伸ばしている。
「一之瀬、それはやめてくれ。俺は確かに父を尊敬しているが、だからといって俺が偉いわけではない。普段通り接してくれ」
「にゃはは、ごめんね神崎くん。でも、そうなると坂柳さんもすごいお嬢様だったりするのかな?」
「ふふ、そうですね」坂柳は静かに続ける。
「ご存知でしたか。この学園の理事を務めているのが私のお父様なんです」
テーブルに一瞬、静寂が落ちた。
「…え」一之瀬が思わず声を漏らす。
「マジか」橋本が頭をかきながら苦笑した。
「神崎は会社の社長息子で、姫さんはこの学校の理事長の娘か……」
橋本は少しおどけた様子で肩をすくめる。
「上の世界のことはよくわからんけど、なんかすごいな。てか、みんな実は殿上人で俺だけ庶民なのか……?」
「ええ!?違うよ」一之瀬が苦笑しながら即座に否定する。
「私も普通だから」端的に神室が否定する。
「俺も普通だよ」俺も続けた。
そして坂柳さんが俺に目を向ける。「ふむ、でも神楽坂くん……」
「ん?」
「先ほどから姿勢やカップの持ち方が様になっていますね」坂柳は静かに続ける。
「所作が自然で、育ちの良さを感じます。本当に普通ですか?」
思わず自分の手元を見た。特に意識していなかった。
「……親が確か執事をしていてね。出会ったときからそういう作法を教えてもらったから、自然と身についたんだと思う」
「執事ですか」坂柳が静かに繰り返す。
「なるほど。それは確かに、所作が洗練されるはずですね」
「神楽坂、それ普通とは言えない環境じゃないか」橋本が笑う。
「いや、そんなことはないと思うけど……」
俺が苦笑しながら答えると、坂柳はそれ以上追及することなく、静かに微笑んだ。
その後の会話は、一之瀬と橋本が中心になって自然と弾んでいった。一之瀬の人懐っこさと橋本の軽妙なやり取りが場の空気を和らげ、対抗クラスという緊張感をどこかに忘れてしまいそうなくらい、穏やかな時間が流れた。神崎と神室は口数こそ少なかったが、それぞれ静かに会話の流れに乗っていた。坂柳も普段は見せないような柔らかい表情で、時折微笑みを漏らしていた。
三十分ほどが経った頃、飲み物もなくなり坂柳が静かに立ち上がった。
「ではそろそろ失礼しますね」
「うん。今日はありがとう、坂柳さん」
坂柳は一之瀬に頷いてから、テーブル全員を見渡した。
「こちらこそ今日は楽しかったです。お付き合いいただきありがとうございました」
その言葉は、社交辞令には聞こえなかった。
「またこうしてお会いしても?」
「もちろんだよ」一之瀬が穏やかに微笑む。
「では、御機嫌よう皆さま」坂柳は微笑んだまま踵を返す。
杖の音が遠ざかっていく。神室と橋本がそれに続いた。
三人の姿が見えなくなってから、橋本が振り返り際に小さく手を振った。
ラウンジに静けさが戻る。
「……濃い時間だったね」一之瀬が小さく笑った。
「ああ、結局そう深い意味はなかったか」神崎が返す。
俺は空になったカップを見つめながら、先ほどの時間を思い返していた。
宣戦布告、探り合い、そして思いがけない会話。特に坂柳有栖という人間は、対峙するほどに掴みどころがなかった。鋭くて、穏やかで、どこか寂しそうで。―――寂しそう?
なぜ、こんな感想が出るのだろう。彼女はあの2人だけでなく、クラス内で慕われているだろうに。
答えが出ないまま、考えが霧散する。
「神楽坂、行くぞ」
神崎の声に顔を上げる。いつの間にか一之瀬も立ち上がって、鞄を肩にかけていた。
「あ、うん」
俺も席を立つ。
窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。橙色の光がラウンジの床に長く伸びている。
三人並んでカフェテリアを後にした。