あの職業相談所にソフィアを連行して以降、彼女の就職活動は遅々として進まなかった。
手始めに履歴書の作成を命じたのだが、3カ月経った現在でも終わっていないようである。まず、用紙の購入に天候や体調を言い訳にして1週間かけた。やっとこさ買ってきたと思ったら、一緒に新作のゲームソフトも手に入れていたらしく、夜中に隠れてずっと遊んでいた。それが発覚して取り上げられた後は、名前を書くのに1日、生年月日を書くのに1日、性別に丸をつけるのに1日、といった具合で一項目埋めるのに1日ずつかかった。ニートは1日1ターンしか行動できないのだろうか。その間、さぼって何も書かない日が当然あるので、実際には目を覆いたくなるような膨大な時間が浪費されたことになる。
流石に本人もこのままではやばいということは理解しているらしく、段々と思い詰めた表情をする頻度が上がってきている。
本人にとって、無職であるという現実はかなりのストレスになっているらしい。夜中に急に起き出して、取り乱すこともあった。「ボクはロンボーン大卒なんだぞ! それがこんな、こんなっ……!」こういうときは落ち着くまで背中をさすってやる必要があった。そのせいで俺も最近はあまり眠れていない。
ある日、家に帰ってくると真っ暗だったので明かりをつけると、部屋の角で体育座りをして溶けかけた氷を凝視しているソフィアが淀んだ目をこちらに向けてきた。軽くホラーである。
「お、おい。大丈夫か?」
「ウィル、ボクの人生ってなんなんだろうね」
こんなに精神的に追い詰められているならさっさと履歴書を書き上げろといいたいところだが、あんなに落ち込んでいる姿を目撃した手前、俺は口にすることができなかった。
俺の本職は庭師であって、カウンセラーではない。草花の扱い方は知っているけれど、病んでしまったメンタルの向き合い方に関してはさっぱりだ。だからといってこんな状態のソフィアを見過ごすわけにはいかなかった。
数日間悩んだ末にたどり着いた結論は、彼女の好物であるグラタンを作ることだった。
どんなに精神的に参っていても、人間、腹は減るものだ。温かくて好きなものでも食べれば、多少元気を取り戻してくれるだろう。そういったことを意図して振る舞ったのだが、グラタンを口にした彼女の反応は想像の域をはるかに超えていた。
「どうだ? うまいか?」
テーブルから身を乗り出して訊いてみると、スプーンを皿に置いたソフィアはいきなり静かに泣き出した。虚ろな目から大粒の涙が溢れだし、青白い頬を伝ってグラタンにはらはらと落ちた。
唐突の出来事に俺は呆気に取られていた。ソフィアは頬を拭った手が濡れていることを見てとると、半笑いでしゃくりあげた。
「あれ、どうしてボク泣いて…………へ、へへへ。ウィルぅ。ひぐっ。おいしいよ。とってもおいしい。ひっく。えへへ」
その乾いた笑いを聞いて、俺はようやく理解せざるをえなかった。プライドと現実に板挟みにされて、彼女の心はもう限界だった。
ソフィアは泣き笑いをしたままグラタンを完食すると、疲れたのか眠ってしまった。彼女を抱きかかえて布団に寝かせた俺は、ひそかに決意した。
もうこの際こいつはニートのままでも仕方がない。俺が2倍稼げば、それで終わりだ。
翌日から、辛く充実した日々が始まった。朝は日が昇る前に起き、二人分の朝ご飯と弁当を作る。次に身支度をして、契約したお客さんの庭の手入れに向かう。無駄な枝葉の剪定や草刈りが終わる頃には昼下がりになっているので、新たな顧客を獲得するために営業をかける。たいてい反応は芳しくないが、めげずに営業で得た情報を丹念にメモしていく。空が茜色に染まったら図書館で必要な本を借り、その足で買い物に行く。家に帰るとソフィアが元気にゲームしているか部屋の隅で絶望しているかのどちらかなので、前者だったら今日も健やかに遊べたことを褒め、後者だったらそばにいて慰める。晩飯を食ったら借りてきた本を広げ、日付が変わる頃にまだ起きている同居人を尻目に就寝する。
この生活で1番きつい時間帯は、意外と夜の勉強時間だ。俺はソフィアのように長時間黙々と勉強することに慣れていない。加えて、昼間に肉体労働で東奔西走した後だ。難解な言葉ならまだしも、歴史や魔法の知識が前提として必要な書物に出くわした日には、その辺にほっぽり投げてしまいたくなる。
モンスターを狩るゲームをしているソフィアの隣で、辞書を座右に今日も今日とて本を読む。長期間引きこもっていたために肩甲骨のあたりまで伸びた白い髪からは、シャンプーの甘い匂いがしてくる。今更風呂キャンセルしたとて俺は何とも思わないが、驚いたことに彼女はメンタルが崩壊している日ですら入浴を欠かさなかった。
何をやっているのか少し気になったので画面を覗くと、マルチプレイをしていた。チャットで並ぶ『はちみつください』の文字。
「これで良しと」
「何が良しだよ。ゲームでも集るんじゃない」
「ボクのフレンドの『リズミカルゴリラ』さんには良いんだよ。この人強くて優しいから」
「すげえ名前だなおい」
読書を続けていると、かなりディープな歴史の話にぶち当たった。まったく書かれている内容が頭に入ってこない。諦めてソフィアの方を見やると、リズミカルゴリラが龍と獣を相手に大立ち回りを繰り広げていた。なるほど、彼女のいう通りかなりの猛者らしい。
しかし、いくら個の実力が優れていても味方が弱ければ意味がない。へたっぴなソフィアが足を引っ張りまくり、最後は奇妙な絶叫を上げた彼女が倒され、クエストは失敗してしまった。現実でも後ろに倒れ込んでいたソフィアが、不服そうな視線をこちらに寄越した。
「なんで不満そうなんだよ。負けたの完全にお前のせいだったぞ」
「そんなことはわかってるさ。それよりウィルは本を読まなくても良いのかい?」
「実はここに書かれてる放蕩王ジョセフが何をしたのかわからなくてな……」
「どれどれ?」
本を手に取って該当の数ページを斜め読みしたソフィアは、歴史にまったく無知な俺でもわかるように説明をしてのけた。腐ってもこの国最難関の試験を突破しただけはある。文字で追っているだけでは無味乾燥だった遠い過去の王様が、ソフィアの語りによって息を吹き返したようだった。
「お前って説明上手いな。めちゃくちゃわかりやすかった」
「ふふん、キミは幸運だよウィル。高い月謝を払わないと普通はロンボーン大卒が付きっきりで教ることなんてないんだからね」
「ああ。割とまじで見直したぞ。ただの無駄飯食らいじゃなかったんだな」
「だだだだからボクは伏竜鳳雛だといっているだろう。もっと優しく接してくれなきゃ将来出世したときにブツブツ……」
それからというもの、本を読んでいてどうしてもわからないことがあったら俺はソフィアに訊くことにした。毎月生活費という高い月謝を支払っているのだからこれくらいは許されるだろう。それに、ただ彼女を遊ばせておくよりはずっとマシである。
ソフィアもソフィアで、俺を教育するということにやりがいを見出したのか、思いの外やる気があった。予習などの事前準備をしている素振りはなかったが、質問されてすぐには答えを出せない問題に限って、昼間に調べて夕方には教えてくれた。メンタルも安定してきたので、この調子なら社会復帰を見込めるかもしれない。
このような生活は着実に力になっているようだった。最近は庭の出来映えについてお褒めの言葉をいただくことが多くなってきた。この街に来て以来お得意先の1つであるロージンズ家の庭を整えたときも、一人娘のリズが冷たい水を手渡しながら伝えてくれた。
「お父さんがいってましたよ。前から腕は立っていたけれど、近頃はますます技術に磨きがかかってきたって」
この家の主であるロージンズ氏は一代で莫大な富を築いた大商人で、何事に関しても卓越した審美眼を持っているともっぱらの評判だ。そんな彼に実力を認められつつあるということを知らされ、天にも昇る心地だった。
リズは年齢が近いこともあって俺とはよく世間話をする仲だ。庭仕事を終えると、概して冷たい飲み物を持ってきてくれ、快活なトークで疲れを癒やしてくれる。藍色の髪のかわいらしいという言葉がぴったりな女性だ。類い希な商才の持ち主で、ロージンズ氏からすでに商売の一部を任されているという。以前、ワインを贈ってくれたのも彼女である。
そんなどこかのニートとは真逆の将来有望な才媛は、俺の脇腹を肘でつついていたずらっぽく訊いてきた。
「ちょっと、教えてくださいよ。どうやってこんなに上達したんですか?」
「前から俺んちに居候がいるのは知ってるだろ? あいつから造園の本でわかんないところ教えて貰うようになったんだよ。そのお陰かも」
「へえー。確かロンボーン大卒でしたっけ? やっぱり賢いんですね」
「そうそう。ちゃんと実力はあるんだけど、本人のやる気がなあ。あとこれがその本ね」
俺が話題の本を差し出すと、リズはベンチに座って興味深そうに読み始めた。隣に腰を下ろして専門用語などの質問に答えている折に、背後の生け垣から物の落ちる音が聞こえた。
思わず振り返った俺の視界に映ったのは、一目散に駆けていく黒ジャージの後ろ姿だった。運動不足なのが一目でわかる汚いフォームに、くすんだ長い白髪。どこからどうみてもうちのニートだった。
「どうかしましたか?」
顔を上げたリズが怪訝な表情を浮かべた。どうやら、ソフィアが消えた方向をずっと見ていたらしい。俺は立ち上がって、置き去りにされた白いバッグを拾った。
「いや、さっきそこにソフィアのやつがいた気がして」
「居候の方でしょうか? ……ちょっと待ってください。その方女性だったのですか!?」
「ん? そうだけど?」
「ええーっ!? 同棲じゃないですか!?」
「いや、あいつとはそんなんじゃねえよ」
俺があり得ない推測をきっぱりと否定すると、リズは頭上に大量の疑問符を浮かべた。男女が1つ屋根の下で1年近く暮らして何もなかったということが信じられないらしい。かつてないほどの質問攻めを適当に躱しながら、拾ったバッグの中身を検める。真新しい作庭の本とレシートが姿を現した。
どうやら昨日俺が彼女に質問をした箇所の専門書のようだ。自発的に勉強の道具を揃えてくれるのは大変ありがたいのだが、できれば図書館で借りるなどして節約して欲しい。このような専門書は一般の書籍と比較して非常に値が張るのだ。
そんな小市民的な懸念が思い浮かんでしまう自分に嫌気がさす。そもそも、俺にもっと甲斐性があればソフィアはストレスを感じずにのびのびと就活できたかもしれないのだ。ますます自堕落になる可能性もあるが。
営業のアポを取っていた時間になったので、まだ質問したがっているリズに逃げるように別れを告げて先方の家に足を運ぶ。今日は2件も新しく契約してくれる家が増えた。遅まきながらやっと自分にツキが巡ってきたことを実感する。今晩はソフィアに良い報告ができそうだ。
上機嫌で玄関の扉を開ける。真っ暗な部屋に帰宅を告げる声をかけながらランプを点灯する。しかし、そこに彼女の姿はなかった。嫌な予感がする。
晩飯の準備をしながら彼女の帰りを待つが、俺は胸中の不安を拭えずにいた。まずもって、筋金入りの出不精であるソフィアが外出していること自体が珍しいのだ。何かトラブルがあったと考える方が自然ではないか。
その可能性に思い至ると、いてもたってもいられなくなった。出来上がった料理を冷蔵庫に入れ、俺はコートを羽織ると靴をつっかけた。