1話 始まりの合図
少女、リコは自室の窓から月を見ていた。
その日は満月で、窓からは大きな月がいつもより綺麗に見えていた。寝るところだったが、綺麗だったのでつい魅入ってしまっていたのだ。
学園の入学式までの日々は遅く起きても構わないので、少し夜更かしする程度であれば問題なかった。
「はあ、大丈夫かなぁ」
ふと入学の事を思い浮かべると、不安になりため息を吐いた。自分を変えたくて違う地方の学園に入学を決めたが、いざその日が近づいてくると本当にこれでよかったのかと考えてしまう。
「ポケモン……」
入学生には相棒となるポケモンを渡されるらしい。それについてはワクワクするが、誰も知り合いがいない違う地方で生活していけるのだろうか。
不安が増してくると、ふと耳に何か音が入ってくる。ポケモンの鳴き声だろうか。バサバサと翼を打つ音が聞こえた。何だろうと音のする方を見ると、綺麗な月がまた視界に入った。
「気のせい?」
そうでなくとも空を飛ぶポケモンは沢山いるし、トレーナーがポケモンに乗り飛んでいる姿もたまに見るから、それかもしれない。
思考をやめて月を見ていると、何か思いついた様にリコは机の引き出しから細長いケースを取り出し中身を取り出した。
手に取ったのは翡翠色のペンダント。リコが祖母から譲り受けたもので、お守りのようなものらしい。
ペンダントを窓に近づけると、月の光が当たり翡翠をキラキラと輝かせる。思ったとおり綺麗で素敵だった。
ペンダントが大丈夫だよ、と言ってくれてる様だった。
我ながらメルヘンチックだなぁ――。
それでも先程より不安が少し紛れた。
思わず月を手を伸ばす。今日は月が大きく見えるから、届きそうな気分だった。
*
リコがニャオハと出会った日。それは彼と出会った日でもあった。
カントー地方にあるセキエイ学園へ入学してはや数日が経った日のこと。その日をリコは入学前からずっと心待ちにしていた。おそらくリコが一番楽しみにしていた日だ。
新入生で、まだポケモンを持っていない生徒は学園からパートナーとなるポケモンが渡されることになっている。
今日がまさにその日だった。オリエンテーションが始まり、スマホロトムの使い方やポケモン図鑑の説明が行われていた。これが終わればいよいよポケモンとの対面となる。
教室では数十人の新入生が、リコと同じように教師の説明を真面目に聞きながらも、そわそわとした様子で席に座っている。
その様子を察していた教師は待たせたね、とでも言うように笑顔で言った。
「それでは、これから皆に相棒となるポケモンを渡しますね」
その言葉にドッと心臓が鳴って、顔が熱くなる。
な、なんだか緊張してきた――。
そうして呼ばれた順に足早に教師からモンスターボールを受け取る。貰った生徒はすぐにボールからポケモンを出し、喜びの声を上げていた。
リコは羨望の眼差しで見ていた。一人ひとり順番にパートナーのポケモンとの出会いを果たし、笑いあう者、思わずポケモンを抱きしめる者、様々だった。
私の相棒ポケモン……ど、どんな子だろう――。
「次、リコさん」
「は、はい!」
普段あまり大きな声を出さないリコだが、思わず大きな声が出た。落ち着くようにゆっくりと歩き、ボールの前に立つ。
出会い……やっぱり最初の印象が大切だよね――。
手を伸ばし、ボールを掴む。大切にしっかりと持ち、見つめた。
私の相棒……。
自分の席に戻り、ボールを開く。
ボールの開く音が、リコには始まりの合図の様に聞こえた。
机の上には鮮やかな緑色の綺麗な毛並みに猫の身体をしたポケモンが出てきた。
にゃあ?
「ニャオハ……」
始まりの合図の様に聞こえたのは勘違いかもしれない。
まさか、いきなり相棒となるはずのポケモンに逃げ出されてしまうなんて! リコは走りながら思った。
なんでなんでなんで! 違う違う……こんな展開想定外!
出会った次の瞬間に”ひっかく”を食らうとは思わなかった。
あまりの可愛さに、いきなり触ろうとしたのがまずかったのだろうか? いや、そんなことより、まさか逃げ出してしまうなんて!
クラスの皆はこんなことになっていなかったのに、どうしてこうなってしまうのか。
リコは焦る気持ちを精一杯抑えながらパートナーであるはずのニャオハを追った。
あちこちを走り回り、時にカビゴンの腹にダイブという名の落下をしたりしながら、気づけば空がオレンジ色になるまでニャオハとの追いかけっこに興じた。
「はあはあ……もう、限界」
もう、なんで? 素敵な相棒を見つけてくれたはずじゃ――。
既に予想していた出会いとは大きく外れていて、心は戸惑いでいっぱいになっていた。
少しだけ休憩し息を整えてから、またニャオハの後を追う。
疲労をしている身体をどうにか動かし、追いかけた先に開けた場所が視界に入ってくる。
湖だ。夕日に照らされる湖が広がり、心地よい風が吹いてくる。こんな場所があったんだ。
綺麗な景色につい感動したところ、人影が目に入った。
「お前……どっから来た」
聞こえてきた低い声に、リコは立ち止まり身をすくめた。
覗いてみると、背の高い男性が湖のほとりに立っていた。すぐ傍には彼の荷物であろうバックと制服の上着が置かれている。
ということは生徒だろう。体格を見ると自分より年齢が上に見えるから上級生か。
そして、男の足元にじゃれついているのは。
ニャオハ!? え、なんで?――。
スリスリと甘えるように身体をこすりつけているニャオハの様子に困惑する。何がどうしてそうなるのか。
自分には初手、ひっかき攻撃をしてきたというのに。
「お前のトレーナーはどうした」
声を掛け、大きな手でニャオハに触れ、ゆっくりと撫ではじめる。
ああ! 大人しく撫でられてる! 私もまだなのに!――。
気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らしている姿に、だんだんと苛立ちが募ってくる。
もう怒った。こんな目にあってるのだ。理不尽である。怒ってもいいはずだろう。
気づけばリコは足を進めていた。ガサガサと草を踏みしめる音が鳴り、気づいたように男性は振り返った。
男の黒い瞳がリコに据えられる。
「……ん?」
「あ、あの……」
鋭い目付きに一瞬怯んだが、目があったため気づく。吸い込まれそうな瞳で、例えるなら夜空の色みたいだった。入学前に家の窓からみた綺麗な月を見ている様な気分だった。
「おい……」
「ひゃ、ひゃい!」
鋭い瞳とは別に先ほどの低い声と同じように身がすくむ。変な声もでた。
そこからリコが声を詰まらせていると、男はため息を吐き、眉間のしわを右手でほぐすように触りながら口を開いた。
「お前のポケモンか?」
「は、はい! そうです!」
「……そうか」
男は足元にいるニャオハを抱き上げた。ニャオハもなんでもないように、自然に受け入れている。
すごいなぁ。なんでこんなに違うんだろう。
「随分と懐っこいやつだな……こいつは」
「え……そう、なんですか?」
「そうなんですかって、お前のポケモンだろうが」
男はよくわからない、という顔をしながらニャオハをリコに渡した。
リコも同じような顔になりながら受け取った。
「今日、ニャオハと会ったばかりで」
「……ああ、新入生か」
納得がいったように男は頷き、ニャオハに声を掛けた。
「なんだお前、お転婆だったか」
あんまり困らせてやるな、と続けニャオハの頭をぐしゃぐしゃと撫でると、にゃあと返事でもしたかのように鳴いた。
「……もう行きな。そろそろこの辺りは暗くなるし、冷えるからな」
「えっと……あ、ありがとうございました」
「ああ……いや、ちょっと待て」
「な、なんでしょうか?」
すぐ済む、と呟き男は置いていたバックからポーチを取り出す。開けると包帯やらが見えた。
「手……傷だらけだろうが」
「え? あ、本当だ!」
追いかけることに夢中となって、全く気付かなかった。そういえば”ひっかく”を貰ったのだ。手当もすることなく、走り回り、草木を分けているうちに傷が増えていたらしい。
傷があることに気づいてしまうと、徐々に痛みが増してくる。ズキズキとした嫌な感覚が生まれてきた。
にゃあ、と胸のあたりから鳴き声がする。目を向けるとニャオハが何だかごめん、と言っているように見えた。
そんなニャオハの顔に、リコはなんだか怒る気をなくした。
「あはは、大丈夫。これくらい……いった!」
「ちっとだけ我慢しろ。汚いままだと傷が悪くなる」
本当は綺麗な水で洗いたいが、と呟き男はリコの手を取って、消毒液を掛けた。
滲みる。リコは唇を引き締めた。
次に男はワセリンをたっぷりと塗り、ガーゼで覆い、包帯で固定する。
随分と手際が良く、言う通りすぐに痛みが先ほどより軽くなった。
「帰ったら、ちゃんとした手当しろよ。傷もよく洗え」
「あ、ありがとうございます」
男はリコに背を向けて、片づけをしながら片手をあげた。そこで彼の荷物が開けっぱなしになっていて、その内の一つが光の反射か、キラリと光る。
何だろう? アクセサリーかな――。
その光が妙に気になったが、男の背にリコは頭を下げて、今度こそ帰路へ着くことにした。
帰り際、たまに振り返ると男はまだ湖のほとりで立っていた。何をしているんだろう。
ニャオハもリコと一緒に男を見ていた。じっと見ていて、何を思っているかはわからないが、気になるのかもしれない。
「……また会いたいの?」
にゃあ。肯定と思われる鳴き声が返ってきた。
リコもどこかでまた会ってみたいと内心思った。
「そういえば、名前も聞いてないや」
手当された右手を見ながら呟き、思う。
あの人にどこか感じた、穏やかな夜空みたいな雰囲気が不思議とリコは懐かしいと思った。故郷を思い出す様な、そんな感覚だった。
まだ入学して数日なのに、もう故郷が恋しいのだろうか。だが悪い気分ではなかった。
4月の夕暮れは寒くなってきた為、リコは帰路を急ぐ。手には痛みの熱とはまた違った温かさが残った。