非常にまずい状況だった。どんな事情か知らないが、怪しい男に追い回されている。祖母から貰ったペンダントが狙いのようだが、リコからすれば襲われている事と違いはない。
ドラマで見る様な展開が、己が身に降り注ぐなんてことは想像さえしていなかった。
逃げようと足を必死に動かすが、そう長くは続かない。もとより体力に自信はないのだ。逃げ切れるかわからないが、ニャオハが逃走ルートを本能からか選択してくれているおかげでまだ捕まってはいない。
どうしよう、そんなに長くは逃げられない!――。
相手は大人でポケモンと一緒にリコを探している。ポケモンは人間より余程鋭い感性を持っている。いつまでも逃げるのは難しいだろう。
「いっつ!……」
足がもつれて転ぶ。ニャオハに先導されて屋根上を走っていたが、平地と違って傾斜がありバランスが悪い。
膝から血が滲む。痛かった。膝が笑いだすのも時間の問題か。
ニャオハが心配そうに振り返るが、何でもないようにリコは立ち上がる。
「平気! 行くよ、ニャオハ!」
トキワとの特訓の成果になるのだろうか。それともトキワの事を見ていたからだろうか。彼を見ていると、ちょっとの傷なんて、どうってことはないと思えてくる。
考えないと! 逃げ切る方法を――。
諦めるのは、リコの中では却下だ。
*
「いました! 屋根の上です!」
見つかってしまった。
まだ他に仲間がいたのか。一人だったら何とかなったかもしれないが、そう上手くはいかないらしい。
リコを見つけた女性の声。他にも野太い男性の声も近づいてくる。登ってこられるとまずいと思い下に降りるが、そこにいかつい顔の男性が現れた。
「そこか! いけサイドン!」
問答無用でポケモンを繰り出してくる。
どうやら容赦はしてくれないようだった。
サイドン!? ちょっとやり過ぎじゃない!?――。
カントー地方なら有名なポケモンだ。バトルにも用いられる場面が多く、この地方では強いポケモンの代表だろう。
にゃおは!!
サイドンに驚いているリコを尻目にニャオハが吠えながら構えた。
これまた驚いたが、どうやらニャオハはやる気みたいだ。やられっぱなしは性に合わないらしい。
リコもニャオハの様子に覚悟を決めた。
「ニャオハ! このは!」
首元の葉を光らせ、サイドンに向けて発射する。
しかし、やはりサイドンのパワーは凄まじい。このはを太い両腕でたやすく弾き飛ばした。
「そんな出来損ないのこのはで倒せるものか!」
倒せるとは思っていない。やり方は一つじゃないと、この前のトドロクツキとの戦闘を思い出した。
顔に向けて、大量のこのはを吹きかけたこと。倒せはしないまでも視界を奪ったり、時間を稼ぐことはニャオハにだって可能だ。
良い戦い方だった。ニャオハの技をしっかり活かせてる。バトルが苦手なんて言えなくなってきたな――。
後日トキワからもそんなことを言われた。そうだ倒す必要なんてない。長所を活かす戦いをすればいい。
「明日から先輩と一緒に過ごすの楽しみにしてたのに……」
「な、なんだ? 妙な圧が……くっ、サイドン! さっさと終わらせるぞ!」
「邪魔しないで! ニャオハ、わかるね? もう一度このは!」
再びこのはが舞い上がる。
ただし、今度は狙いを付けた。
ガウッ!? と驚きと呻きを上げながら、このはで目をふさがれたサイドンがもんどりを打つ。
これだけで良いのだ。さらにニャオハは隙を見逃さず、サイドンの顔の上で胞子をまき散らした。
サイドンがそれを吸い込むと眠ってしまったようだ。
眠り粉! 覚えたんだ!――。
トキワとの特訓は間違いなく実を結んでいるようだった。以前だったらこんな戦闘は絶対に出来なかっただろう。
まだ窮地だということに変わりはないのに、思わず笑みがこぼれる。冷静に対処できている。
そうだよ、あの竜に向かって行くときの方が断然怖かった――。
まだ足は動く。ニャオハも、自分も強くなっているのだと奮い立たせ、再びリコは逃走を開始した。
*
何度か屋根と地面を行き来して、ニャオハとともに追っ手を振り切っていた。
だが、何度も上手くはいかない。おそらく彼らのリーダーもポケモンを使ってリコを追ったからだ。
「サイコカッター!」
リコの身体をわずかに避けて紫色の刃が通り抜けていった。意図的にあてられなかった刃だとわかった。
屋根を伝って逃げたが、ついに逃げ場が失われた場所まで追い詰められてしまっていた。
逃げようとしても、逃げる先にまた刃を飛ばされる。
「思いの外、随分出来るようだがな……そろそろ諦めろ」
言葉通り、ここまで手間取ると思っていなかった様子の若い男、リコへ最初に接触してきた男が言った。
リコは肩で息をしながらも、目には力強さが失われていなかった。それはニャオハも同様だ。
言葉にせずとも、男には伝わった様でため息を吐かれる。
「ならば、少々手荒くなってしまうが……いいということだな。ソウブレイズ」
彼のポケモン。ソウブレイズというらしい。見たことはないが、かなり強いのだろう。先ほどのサイドンより小さいが、足を動かすことをためらってしまう。そんな雰囲気があった。
リコは空を見上げた。辺りは暗くなっている。そろそろ満月が近いなと最近考えていたが、雲が月を隠していた。ひどく厳しい状況だが、何故か呑気な考えが頭を過ぎっていた。
その様子を見た男は、勘違いをしたのかソウブレイズの構えを緩めた。
「そうだ。大人しくしてくれるならば、ペンダントを渡してもらう以外の事は要求しない」
警戒を緩めたようで、雰囲気が幾分穏やかに傾いた彼を見たリコは、また呑気に他のことを考えた。
トキワもあの時、こんな風にしていた。なるほどあの竜からはこんな風に相手が見えていたのか、と不意に思う。確かに竜の立場になると、感じるものだ。
なに油断してるの?――。
「……っ!」
男がリコに近づく足を急に、慌てたように止めた。顔に浮かぶのは、恐れが近いかなとリコは思った。
「ソウブレイズ、構えろ! ……なにか奇妙な感覚がする」
「アメジオ様! 何かわかりませんが、何者かが近づいてきます!」
「なに?」
その言葉にリコもハッとした。大きな翼を打つような音が聞こえ始める。
その音は聞いたことがある音だった。力強くバサバサと空を切りながら近づいてくる。
リコは駆け出した。ニャオハも理解したようにリコに飛び乗った。
「な、なにをしてる! 止まれ!」
聞かない。駆ける。この音がする方へ進む。
学園にある時計台。それがこの場所で一番高い場所。
そこに向かって駆けた。途中で煩わしい梯子を登る。先ほどまで尽きかけていた力が入った。
途中で先ほどの刃が通りすぎたが、気にならない。当てる気がない攻撃は怖くもなんともなかった。
「次は当てるぞ! もう容赦せん!」
その気になるのが遅すぎる。
本気で最初からきていたなら、何度ももう捕まえられていたのに、と胸の内で毒を吐く。
梯子を登り切り、時計台の上に立った。柵は付いているが、いざ立ってみると頼りない。落ちたらただでは済まない高さだ。
それでもリコは怖くなかった。空をまた見上げる。月は未だ雲に隠れてはいるが、微かに月明かりが雲の割れ目から漏れ出している。
その方向に手を伸ばした。
学園に来てすぐに、今見たいに月に手を伸ばした日があった。あの時は不安で、何も上手くいかなくて泣き出したいくらいだった。
いくら手を伸ばしても、望むものは手に入らない。そんな気持ちになっていたのだ。
今は違う気持ちだった。
「ニャオハ! 思いっきりこのは!!」
にゃおは!!
叫びと共に、緑の光が立ち昇った。
月明かりの漏れ出す空に向かって。大地からの呼びかけみたいに。
リコは思いっきり、大きな声を出した。
先輩!!――。
緑の光がゆっくりと消えていく。
一瞬静寂が夜を包むと、雲が割れた。
月が吠えたからだった。
緑の光に応える様に、赤い焔が降りてくる。
リコとニャオハは時計台から思いっきり飛び上がった。
一瞬空に浮く感覚のあとに、ギュッと硬く抱きしめられる感覚がする。
「おい……危ねぇだろうが」
一番聞きたい人の声が聞こえた。
炎とともに、リコの前に舞い降りた声の主は相変わらずの仏頂面でヒーローの雰囲気とは言い難い。跨っているポケモンもつい最近出会った凶暴な顔をした竜だ。
正義のヒーローというより、ダークヒーローの方が納得できそうだ。
リコは何だか可笑しいなと笑った。
まさか月の方から来るなんて思わなかった。
「博士!」
「あいよ!ここは任せな!」
トキワが知らぬ誰かを呼んだ。
顔を向けるとリザードンとその背に跨る青年が見える。彼らは先ほどのトレーナーとそのポケモン、ソウブレイズと戦いを始めていた。
トキワはトドロクツキの背を叩くと、ひと吠えし高度を上げた。グングンと高さを増していくと、いつもよりずっと月が大きく見え、これなら届くかもしれないとさえ思う。
「先輩、あの人は?」
「最近ここらを嗅ぎまわってた不審者だ。一応顔見知りではあるがな」
「不審者って、あの時のですか」
不審者なら先ほど襲ってきた人たちではないのかと思ったが、トキワ知り合いということなら信頼できる人物ではあるのだろうとリコは切り替えた。
「それよりな……行くぞ」
「え、何処にですか?」
「旅だ。行きたいって言ってたろ」
リコはいきなりの言葉に面食らった。
襲われるのも急展開だが、旅に出るのも急展開だ。
だが不思議とすぐに受け入れていた。いつか彼と冒険をする日が、きっと来ると信じていたからかも知れない。
「長いか短いかわからないが」
「いいですよ?」
トキワがリコに目を向けると視線が絡んだ。視線でもうわかるでしょ、と伝えた。
「なら、しっかり掴まってろよ」
「はい!」
旅が始まる。
いつか聞いた、始まりの合図が胸の中でなった。
胸に手を当てると、身につけていたペンダントが当たる。月の光を浴びて、翡翠の石がキラリと輝いた。何だか話しかけられているようだった。
それにしても、思っていたより随分長い旅になること。この時はまだ知る由もなかった。けれど、不思議と大丈夫だと思ったのは一人じゃないからだろう。
「先輩……」
「なんだ?」
「いえ、ちゃんと掴んでるので……先輩も放さないでくれますか」
「あ? そんなの……当たり前だろ」
満月を横切って駆けるトドロクツキが吠える。
横目に過ぎ去っていく月はいつもよりずっと近かった。