午後の暖かな陽射しが、部屋の中をぽかぽかにする秋のこの時間帯。玲子は約束通りに、歌唱指導をするため帝丹小を訪れていた。当然のように自身のマネージャー冬森宏一を引き連れて。
怜子がパーカーにゆったりめのズボン、キャップというラフな格好なのに対して、宏一は相変わらずのスーツ風の私服。前回と違うのは黒い上着が、黒の革ジャンに変わったことだろうか。
子供たちの元気いっぱい力いっぱいの合唱。
十人十色、玉石混淆した味わい深い合唱が、音楽室に木霊する。
怜子は手を前のポケットに入れて窓の外を見ながら、合唱に耳を傾ける。
宏一は、かなり目立つ天才的な外れ具合の音に笑いを堪えながら、爆笑しないように一生懸命堪えて歌を聞いていた。
そして演奏が終わると、怜子の指導が始まった。
「そうねぇ、まず君」
元太を指差す怜子。
「声デカすぎもっと皆の声と合わせて」
元太は、後頭部に手を当てて恥ずかしそうに笑う。
次に怜子は、光彦を指さした。
「そして隣のそばかすくん。君は音程は合ってるけど、時々気持ちがお留守になる」
怜子はここで一旦言葉を切ると、意地悪を思いついて少し加虐的な笑いを浮かべる。
「斜め前の女の子の横顔に見惚れてるからかしら?」
光彦の斜め前に前で歌う女の子は、哀のこと。子供たちは、どっと湧いた。
「で、その彼女。歌は上手だけど、もっと子供らしく歌いなさい」
「私、子供じゃないから」
これには、コナンも苦い顔だ。
怜子は歩美の前まで歩くと、しゃがんで歩美の頭をわしゃわしゃと優しく撫でた。
「君は音程もあってるし、元気があって大変宜しい」
プロの歌手の称賛に、歩美はとても嬉しそうに照れる。
そして、怜子は次々に他の児童の歌を指導していく。
その姿は、プロを彷彿させるもので、一見聞いていないように見えて、実はちゃんと聞き分けていたのだとコナンと哀を感心させた。
だがそれも束の間。怜子は、コナンの前まで立つと、わざわざしゃがんで目を合わせて。
「問題は君! 最初から最後まで外れっぱなし。わざとじゃないでしょうね?」
と、問い詰めた。コナンは言葉に詰まり、歩美はむっとした顔でコナンの肩を掴んだ。
「わざとじゃないもん! コナンくんは音痴なだけだもん!」
(フォローになってねぇ……)
爆笑する一同。ふんぞり返っていた園子も膝を叩き爆笑し、宏一もとうとう笑いのダムが決壊して腹を抱えて笑いこけていた。宏一は、どうやら笑い上戸らしい。
「最悪ね」
歩美のフォローを受け、怜子は呆れた顔になる。手の打ちようなし、そう顔が物語っている。
玲子は蘭の方へと歩き、音のズレについて指摘した。
「ピアノも変だし。全体的に音が下がってるわ、ちゃんと調律してないんじゃない? 宏一」
「あひゃひゃっ!
あー、はいはい。調律ですね。少しお待ちを、少しお待ちを」
呼ばれた宏一は、いまだに笑いながらも、怜子の方へと。ピアノの方へと近付き、自分の手提げ鞄からチューナーを取り出した。
怜子のマネージャーになってから常に持ち歩いている商売道具の一つで、宏一はとりあえずチューナーの電源をいれると、ドの鍵盤を鳴らす。
「ありゃー。確かに低いですねぇ。この鍵盤がこれだけ低いなら、他のも相当ズレてますね」
そういいながら、宏一は鞄を開けて中から調律道具一式を取り出して、さっそくピアノの調律を始めたのであった。
少し鍵盤の調整をして、宏一は再度叩く。
澄み渡った鍵盤の音が鳴る。チューナーは許容値を示す。宏一が、ちらりと怜子を見れば、怜子は。
「もう少しだけ高く。そしたらその音はいいわね」
「了解です。こんな具合か……」
怜子のオーダー通りに再度調律をして、再び鍵盤を叩く宏一。宏一はその音を耳に叩き込むと、チューナーを仕舞い他の鍵盤を調律し始めた。
さっきのドの音を基準にテキパキと自分の耳を頼りに他の鍵盤もさささっと調律する。その手付きに迷いは見られない。
小学校の合唱発表であるから、そこまで本格的ではない。ざっとした軽い調律だが、それでも致命的な音の狂いは劇的に改善された。
その鮮やかな手並みに、蘭は感激の声を上げた。
「すごい! 秋庭さんと宏一さんって絶対音感持ってるんですか?」
「えぇ持ってるわよ。私は」
「いえ僕は違います。僕は相対音感です。まぁ秋庭さんと同じく生まれつき持っていたのを、僕の場合は鍛えましたが」
怜子はさも当然といった様子で肯定し、宏一は相対音感であると補足する。
宏一の場合は、元から持っていた音感を、怜子のマネージャーをやるに当たって鍛えたもの。
「何? 絶対音感と相対音感って?」
「絶対音感は、ある音を聞いた瞬間にその音の名前、音名が分かる能力のこと。相対音感はある音を基準に他の音を聞き分ける能力のことよ……例えば」
哀は、そう言うとすたすたピアノに近付く。その意図を察した怜子は、ふっと短く鼻で笑い後ろを向く。子供のお遊びに付き合ってあげるらしい。
哀は鍵盤を叩き1音鳴らす。
「E5--ミ」
続けて哀は、2音同時に 鳴らすが、怜子は簡単に言い当てた。すごい! と盛り上がる子供たち。怜子は当然よ、と言い放つ。
と、そこで宏一は声を荒げた。人のバックをコソコソ漁ろうとする元太に対して。
「おい坊主!」
「ひっ、ひゃい!」
元太は肩をビクンと震わせて、手の動きを止めた。
宏一は、たくっ油断も隙もねえなと小さく愚痴りながら怜子の鞄へと歩く。
「……人の物を勝手に触ってはいけないと親に教わらなかったんですか? 砂利坊主」
「じゃ、砂利坊主?」
砂利坊主と呼ばれた元太は、片眉だけ形を変えて言った。
「その前に……何か言うことがあるんじゃない?」
宏一の傍まで歩くと、怜子はしゃがみ元太と目線を合わせた。その眼差しは、とても鋭い。宏一にさえ有無を言わせなくする威圧的な瞳。
元太は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「まったく……次はないわよ」
元太が頭を下げたのを見て怜子はそう言った。そしてツンツンしたまま怜子はピアノの近くに戻る。宏一も怜子の鞄を肩に掛けると怜子の傍に戻り、自分の鞄のすぐ傍に置いた。
「そうだ。ついでに相対音感も、どんなものか見てみたくないかしら?」
怜子が唐突に言った。怜子が時折みせる人を試すような挑発的な眼差し。
怜子の提案に、子供たちは目を輝かせている。
「私のマネージャーだし、宏一の耳が錆び付いてないか雇い主として確かめておかなきゃ」
「僕の耳なら、さっき調律で……」
急にやれと言われた宏一は、ピアノの調律の件を持ち出して反論する。だが、怜子はきっぱりと毅然とした態度で言うのだ。
「私がやれと言ったらやるの」
「はぁー、了解しました」
とりつく島もないとはまさにこのこと。
宏一は反論を諦めて、了承するのであった。その様子、やり取りを見ていた光彦は思った。
2人のやり取り、それはどちらかというと――。
「冬森さんって、マネージャーというよりもまるで執事みたいですねぇ」
「あっはっ、はっはっ――ふぐっ」
腹を抱えて大笑いした宏一は、怜子の肘鉄を喰らい撃沈した。す、すみません。宏一は平謝りをしながら、後ろを向く。
「もう。いくわよ、88鍵盤C3ド」
音名を言いながら鍵盤を弾く。
相対音感とは、哀が説明した様に、ある音を基準にして他の音を聴き取る能力。
怜子が示したのは基準となる音だ。怜子の鳴らした音、その音名をしっかり耳に刻み込み、そして頷く。
「続けてください」
怜子は4つ右隣の白い鍵盤を鳴らす。「G3のソですね」
次に怜子は5つ続けて鍵盤を叩いた。どれもバラバラだが、怜子はこれくらい分かって当然でしょうという顔だった。
「G5のソ。C3のド。E4のミ。B4のシ……それから秋庭さん、黒鍵を鳴らしましたね?」
「良いから早く答えなさい。ほら」
黒鍵の音階は、黒鍵だけで独立している。
基準音と比較しようがないのだが、怜子はまた同じ音を鳴らした。
目を閉じて宏一は一生懸命考える。
頭の中に鍵盤をイメージして、黒鍵の音の構成を思い浮かべながら……該当する音はおそらく。
「黒鍵のソのフラット、ですか? 5番目の。たぶん」
「考えて推測するんじゃなくて、聴いて当てて欲しかったのだけど? まぁ、いいわ。及第点をあげる」
「恐縮です」
「今晩のディナーに付き合ってあげる。コソコソしてないみたいだし、ご褒美も兼ねて」
「ありがとうございます」
怜子はピアノから離れると、机に軽く腰掛け腕を組んだ。
「要するに聴いた音を基準に他の音を聴き比べるってことだから、鍛えたら誰でも身につくんじゃないかしら? 宏一レベルには、私のスパルタレッスンが必要だから難しいにしても」
そう語る怜子の顔はどこか得意げで、宏一は頭を掻いていた。
ピロリン♫ あるべきフラグが消えて、存在しないフラグが生えてくる音