「やっぱり絶対音感がある方が歌が上手くなるんですか?」
「さぁどうかしら? 絶対音感が音楽家に必要なものなのか私には分からないわ。絶対音感は訓練で身につくって聞いたし、……そういえば譜和さんがそうだったかしら?」
「はい、そうです。先生は訓練で身につけたと仰ってました。先生の誇りですね」
「みたいよ。そもそもの話、絶対音感があっても、発声がなってなければ、それって結局タダの音痴じゃない?」
(――ぎくっ)
光彦の質問を受けての怜子の返答は、コナンの核心を突くものだった。さり気なく図星を突かれたコナンは苦い顔で、そんなコナンの横顔を哀はにやにや見つめている。
「歌が上手くなるだけなら相対音感で十分上手くなれると思いますよ。僕もそのクチですし」
「冬森さんがですか?」
宏一がそう言ったことで、蘭が感心した様子で口を開いた。
「ひどいなんてもんじゃなかったです。それこそコナンくんより酷かったかも。それを見兼ねた秋庭さんに小学校の頃は何度も厳しく指摘された程ですから」
「どうやって矯正したんですか?」蘭が言った。
「色んな楽器の色んな音をひたすらに聴いて相対音感は育てました。歌については……」
「暇さえ見つけてはひたすら歌わせたわ。良い耳持ってんのに音痴ってことは、喉の使い方が下手ってことだから」
音楽室のピアノを見て懐かしそうに目を細めて、
「私の子分が音痴だと私のプライドが許さなかったから、休み時間になる度に宏一を音楽室に連れ込んでひたすらに歌わせた。反復練習よ、筋トレと一緒」
「おかげさまで小4の終わり頃には、見違えるくらい上手くなったねって音楽室の先生に褒められてとても嬉しかった記憶があります」
「だって、コナンくん! 一緒に練習しよ、歩美付き合うから」
「あは、ははは」
あははと力なく笑うコナンを尻目に歩美はやる気に満ちた顔で両方の拳を握っていた。気合は十分、やる気たっぷりな歩美に、怜子と宏一は2人揃って援護射撃をする。
「いいんじゃない? 音外れっぱなしだし。人に見てもらうと練習に身が入るわよ。上手く行けば宏一みたいになるかもしれないし」
「やっぱ歌える人が指導してくれると全然見違えますから。歩美ちゃんは歌が上手だし適任だと思います」
「ほら! 怜子先生もそう言ってるし、一緒に練習しよ!」
歩美の猛プッシュに、コナンは
コナンと歩美のやり取りを微笑ましそうに見つめる宏一。だが、怜子はというと、宏一の肩を叩いた。
「さ、私からはこんなところ。ほら、もう帰るわよ宏一」
「え、もうですか? せっかくですし、もう少しゆっくりしましょうよ」
宏一は難色を示し、子供たちもそれに追従する。
「「「えぇー!??」」」
「もう帰っちゃうんですか?」
光彦の残念がる声を聞いて尚、怜子の意思は変わらない。
「もっと上手く歌えるようになったらまた来てあげるから」
「帰る前にお手本聞きたいわね」
哀のその一言に、怜子は動きを止めた。そして眉をつり上げて挑発的な顔付きになる。
「あら。ならいくら払ってくれるの?」
怜子の放った言葉に唖然とする一同。
今日もきれっきれの怜子に、笑みを浮かべる宏一。
「プロはね、お金もらわないと歌わないの。営業なら宏一にお願い。そういうの全部、宏一に任せてるから」
「そうですねぇ。同じ帝丹小のよしみで、8割引きの60万で如何ですか? 堂本ホールの完成記念公演では、普段の相場の3割増頂いていますし」
きれっきれの怜子に悪乗りして、あくどく金銭をせびる宏一。彼は全力全開、ノリノリで守銭奴マネージャーを演じている。
「歌手だけじゃないわ……プロってのは皆、自分の仕事に誇りを持っているの。プロの誇りと意識があって、一流の仕事をしてそれで生計を立てているからプロなのよ。私だけタダでプロの技をお披露目したら、他のプロに失礼だと思わない?」
プロ意識を語り始める怜子の姿は、とても凛としている。
唐突に語られるプロの矜持。世界的なソプラノ歌手が語るプロの世界に、子供たちはもちろん、蘭や園子まで聞き入っていた。
「私は歌のプロ。だから報酬をもらって、一流の歌を歌うわ。宏一だってそうよ」
「ぼ、僕ですか?」
「宏一もマネージャーとして一流よ。一流の仕事をしてるから、私も仕事に見合う額を渡してる。一流の仕事には、一流の報酬を。それがプロの世界の常識なの」
怜子が秋とはいえ、まだ残暑のあるこの時期に、首のマフラーを外さないのは歌手として何よりも大切な喉を守るためである。
静まり返る音楽室。
プロが語る仕事観は、小学生それから高校生にも刺さるものがあった様だ。小学生組に関しては、自分の仕事に誇りを持つ大人の凛々しい姿に、漠然と憧れただけかもしれないが。
「報酬はともかく、お手本でしたら僕が歌いましょうか? 自分で言うのも何ですが秋庭さんのお墨付きですから」
「つべこべ言わない。帰るわよ」
「せっかく帝丹小に来たんです。懐かしい思い出に浸ったって……あ、ほら」
宏一は、カバンを開けると水筒を取り出した。
「お茶でも飲んで、一息つきましょう」
「まったく……。1杯だけよ」
蓋を開けてお茶を注ぎ初めた宏一を見て、怜子はため息をついた。
なみなみと注いだお茶を怜子に渡そうとして、しかし直前で宏一は手の動きを止めた。
「……宏一?」
不審な行動に、怜子は怪訝な面持ちになる。
宏一も眉を顰めて、神妙な顔付きになる。お茶に鼻を近付け、臭いを嗅ぐ宏一。臭うな、そう呟いたかと思うと宏一は、お茶の入った蓋を机に置き、懐から白い手袋を片方だけ取り出して右手に嵌める。
その一連の行動を、怜子だけでない音楽室にいる全員が注目する。
「宏一……何をやってるの? まさかっ、やめなさい」
宏一のやろうとしていることに気付いた怜子が血相を変えて宏一を静止するが、宏一は人差し指の第一関節までをお茶に漬けると、何を思ったのか宏一は指ごとお茶を舐めた。
ーー次の瞬間。
「げほっ、ごほっ、がはっーごほごほっ」
宏一は思い切りむせた。すかさず、口の中のお茶を全て吐き出すが、舌の痛みは全く治まらない。
喉を焼く様な鋭い痛みが、宏一を襲った。
「宏一さん、大丈夫!?」
コナンは血相を変えて、宏一に駆け寄る。
だがコナンより早く動いたのは怜子だった。
怜子は、目の前で苦しみ始めた宏一の背中を擦っていた。
「貴方、馬鹿じゃないの!? 怪しいなら、捨てなさいよ」
「がはっ! やっぱり何かが! れ、怜子さん。ごほっ、飲んじゃ駄目です、絶対!! ごほっごほっ」
「そんなの貴方を見てたら、誰でもわかるわよ!!」
「病院に行こう。毒だったりしたら、少しだけでも口に含んだから危険だよ」
深刻な顔付きでそう言うコナンの提案に、反対する者はいなかった。
♪ ♬ ♪ ♬ ♪ ♬
畑中医院。
帝丹小学校にほど近く、呼吸器科のある病院に、宏一は駆け込んだのだ。
病院の待ち合い室。怜子は壁に寄りかかり、自身の水筒を憂い気に見つめ、その近くに園子と蘭、コナンに哀が寄り添っていた。
「そのお茶最後に飲んだのは何時?」
「お昼前よ。堂本アカデミーのレストランで飲んだ。コンサート前だから、アカデミーのレッスン室を借りて歌の練習をしてたの」
「鞄からは目を離した?」
「帰る前にトイレに行ったから、その時は……。だけど宏一がレッスン室にいたから誰も目を離してなんか」
「だけど、誰かが薬を入れるとしたらそのタイミングしかないよね」
「でも、一体誰が」
深刻な表情で話し込む怜子たち。
そこに診察を終えた宏一が、会話の輪に参加した。
「……ご心配をおかけして、すみません」
「宏一!? 大丈夫なの?」
「指につけたのを舐めただけなので。ですが、2、3日は味が分からないだろうとのことです」
宏一の説明を聞いても、怜子の顔は曇ったまま晴れない。黙りこくって思考の海に沈んでいく。
コナンは、宏一に質問を投げかける。
「ねぇ、冬森さん。もし飲んでたら、どんな症状が出てたの?」
「おそらくですが、喉に激しい炎症ができていた、と思われます。そして、4、5日は続いただろう、とも」
宏一の説明を聞いた哀は、つまり、と言ってから言葉を続けた。
「つまり、それを飲んでいたら4日間は満足に声を出せなかったかもしれない……ということになるわね」
「あぁ。堂本ホールの公演まで後4日。もし、怜子さんが飲んでいたら出演できなかったかもしれない」
「……そういうことになりますね」
コナンの指摘を肯定して、宏一は怜子に軽く頭を下げた。
「鞄の管理をしていた僕の落ち度です。申し訳ありません」
――わざと目を離しましたが、やはり貴方も狙われているようです――
蘭たちには見えず、されど怜子には見える位置で、宏一は再び決して音を出さずに唇を動かした。
しかし宏一と怜子の様子をつぶさに見ていたコナンには筒抜けだ。
(わざと……離した? なにを……、もしかして目を離したってことか? ねら、わ、……れてる? ーーやっぱりこの人たち、何か知って)
怜子は宏一から目を逸らす。複雑な怜子の心境が、一身に滲み出た怜子の仕草。
しかし、怜子はそっぽを向いたまま、宏一と同じく唇だけを素早く動かす。
「別に責めたりしないわよ」
――歩いて帰ってみるから、貴方も付き合いなさい――
「ねぇ、目暮警部に連絡して水筒の中身を調べてもらおうよ」
2人の行為を不審に思ったコナンは、わざとらしい大きな声で提案をする。蘭は正義感から、その役目を買って出た。
「じゃあ私が届けます。怜子さんたちは早く帰ってください。冬森さんは病み上がりですし」
「……悪いけど、じゃあ、お願いするわね。宏一」
「自分の不始末なのに、ご迷惑をおかけします」
「迷惑だなんてそんな! 私気にしません」
蘭に頭を下げ宏一は歩き出す。怜子も、申し訳なさそうにしつつ蘭の厚意に甘えて、歩き始める。
その背中に待ったをかける小学生1年生がここに。
「僕も付いていくよ! 2人で帰るなんて危険すぎる」
「なら、私も」
江戸川コナンの力強い眼力に、怜子と宏一は顔を見合わせた。
「僕たちも付いていきます。少年探偵団として、助けを求める人を見捨てることなんて出来ません!」
「歩美も! 怜子先生と宏一お兄さんが心配だもん」
「おばちゃんには歌、教わったしなぁ。仕方ねぇから俺もついていってやるぜ」
完全に乗り気な少年探偵団。
怜子はちらりと宏一を見るが、宏一は力なく首を横に振った。
やる気に満ち溢れる少年少女たちを止めることなんて出来ない。
はぁー。深い深いため息を吐いて、
「勝手にしなさい。いいわね、宏一」
ーー適当に歩いて、子供たちを突き放しましょうーー
「了承しました」
♪ ♬ ♪ ♬ ♪ ♬
夕暮れの太陽が、道路を夕日色に染める。
宏一+怜子ペア、その護衛(笑)の少年探偵団御一行と、そんな護衛のお目付け役の園子。
大所帯で、市街地を和気あいあいとしながら歩いていた。
光彦や歩美、元太が話題を振り、宏一はにこやかに、怜子はつっけんどんな態度で、けれど無視することなく律儀に会話に応じている。
だが。
1台の大型ダンプの接近を機に、雰囲気は一変する。
「みんな脇に避けて」
怜子は子供たちに注意を呼びかけるが。
大型ダンプは間違いなく加速し、勢いをつけた。
(――違う、これは!?)
「「皆走れェっ!!」」
宏一とコナンの声が重なって、全員弾かれた様に一斉に駆け出した。
電柱にぶつかりサイドミラーが吹き飛んでも、関わることなく爆走し続ける大型ダンプは異常の一言。明らかに異常なダンプの様子に、全員目の色を変えて必死になる。
コナンの目に飛び込んだ十字路。咄嗟にコナンは右に曲がれと指示をする。
少年探偵団と園子は素直に右に曲がったが。
「なんで貴方まで、こっちに来てんのよ!」
「何年っ、秋庭さんのマネージャーしてると思ってんですか!! 貴方の考えくらいっ分かります!!」
怜子は迷うことなく左に曲がり、あらかじめそれを察知していた宏一も、左に曲がった。
2人は横に並び必死に走る。
「私が狙われてるのは間違いないようね!」
「何のために、僕がわざわざ痛い思いをしてまで証明したと思ってるんですか!?」
何のためにわざと宏一がレッスン室を離れたと思っているのだ。
怜子が狙われる可能性がある……その疑惑の真偽を確かめる為の芝居。
激情に駆られた宏一の言葉は、かえって怜子の心に火を付ける結果になった。
「貴方ねぇー!!」
「あ、しまった」
「確かめるにしたって、警察に届けるだけで良かったでしょ! 大体、私にも内緒で、勝手に試して――あっ」
喋ることに夢中になっていた怜子は、足元に転がる小石に気付かず、そのまま躓いてしまい。
体勢を崩して、怜子が地面に転がる前に、怜子の腕を宏一は掴み引き上げる。
ちょうどその時、前からタクシーが来てクラクションを鳴らしながら急停車する。タクシーの横に2人は飛び込んだ。
そして、
「怜子さん、少し待っていてください」
宏一はそう言うと全速力で飛び出した。向かう先は、先ほどの暴走ダンプ。一足先にコナンが、ダンプを乗り越えようとしていたのだが、その横を宏一が片手をついただけで軽やかに乗り越えた。
流れるような重心移動で、素早くダンプの荷台の土の上を滑るように走り抜けると、宏一は荷台から飛び降り、ダンプの運転席側のドアを開ける。
この間にかかった時間は、わずか2秒。
運転席がもぬけの殻で、道路のどこを見ても人影がないことを視認すると、宏一は皆のいるダンプの反対側に戻った。
唖然とした顔で己を見るコナンに対して、宏一はゆるゆると首を横に振り、
「犯人は逃走しました。中々大胆な人物ですね」
「……思い切りがいいのね」
(タクシーが来たから諦めたのか、それとも……にしても、今の宏一さんの動き。あれはパルクール、なのか?)
「それじゃあ、私はタクシーで宏一を送り届けるから。皆も早く帰りなさい」
「え、帰っちゃうんですか!」
食い下がる園子に、怜子はぴしゃりと言い放つ。
「貴方たちといるとロクな目にあわないから」
怜子は後部座席に乗り込み、怜子が座ったのを確認すると宏一は、後部ドアを閉めて助手席に座る。
「なんか、ご迷惑ばかりかけて申し訳ないです。みんな、お気をつけて」
2人を乗せたタクシーは、困惑するコナンたちを置き去りにして悠然と走り出した。