突き刺さるような寒さがようやく落ち着いてきた、3月のある日。
わたしは電車に揺られて、都内のイベント会場に向かっていた。
同人誌即売会とフードフェスを融合させた、酒と飯と本の祭典、同人グルメフェス。その記念すべき第一回が練馬区で開催されるとのこと。
ユイ・アラモード先生は新刊を、ビアコーディネーターの高田ヨーコさんがクラフトビールの樽を持ち込むと聞いて、挨拶がてら参加することにしたのだ。
着物の下にたくさん着込んでこなくて正解だった。車窓から入り込んできた陽の光が背中にあたり、ぽかぽかして気持ちいい。
と、春の陽気に誘われて微睡んでいると、はるか先生から連絡が届いていたことに気付いた。一気に目が覚める。
『今どこにいるかな?私はもうすぐ入場するよ!』
「なっ」思わず声が漏れる。
まさか先生から声をかけてもらえるなんて!でも!どう乗り継いだとしても、まだ1時間はかかる。早めようがなかった。
いつもわたしはこうなのだ。肝心な時にいないで、不要な時に現れる。もっと早く出ればよかったのに。余裕をもってのんびり出かけようとしたらこのザマだ。
わたしは時計と車内のモニタを交互に睨みながら、再び微睡むこともできずに、ただただ辛抱して過ごした。
―――
開場からきっかり1時間遅れて、最寄り駅に到着する。会場は駅に直結した区の施設だった。こういった動線の短いイベント会場は、わたしの住む横浜にはあまりなくて新鮮だ。都内は駅の造りが洗練されている気がする。
入場はライブなどと同じ、電子チケットとリストバンドの引き換え方式。即売会では珍しくなくなってきたけれど、規模が大きなイベントではないからか、機械的でもなく堅苦しくない、適度なゆるさ。入場口からも中の様子がよく見える。ああ、食べ物の良い匂いがする。
中に入ると、フロアはそこまで広くないのに活気に溢れていた。同人誌とお酒と食べ物が一緒に売られていて、参加者も皆プラカップと本を片手に歓談している。なんだかとても楽しげで、良い雰囲気だ。
はるか先生を探す前に、まずは当初の目的であるユイ先生の元へ。
ヨタ話のうまいお姉さんは、既に酔っぱらっていた。机の上にはビアギークあるあるの持ち込みグラス、だけではなく別のカップにもビールらしきものが。
「ユイ先生、こんにちは!」
「おお広瀬ちゃん、来ていたのですね!」
「今来たばっかりなんです!酔っちゃう前にユイ先生のところへと思って。新刊くださいな」
「それはそれは、ありがとう!」
ユイ先生の新刊はイベントにちなんだ練馬区の醸造所にフィーチャーしたもの。
「はるか先生はねぇ、さっきまであちらにいらっしゃいましたよ!さっき見たんだけどね、私ここ離れられなくて。うん、さっきはいたんですよ!」
大丈夫かな、ユイ先生。まだ開場から1時間しか経っていないはずだけれど、少し目はとろんとして、だいぶ気持ち良い感じになられている。でも、このへべれけ状態から物凄く長時間保つのが先生のすごいところ。以前ビアフェスでお会いした時もこんな感じだったっけ。
新刊にさっと目を通す。書かれている内容は非常に理路整然としていて、かつ単なる調べものではない足で稼いだ新しい視点をもたらす堅実な構成だ。しかし目の前にいる本人はこれだから、作家という生き物はわからないものだ。
なんにせよ、大手を振って昼酒をかましながら自分の本も売れるなんて、他のどんなイベントにも比肩しがたい快感をもたらしてくれそうだ。未来の自分に約束はしたくないけど、一般以外の参加もできたら楽しいかもしれない。
ほわほわしているユイ先生を置いて、訂正、挨拶を済ませて、はるか先生とヨーコさんのブースを探す。このイベントではホールを二つに割って、サークルのエリアと飲食エリアに分けているようだ。フードフェスでは一般的なスタイルだけど、即売会としては新鮮に感じる。
はるか先生は探すまでもなく、すぐに見つかった。
素敵なお着物を召していて、周囲に人だかりができている。なんて十中八九はるか先生に決まっている。遠目に見ても、随分と盛り上がっているようだ。あの様子だと、はるか先生も既に酔い始めているな。
盛り上がっているところに水を差すのも憚られるし、「僕が来た!」と堂々登場もわたしにはできないので、ひとまず一番の目的地であるヨーコさんのブースへ。
予想に違わずクラフトビールは大人気なようで、列をなしていた。
「広瀬ちゃん!来てくれたんだ!」
「ヨーコさん、こんにちは!美味しいビールがあると聞いて、駆け付けました!」
ユイ先生の紹介で、ヨーコさんとは最近知り合ったばかり。以前あった即売会では、わざわざ足を運んでもらったので、そのお礼のつもりでもあった。
「良いビール繋いでいるからね、どんどん飲んでいって!」
繋がる予定のビールの銘柄が記載された、カラフルなフライヤーを手渡される。これだけでも随分と手が込んでいて、その熱意が窺えるものだ。
わたしも何かの機会に樽を用意しようとしたことがあったけれど、機材やら搬送やらでかなりの手間がかかると知って断念した。それを別々の醸造所から6タップも仕入れるなんて、冷や汗ものだった。
「今日こんなにたくさんあるんですか?」
「そうだよ、2タップずつ繋いで撃ち抜いていくの。全部で75リットル!」
「な、75リットル?正気で、いや、大丈夫なんですか?」
「ダイジョーブ、ダイジョーブ!だからいっぱい飲んでね!」
75リットル。それも普通のビールではなく、どれも特徴のあるものばかり。これを4時間ちょっとのイベントでさばこうとしているのだからすごい。
ビールへの情熱というか覚悟というか、信頼が並みじゃない。今度ヨーコさんたちにわたしの選んだ変なビールを飲んでもらう予定なのに、一気に不安になった。わたしなんかじゃ通用しないんじゃないか、がっかりさせちゃうんじゃないかと。
不安になる、なりながら、注いでもらったビールをひと口。
「これ美味しいです!」
ハイビスカスラガー。ロゼワインのように目を引く鮮やかな赤にピンクの泡が少し。ビールとしては異色な見た目だけど、さっぱりと爽やかでありながら、きちんと旨味も感じられる。ちょうどいい一杯目だった。
ヨーコさんはにっこりと満足そうにほほ笑んだ。不安な気持ちは先延ばしにすることにした。ビールへの愛が、わたしなりの愛があれば、大丈夫だよね?
一通りの挨拶を済ませて、一旦はるか先生の元へ戻ろうとすると、先生は背を向けてどこかに向かおうとしていた。もう帰っちゃうのかな、ご挨拶も出来ないのかなと焦ったわたしは、思わず大きな声を出してしまった。
「はるか先生!」
先生はゆっくりと振り返った。ああ、よかった。
「広瀬ちゃん!」
はるか先生はぱっと笑顔をみせた。
「すみません、すっかり遅れてしまいました」
「ううん、まだまだ始まったばっかりだよ!」
わたしの不安げな声をよそに、はるか先生は機嫌がよさそうだ。
「今日はね、もう私は仕事しないって決めてきたから!」
そう高らかに宣言しながら、腕まくりのジェスチャーをするほどだった。
「お身体はもう回復されたのですか?」
先月の台湾への遠征の後に体調を崩されたと聞いていたので、なかなかこちらからは声をかけずらかったのだけれど。
「うん、昨日までずっと調子が戻らなかったんだけどね。今朝になってからはもうバッチリ!天野はるか、ここに復活しました!」
「よかった。じゃあ祝い酒ですね!」
「「カンパイ!」」
プラカップ同士がぶつかり、軽い音を立てる。グラスやジョッキのようにはいかないけれど、たまにはこういうのも悪くない。
「それにしても面白いイベントだよね!なにより、お酒を飲めるのがいい!」
「はい、フードフェスとは違って同人誌即売会らしい、手作り感があって」
「うんうん。職業としてプロの料理人ではない人たちの、『私が美味いと思うこれを飲め!これを喰らえ!』という直火の熱量が感じられるよね」
「でもプロではないから足りないとか手を抜いているとかではなく、」
「むしろ遊びがないくらい本気!」
「しかも、こうやってお酒を交わしながら語らうスペースがあるのは、単純な足し算以上に特別な感じがしますね」
「その通り!」
はるか先生はゴキゲンで、いつも以上に口も滑らかだ。
わたしもついつい釣られて、すぐに次のビールへと向かう。サケウィート。日本酒とビール、両方の酵母を使ったビールだそうで、透き通った黄色に軽めの炭酸。なるほど、確かにどちらのニュアンスも感じられる。お米とパンのいいとこ取りのような面白くて楽しい味だ。
「もし、ちょっと失礼。あなたの着物いいわね」
すいすいとビールを飲み進めていると、唐突に声をかけられた。首から名刺ケースをさげていて、スタッフの方のようだった。
「あっ、ありがとうございます!」
突然のことに嬉しいようで、恥ずかしいようで。でも褒めるなら、わたしじゃなくて先生を褒めるべきではと、はてなを浮かべる。
「これ、デニムの生地でしょう?かなりしっかりと縫製されていて、気になっちゃったの」
「そうなんですね。わたし着物初心者でこれも既製品なんですけど、家で洗えるし、雑に扱っても平気なんで気に入ってるんです」
「そうそう。着物なんてね、どんどん軽率に着るべきなんだから!」
はるか先生も気をよくしたのか、わしが育てたといった感じで自慢げに頷く。
「でも、よくよく思い返したら私はデニムの着物を持ってなかったかも。そんなに違うものなのですか?」
「ほら、着物って生地を守るために縫い糸が強くないじゃない?だからデニムを使っていても、安心して着られるものが少ないの。着物の形に仕立てられたデニムの方が、断然頑丈ね」
「ふむふむ、なるほど。デニムの文脈で着物をつくるのか、着物の文脈でデニムを使うのか、というわけですか。面白い!それは考えたことがなかった視点ですねえ」
着物のトレンド談義に花を咲かせるふたりをよそに、わたしは喜びを噛み締めていた。
作家未満のわたしは、はるか先生の末弟にも数えられないけれど、着物だけは真似しようと試行錯誤を続けている。そんな中で、はるか先生に仲間と認められ、また他人にもそう見てもらえたのはたまらなく嬉しい。錯覚だとしても、構わない。構うものか。
そして、はるか先生の言葉とは真逆だけれど、この場で先生をトレースできているのは自分だけという、ちょっとした優越感にひたる。
普段は着物仲間なんてなかなか見つけられないし、見かけても話かけるなんて無理なのに。こうやって盛り上がることができるなんて。一期一会、やっぱり自分の足で出向かないとダメだなあとしみじみ思う。
―――
気が付くと、もう2時間以上は経過していた。ウィートを2杯は飲んで、その後にはハードサイダーも飲んで、わたしは数えるのをやめていた。
はるか先生もいよいよヒートアップして、轟として気焔を上げている。観音さんと一緒の機会が多くてこれまで気付かなかったけれど、はるか先生もはるか先生でお酒が入るとすごい。
観音さんは色々な意味で、常に場を掌握する才をもつムードメーカーだ。対してはるか先生は、場の空気を変える。変えている。
たまたま同じテーブルに座っていた方を飲み仲間にしたのは序の口だった。今では隣のテーブルまで巻き込んであれやこれやと言いたい放題。はるか先生の気にあてられたのか、あちこちで双方向に会話が始まっていて混沌をきわめようとしていた。
これがレストランや飲み屋ならとんでもない客で大変だけど、この場であれば咎めるルールはない。即売会も交流の場はあるけれど、こうやって作品やその場で買った飲食物を手に語り合う空間が隣接しているのは珍しいんじゃないかな。
何となれば、ここに集っているのはひとり残らず同好の士であり、即売会の文脈に通じた人たちだ。他人だけど、ただの他人じゃない。馬が合わないわけがない。
しかも飲み屋と違って、超えてはならない一線を皆がわきまえている。この場は飲食を想定されていない会場であって、何かインシデントが発生したら最後、今後の開催だけではなく、イベントの即時中止もありかねない。
参加者はそれを理解したうえで、イベントを頓挫させた下手人になるのを避けるべく、酔っ払いながらも抑制的に行動しているのが見える。それにしても避けられない事態というものは発生してしまうのは常なので、主催された方の胆力と情熱には頭が下がる。
わたしは気焔を上げるたちではないので、ほろ酔い気分で周囲を観察していると、盛り上がっていたはずのはるか先生が急に低い、不穏な声をあげた。
「一座建立だよ、広瀬ちゃん」
見ればわかりますよと軽口を返せる雰囲気ではなくなっていた。
「広瀬ちゃんはさあ、もっとアタックしないとね」
藪から棒とはこのことだ。
何を言ってるんだこの人は。
「ほら、あそこ!あの外国のお兄ちゃんに声をかけてさ、連れてきてよ!」
何を言ってるんだこの人は!
この酔っ払いが!
「ええ?わたし、そういうの超々苦手で」
「いいから!いいから!ほら早く早く!」
何がどういいのかはさておき、はるか先生の目は完全に据わってしまっていて、わたしをじっと岩のように見つめている。理屈とか理由とかは関係なかった。
わたしが断りでもすれば、今後ずっとこのことを言い続けそうな、そんな顔をしている。言う通りにしたらしたで、けろっと忘れてしまいそうなのに。
わたしは一瞬、先生たちに見捨てられそうだった時の感覚、ジェットコースターが落ちる直前のこみあげる不快感のようなあの感覚を意識して、胃が冷たくなるのを感じた。
見捨てられる恐怖は拭えていないのだ。たぶんこれからもずっと。ほろ酔い気分はすっかり雲散霧消してしまった。
「ゴー!」はるか先生は拳を突き出した。
この!絶対にいつか、この借りは返す!仕返ししてやる、しないでなるものか。
そう、こう、ぶっ飛ばす!いつかぶっ転ばす、必ず。
わたしはできる限りの力で先生を睨みつけると、件のお兄さんの元に向かった。彼はヨーコさんのブースでビールを買っている最中のようだった。
見た目は外国人で、たぶん西洋。どこの国かは想像がつかない。英語の方が良いのかな、それとも日本の同人イベントに来ているぐらいだから逆に日本語じゃないと失礼かもしれない。思考はぐるぐる巡る。見知らぬ人に声をかけるなんて、道で迷ってもしないのに!
酔っていなかったら絶対できない、と嘆きつつ、ええいままよと声をかける。
「す、すみません…。お時間いいでしょうか…?」
ビールを手渡していたヨーコさんがなんだかニヤニヤしているような。違う、そういうのじゃないです!そういうのじゃないとも失礼だから口にできないのがくやしい。
振り向いたお兄さんは怪訝そうにしながら、それでも嫌そうな態度は見せずに日本語で答えてくれた。よかった、やさしい目をしている。茶色のひげがキュートだ。
「どうしましたか?」
「ええっとですね、あそこの女の人がですね、プロの作家先生なんですけど、お兄さんとぜひお話がしたいそうなのでぇ…」
「いいですよ」
わたしだって何を言ってるのかよくわからなくなっていたのに、お兄さんはだいぶ大きな疑問符を抱えたままでも、快諾してくれた。助かった。急いでテーブルに戻って、はるか先生にバトンタッチ。
大したこともしていないのに、いや、わたしにとっては大したことだったけれど、喉が渇いて仕方がなかった。握っていたビールをぐっと飲みほす。悔しいくらい味がわからなくなっていた。
はるか先生はすっかり上機嫌になって、お兄さんにあれこれ質問したり、次回はぜひサークルとして参加すべきと檄を飛ばしている。なんでもオランダ出身で日本のゲーム会社に勤めているそう。日本語がびっくりするほど流暢なのも頷ける。
わたしは隣で静かにしながら、すっかり醒め切った頭で先のやり取りを反芻していた。
とても親切でフレンドリーな人でよかったけれど、そうじゃなかったとしたら。わたしはどれだけ食い下がれていただろうか。
日本語が話せない人だったとしたら、わたしは何を伝えられただろうか。ゼミで発表した時、教授に「何言ってるのか全然わからなかった」と苦笑されたトラウマが蘇る。本当にどうなっていたことやら。猛烈にムカついてきた。
「まさにこれこそ、一座建立!」はるか先生は満足気だ。好きだな、この人は。
はるか先生はわたしの声にならない抗議を意に介すことなく、カップを掲げてガッツポーズ。ここがビアホールなら肩を組んで歌い始めそうな勢いだった。
全く。エラい目に遭った。でも、はるか先生を含めて皆すごく楽しそうだし、ユイ先生とヨーコさんに挨拶もできたし、イベントは面白かったし。わたしも、楽しかったし。
これは珍しく、わたしもリセット成功かな。
わたしたちは閉会まで飲んで食べて、盃を交わした。
けれど、これだけでは済まなかった。
わたしはこの後、あんなに心を乱されることが起きるとは思ってもいなかった。