夕方になって同人グルメフェスは盛況のまま、閉会を迎えた。
手締めはアルコールの入った参加者たちの熱量を受けてか、耳に響くくらい、ことさら大きく聞こえた。皆プラカップを握り締めているものだから「よ~っお!」の声だけがやたらと張りがあって、手拍子が全然聞こえなかったのがおかしくて、笑ってしまう。
3時間以上ずっと立ちっぱなしで飲んでいたはずなのに、あまりに楽しかったものだから、全然疲れた感じがしない。屋内で同じテーブルを囲んでいたから、時間の感覚が曖昧だった。
閉会まで1時間を切っているのに新しいビールの樽を開栓したヨーコさんは覚悟が決まりすぎていて、わたしは戦慄したけれど、最後に飲んだポーターも美味しかった。
スタウトやポーターに特有の甘さと苦さのバランスがちょうど良くて、香り高い。尖った印象はないけれど、それだけに落ち着いて飲み進められる。クロージングにはぴったりだった。それぞれのビールをどの順番で、いつ開けるのか、とても勉強になった。
はるか先生といえば、『今日は仕事しない日』というあの宣言には偽りなく、まだまだ元気いっぱい。疲れなど知らない壮健そのもので、いよいよ気焔は激しく燃え上がり、万歳三唱でもしそうな勢いだ。
サークルスペースからようやく解放されたユイ先生やヨーコさんにもご挨拶。二人は互いの健闘を称え合っていて、安堵と満足感でいっぱいの、充実した表情をしている。
でもユイ先生は、ダメそう。へろへろだ。昼に会った時からへろへろだったけれど、今はもっとひどい。ちゃんと帰れるのかな。はるか先生とは逆のベクトルでこちらも大変そうだった。
ヨーコさんたちは流石に疲労の色が見えたけれど、やり切ったという感じでとっても嬉しそう。わたしたちは飲んでばっかりだったからちょっと申し訳ない気持ちがある。今度はどこかで、わたしがお酌しないと。
会場に残った酔っぱらいたちは、わたしも含めてなかなか動こうとしないものだから、主催者から退場のアナウンスが繰り返し発せられた。酩酊感だけではなく、名残惜しさがあった。それだけ、楽しい会場だったのだ。
「よおし、広瀬ちゃん。次行こう、次!はしご酒だあ!」
「はい!やった!」
はるか先生は疾風怒濤、向かうところ敵なしだった。その勢いのまま、はるか先生行きつけのお店に乗り込むこととなった。イベント中にそれとなく話していたとはいえ、わたしの勘違いだったらどうしようと怖くて、確認できなかった。
こんなに嬉しいことはない。前からずっと行ってみたかったお店で、はるか先生とサシ飲みだなんて。わたしが酔っていなかったら、そしてもう少し以前のわたしであったら、恐れ多くて逃げ出していたかもしれない。
でも今のわたしは、ちょっぴりの図々しさと、一期一会の大切さを知ってしまったものだから、この好機にひしと飛びつくのだった。いや、あるいは、こうなるように会話を誘導し続けていたかもしれない。どちらでもいいや。とにかく、わたしは舞い上がっていたのだ。
浮かれていたわたしが翼を折られ、叩き落とされたのは、会場から出てすぐのことだった。
―――
改札をくぐろうとした時、誰かが近付いてきて先生に声をかけた。
「あのっ、もしかして春河童先生ですよね?」
ファンの方だった。憧れの尊敬する存在に出会った喜びに満ちていた。まっすぐ、迷いのない、ストレートな感想をぶつけられる先生を見る。
作品のことが好きであっても、作家の姿まで知っている人は多くない。会場から改札まで、わずか50mあまりの距離。それだけなのに見つかって、呼び止められる。はるか先生はやっぱりすごいんだなあと驚く。
先生のすごさをわかっていなかったわけではないけれど。先生は尊大な態度を見せることが微塵もないものだから、ついつい忘れてしまう。
わたし自身は、自分を認識してもらうのが億劫なたちなのでサインをしてもらいに行ったり、サインをしている状況に出会うことがあんまりなかった。だから新鮮というか、ただ驚く。隣にいるわたしはいったい何者なのだろうと自嘲して、小さなため息が出た。
そうやって改札前でサインをしていると、さらに4、5名のファンが集まってきた。
はるか先生はもちろん快諾する。
「ここじゃ邪魔になっちゃうから、ちょっと別のところに行こっか」
わたしたちは人混みを避けて、駅前の開けた広場に移動した。花壇の近くは小さなサイン会場に早変わり。着物のお姉さんが囲まれているものだから、道行く人もなんだろうと好奇の目を向けている。
わたしは、わたしは、特にすることもないものだから、少し離れたところで先生の荷物を持って待機する。わたしの出る幕なんてない。蚊帳の外。だからといって、最初はどうとも思わなかった。
「ごめんね広瀬ちゃん、ちょっと待ってて」
はるか先生はわたしに気を遣って、少し申し訳なさそうな表情をした。
「すみません、お時間頂いちゃって」
「いえいえ、とんでもないです」
ファンの方たちはわたしが何者か掴めないようで、取り敢えずの会釈をしてきた。わたしもにこにこと、けれどぎこちなく会釈を返す。わたしには彼らを止める権利も意志もなかった。
そうやって暫く、先生たちを離れたところからただ見ていた。
会場でずっと隣にいて、とても近くにいた先生が遠くに感じた。手の届かない距離、溝。
囲まれているファンに、わたしが一切興味をもたれないことは自然なこと。なんとも思わない。これで嫉妬を覚えることなんて、ありえない。当たり前なんだから。先生がすごくて、わたしはすごくない、ただそれだけ。
わたしは、今のはるか先生のようになりたいのだろうか。別にそうではない。本当に?
実績も作品もない中で、ちやほやされたいと思うほど、うぬぼれていない。本当に?
ああなるのが目標ではないのだ。囲まれて、ちやほやされて、ほめられないわけじゃない。わたしは、自分の中の、自分しか書けない作品をただただ書き上げたいだけだ。
作家という状況に憧れているわけじゃないはずだった。作家として自身を貫き通せるか、作家として自身を証明できるか、そこに憧れがあったはずだ。
なのに、どうして、ここまでわたしはかき乱されているのだろう?
わたしの乱れた心は、わたしを凍り付かせ、硬直させてしまっていた。
感情に支配されたくなくて、この状況が受け入れられなくて、わたしは硬直してわたしの存在を希薄なものに変えて、やり過ごそうとしている。
普段であれば、先生と過ごせる貴重な時間を取られているとか、底意地の悪いわたしはむくれていただろう。でもこの瞬間、そういった雑念は一切思い浮かばなかった。
先生たちは動いていないのに、だんだんと遠ざかっていく。いや、遠ざかっているのはわたしの方なのだろうか。先生とファン、わたしはああいう関係に戻りたいのだろうか?わからない。そうではないはずだ。
ファンの方たちに対して、何かを思うことはなかった。先生により近くて先生をより知っているという優越感は痛みを和らげるどころか、わたしの心をさらに抉る。
わたしもかつてはあちら側にいたのだ。でも、わたしが選んで、これから進もうとしている道からはもう戻れない。春河童先生の一ファンに戻るには、もう引き返せないところにいる。
かといって、まだわたしは、先生たちの側に立てているわけでもなかった。わたしは何者でもないと同時に、どちらの側にも立てない宙ぶらりんな存在なんだ。
先生が嫌いになったとか、怖くなったわけじゃない。いつか肩を並べてみたい、一緒に面白いものを創ってみたい。そう願うようになってから、先生のただのファンではいられなくなった。
それは作家とファンの関係とは違うから。少なくとも、わたしは違うと思う。けれども、わたしは現に、対等な関係になんかなれていない。そんなわけがない。
わたしがその程度の存在だってことは、誰よりもわたしが理解している。
この埋められない溝、越えられない壁。
ファンである彼ら彼女らの存在は、わたしとはるか先生の間にある果てしない隔たりを突き付けてきた。いや、わたしに思い出させたのだ。
目の前が暗くなったり白くなったり、ちかちかと明滅する。だんだんと、どこにどうやって立っているのかもわからなくなってきた。何をしていたんだっけ?
わたしは、わたしの中の重心に向かって沈み込むようだった。崩れて、押しつぶされて、溺れる。
わたしは今ここに確かにいるのに。わたしという存在がここから、わたし自身からも遠くに撃ち出されて、飛んで消えてしまいそうな、けれど消えることがない、街中に舞うゴミ袋のようだった。
さきほどまで、あれだけ楽しかったことも嬉しかったことも、憤ったことでさえも、かき消されてしまった。怒りでも悲しみでもない、今のわたしの程度では言語化できない、重くて、ただ胸が苦しくて、心が身体の内側に沈みこんで、奥深く、取り出せないところまで落ちてゆく。
わたしは不甲斐なさの牢獄に押し込められて、あるいは、自分からその中に落ちて、全ての感覚が麻痺していた。暑いも寒いも、楽しいも苦しいも、嬉しいも悲しいもわからず、それが全て一緒くたにされてかき回されていた。
どうしたいのかも、どうすればいいのかもわからない。この場から逃げ出したい?全部滅茶苦茶にするほど暴れたい?どちらでもなかった。
囲まれているファンに、わたしが一切興味をもたれないことは自然なこと。なんとも思わない。これで嫉妬を覚えることなんて、ありえない。当たり前なんだから。先生がすごくて、わたしはすごくない、ただそれだけ。
完全に蚊帳の外にいるのだって、別に構わない。構いやしないさ。わたしは、何の実績も作品もないわたしは、そうなりたいと思うほど恥知らずではないのだから。
遠くまで逃げ出したわたしの意識が慰めの言葉をかけてくる。
はるか先生が人気なのはわたしも嬉しいよね。ただのお付きだと思われようが思われまいが、別に良いじゃない。隣に立てているだけで誇らしい気分になれる。
これがわたしもプロだったらしんどかったよね。自分のことは何者とも認識されなくて、他人がファンに囲まれているのを眺めることしかできないのだから。ああ、まだプロになれていなくて本当に良かった。
違う。違う違う!どちらも間違っている。
わたしは横に立っていて、これから2人で飲みに行くのかもしれないけれど、それは隣に立っていることを意味しない。物理的にそこにいるだけだ。隣に立つとか並び立つとか、そんなんじゃない。お付きなんて、わたしは望んでいない。
プロでないから辛くないなんて、そんなことがあるわけない。プロでなくとも、辛いものは辛いのだ。自らの創造力で、売文で、身を持とうとしているのだから。その夢を諦めきれていないのだから。相手がプロで、わたしが素人だろうと、関係ない。わたしより人気があることを目の当たりにして悔しいわけがない。
ああそうだ。悔しい。悔しいとも。個人的な恨みとか、先生を妬んでいるとか、そうじゃない。単に悔しいのだ。無視されたこと、なんでもないと思われたことがたまらなく悔しい。
悔しくてやるせなくて、どうしようもなくて、それ以外の感情が燃え上がっている。わたしを燃え上がらせている。憎い、憎かった。わたし自身に腹が立った。
何を浮かれていたのだろう、わたしは。
2人きりだとか、着物仲間だとか。浮かれていたのがバカみたい。バカなんだ。
わたし、今どんな顔してる?
思わず顔を手で触って確かめて、先生たちに背を向けた。
これ以上直視することは耐えられなかった。これ以上は。
そうやって果てしなく長い時間が過ぎて、ようやく先生は解放されたようだった。
「お待たせ、ごめんね」
「全然だいじょうぶです、さすが春河童先生です」
答えたわたしの声は、驚くほど乾ききっていた。
はしご酒。ふたりっきり。楽しいイベントの更にわくわくする延長戦。そのはずなのに、誰よりも先生の近くにいるはずなのに、とてつもない距離を感じていた。
先生はわたしの心境の何かに気付いているようだった。多分、わたしが何を考えているか聞こうとして、口を開いて、やめた。今はその先生の優しさが、気遣いさえも、堪えた。
どうやってお店まで行ったか、よく覚えていない。
あれだけ楽しみだったのに。
お店の前にかけられた赤い提灯が、痛いくらいに眩しかった。
店内のいたるところに貼られたメニューの数々に目移りする。心躍る風景であるはずなのに、わたしは凍り付いたままだった。常連である先生に注文をお任せする。
キレイに注がれたビールが目の前に置かれる。美味しい、けれど、とても苦く感じた。
わたしは口を開いた。
「ファンの皆さんの熱量、すごかったですね」
「そうだねえ、ありがたい限りだよ」
あれだけ啖呵を切って気焔を上げていたのが嘘みたいに、先生はふにゃふにゃの状態だった。
「いつもああいう感じなんですか?」
「どうだろう。作品次第ってところもあるからねえ」
いかにも職人気質なマスターがもつの刺さった串を焼き上げる。レバー、ハツ、シロに軟骨。滋味深さが余計にしみた。
「でも先生はやっぱり手慣れていましたよね。わたしだったらパニックになっちゃうかも。わたしは、まひろとか先生みたいにはいかないから」
思わず、言いたくなかったことまで口から滑り出た。
「慣れ、とはちょっと違うかもしれない。色々あったからね」
はるか先生はゆっくりと串を口に運んで、噛み締めてから続けた。
「まひろちゃんだって厳しい環境を切り抜けてきたからこそ、あれだけコミュニケーションがうまいんじゃないかな」
「それは、そうですね」
わたしには返す言葉がなかった。
もちろん最初から、先天的に何もかもうまくできる人はいる。でもほとんどの人は、大変な苦労を経験したうえで、どうにかしてこなすのだ。簡単なように見えるだけで、簡単にできるまでには相当な苦労と積み重ねがある。それを無視するのは浅はかなことだと先生は言っている。
先生の言葉にはその重みがあった。先生のこれまでの苦労は、断片的に伝え聞いたエピソードを繋ぎ合わせても、作家にあるまじき態度かもしれないけれど、想像がつかない。
先生の作品、今の地位、ファンは、すべて血の滲む努力の結果だ。
だから単に羨むのも妬むのも憧れるにも、相手の積み上げてきたものに対して想像力を巡らせて、思いをはせなければならない。
わたしの鬱屈とした感情の総和なんて、それに比べれば吹けば飛ぶ、気の迷い程度のものに過ぎない。
わかっている。わかっているけれど。だとしても、わたしは、今わたしの中を満たすこの感情を否定することができない。認めざるを得ない。
昼とは打って変わって、静かな食事だった。先生が限界そうだったので、わたしたちは店を後にした。何でもないわたしに、ここまでして付き合ってくれているのだ。
先生の家に向かう。先生は千鳥足で、布団が目の前にあれば飛び込んで寝てしまいそうなくらい、疲労困憊の様子だった。
酔って醒めてを繰り返してぼやけた頭の中に、一滴の染みが、邪な考えが芽生えた。
今なら。今なら、ぶっ飛ばせる。そうだ、今の弱り切った先生であれば、わたしにも。
手をかけることを想像する。普段なら敵わないけれど今なら、できる。
もし仮にそうしたら、わたしの溜飲は下がるだろうか。どんな気持ちになるだろうか。憧れと恨みは一時でも晴らされるだろうか。それとも、この断絶は覆らないだろうか。
それだけがわたしの為したことになったとしたら、どうだろうか。
先生が最後に見るのがわたしで、先生の最後を見るのがわたしだとしたら?
先生の後ろにぴったりと張り付きながら、そんな考えに夢中になっていると、家の前に着いた。
気分の良さそうな、満面の笑みで、はるか先生は言った。
「広瀬ちゃん、今日は楽しかったね!また遊ぼう!」
わたしはなんてことを想像していたのだろうか。
「…はい!ありがとうございました。またぜひお願いします」
後悔、自己嫌悪。慣れ親しんだ感情に支配されなかったのは、わたしにとっても意外だった。
はるか先生を手にかける、それは気の迷い、頭の体操に過ぎなかった。想像したうえで、わたしはそうしないことに決めたのだ。
はるか先生に見てもらいたいのは、わたし自身じゃない。わたしの作品なのだから。どれだけ隔たりがあろうとも、それを超えるのは作品によってしかありえない。
これがこの日の、わたしにとってのリセットだった。
(憧憬と〇〇 終)