前回に続いて城山八幡宮(名古屋市千種区)の話をしたい。
城山八幡宮は、戦国時代には末森城(すえもりじょう)という城があった跡地に建てられた神社である。歴史に詳しい人ならご存じかもしれないが、末森城は織田信長の父である織田信秀(おだのぶひで)が晩年に本拠地にした城として有名(というほどでもないが)である。
私も本小説とは別に歴史小説も同時並行で作成していることからわかるとおり、ちょっとした歴史好きであり、特に織田信長関連は地元でもあるのでしょっちゅう勉強しており、ちょっとは詳しいつもりである。
その勉強しているときにいつも疑問に感じていることがあって、何かと言うと、信長の幼少期から青年期において、父・信秀や母からの扱いが非常に冷たいというかぞんざいなことである。
上に信秀が晩年に住んだのが末森城と書いたが、そのとき信長はどこにいたかというと、幼いころ(少なくとも10歳頃までに)に那古野城(今の名古屋城の場所に昔あった城、末森城から10kmほど離れている)を与えられており、そちらで居住していたようである。
これを信長目線で見れば10km先の城には父と母と弟・妹たちが家族水入らずで過ごしており、一方で自分は那古野城でさびしく暮らしている。(もちろん家臣はいるが)
このとき思春期のまっさかりの多感な信長が、「ひょっとして俺、捨てられた?」と誤解してしまい(というか、その方が常識的な理解だろう)、家族の温もりを求めて拗ねたり非行に走ったりしたって無理もないだろう。
(だから私は、信長が若い頃に“うつけ”と呼ばれていたのは、ふりではなくて本当にグレていたんだと思っている)
しかもさらに、父・信秀は死ぬときにしっかりと信長を後継者にするような処置をとらなかったようであり、信秀死後も母と弟・信行は末森城に居住し続けているし、重鎮である柴田勝家とかも末森城勤務のままである。これだと家臣の多くが「信秀様の跡継ぎの本命は弟の信行様だ!」と思うだろうし、弟もそう勘違いしてしまうだろう。
で、結局、信秀の死の4年後に、信長と弟・信行との間に実際に戦闘(=稲生合戦1556、いのうがっせん)が起こるのだが、このときも林秀貞(=信長の家老)、柴田勝家(=信行の家老)といった、織田家の重鎮が弟・信行側についてしまい、当主であるはずの信長のもとには少数の兵しか集まらなかったために、合戦が始まると劣勢を強いられた。
そこでしかたなく信長が自ら槍を取って、柴田勝家の軍勢を怒鳴りつけて蹴散らし、林秀貞の弟(=林家の軍勢を率いていた)を一騎打ちで討ち取るという、まるでマンガか三國志のような大活躍によって、なんとか信長の勝利となるのだが、下手したら一兵卒に信長がやられて歴史が変わってしまうところであった。
なんとも本当に信長が当主だったの?、と疑いたくなるような状況であるが、これも両親の愛情不足ゆえの出来事といえるだろう。
(ちなみに、この経験と反省もあってか、20年後の信長の晩年時は、嫡子・信忠に家督を生前相続したり、軍の総大将に任命して家臣団を指揮させたりと、信長の死後に相続争いが起こらないようにしっかりとケアがなされている。まあでも本能寺の変の折に嫡子・信忠も死亡してしまうので、結局は相続争いが起こって織田家がバラバラに解体されてしまうのだが。)
なお、この稲生合戦のあと信長は母の嘆願によって信行を助命するのだが、信長から見れば母に対して冷ややかな思いだっただろう。
「あなたはこうして信行の命乞いはするけど、私があと少しで信行の軍勢に殺されるところだったのは何とも思わないのですか?」と。
さらに、この翌年に、弟・信行は再び信長に反抗しようとしたために、信長によって殺されることになるのだが、弟はともかく、この母親の方はなぜ毎回、弟が兄を殺そうとしているのを放置するのだろうか。(というよりけしかけているようにしか思えないのだが、、、母親が年若い子供たちとともに末森城を出て那古野城に移れば、家臣団も信行も信長が当主であることを認めるであろうに)
実の母親なら自分の子供らが争っていたら、両方を呼びつけて強制的に仲直りさせるものではないだろうか。「あなた方が殺し合いをするのはもう見たくない。あなた方が今この場で仲直りしないのなら、この母が今ここで死のうと思います」みたいなことを言って。
* * * * ** ** * * ** *** *
私が城山八幡宮(末森城跡)に参拝するたびに、いつもそのようなことを考えていたのだが、あるとき参拝すると、境内に見慣れない建物があった。
私は「いつのまにこんな建物ができたのだろう」と不思議に思いながら前を通り過ぎようとすると、表に立っていた年配の人から、「あなた、歴史に興味があるのなら、織田家に関する資料とかあるから、寄って見ていきませんか?」と声をかけられた。
その人は弓道やる時のような着物を着ていた。私はその人のことを、きっとここの神主さんだろう、と理解し、なにか面白い資料でもあるかも、と思って、寄っていくことにした。
建物に入ると狭い和室に通され、そこでその神主さんからいろいろな資料を見せてもらいながら、織田家の歴史についていろいろなことを教えてもらった。(残念ながらその後、ほとんどのことを忘れてしまったのだが)
で、話が盛り上がったついでに、前から疑問に思っていた織田信長の母のことを聞いてみた。弟には愛情を注ぐのに兄の信長には冷たすぎるのではないか、普通に平等に接していれば兄弟の殺し合いも起きなかったのではないか、と。
神主さん(らしき人)は、「ああ、それね。」と言って、奥に入って、一つの書物を持ってきた。織田家の血縁関係みたいなものが細かく書かれた系図みたいなものだった。
それを見せてもらいながら以下のような説明を受けた。
〇信長は、正妻(正確には継室だが)のお子ではなく、信秀の十何番目かの側室のお子である。
〇正妻に子ができなかったため、信長が正妻の養子となった。
〇養子にはしたものの性格的に合わなかったため、正妻と信長はあまり交流やつながりはなかった。
「さすが織田家の本拠地だったところだ、すごい資料が残っているなあ」と感心した。
その後も桶狭間の戦いの真相とか、いろいろ話をして盛り上がったが、しばらくして話も尽きてきたので、また来ます、ということでその場を辞したところで目が覚めた。
* * * * ** ** * * ** *** *
夢であった。神社に参拝したところから。
しかし興味深い内容であった。
織田信長は十何番目かの側室の子・・・・初めて聞くことであったが、もし本当にそうだとしたら、常々感じていた信長と母とのつながりの薄さとか、その他いろいろな不自然なことが、すべて整合性のとれるものになる・・・ひょっとしたら真実ではないか、、、そう思っていろいろ調べてみたのだが、調べれば調べるほど、どうも本当に真実なのではないか、と思えるようになってきた。
以下にその調べた内容を書こうと思ったが、まあ本小説のテーマは占いであり、歴史の検証ではないので、その部分は割愛したい。
この占い小説が完成したら、次は戦国時代を題材にした歴史小説を書いてみたいと考えているので、もしそうなったら、そのときのネタとして使うことにしよう。
前回のあとがきで、「ガラケーの時計が3:00で止まったので、これに関する鑑定の依頼が近々来るのだろう」と書いたが、その後、ちゃんと依頼人が見つかった。会社の健康管理室の女性であった。
流れを言うと、その後、健康管理室の人との面談があって、私が以前に受けた人間ドックの結果についてのフォローがあったのだが(太りすぎですよとか、生活習慣を改めななさいとか説教されるやつ)、その時に私が占いをやっているみたいな話になって、そうしたら、その人から「私も占ってくださいよ」と依頼があった。
その人の誕生日を聞くと3/30であったので、たぶん、これなのだろう。
なぜガラケーの時計が止まったのが3:30ではなくて3:00だったのかはよくわからない。
この人は3がラッキーナンバーあるいは支配数みたいなものなのだろうか。