ともかくサクラコ様には会えた。前とは違って大聖堂の一角にあるベンチだ。
「お待ちしておりました。先生、シスターリリハ」
“や、連れてきたよ。サクラコ”
やはり初めからそのつもりだったのだろう。私をサクラコ様に会わせる魂胆だったのだ。もはや何も思わない。ただ今は、サクラコ様を見るのが怖かった。目を合わせることがこんなにも難しい事だとは思わなかった。
「まず、座りましょうか」
先生は飲み物を買ってくると言って場を離れた。この辺りに自販機は無い。急ぐ様子もなかったから、もう戻ってこないだろう。私かサクラコ様が口を開かなければ場が持たない。緊張で指一つ自由にならない。私はサクラコ様の前で俯きながら突っ立っている。
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
一瞬だけサクラコ様を見た。頭を下げたからそんな風になった。だが本当のところは怖くてそうしたのだ。体が小さく震えて、肺の拡がる感じがする。さっきより深く下を向いた。
「心配しました」
サクラコ様が私の手を取って、緩く引いて私に座るよう促した。それはカチコチになった体が解けるような温かさだった。じんわりした熱に逆らえなかった。
「今度こそ、ゆっくりしましょう」
「……はい」
私の手は取られたままだ。サクラコ様の熱が伝わってくる。その熱も声も優しいと感じた。この人はやはり高潔で慈愛に満ちている。私のような人間が触れてよい存在ではないという思いが強まるも、振り払えないでいて、握られた手はサクラコ様の膝に置かれている。とても苦しい。
あまりこの区画に覚えがない。人払いが済んでいるのか、そもそも人気のないところなのか。偶に鳥が鳴いているのが聞こえる。晴れていれば格別に心安らぐ場所となるだろう。それで外ばかり見て、サクラコ様のことを見ていないのを思い出した。しかし首は言う事を聞かない。
「ここは、晴れていればとても……とても眠たくなるんです。人もなかなか来ませんから、ここで眠ってしまうと時たまに行方不明として正義実現委員会に通報が行きます」
ここは静かだからサクラコ様の声がするすると頭に入って来る。ただただ、そうなのかと思った。誘拐するにはお誂え向きなのだと言っているようには聞こえない。なぜかは分からない。そのワケにたどり着けるだろうか。いつかはきっと来ると信じるしかないと脳裏で響く。何かおかしい気がするが、悪い気はしない。ぬるま湯に浸かるような不思議な感覚だ。
「確かに、とても心地のいい場所ですね」
もしかしたら一睡もしていないせいかもしれない。一頻り体を動かしてから受ける文学の授業のようでもある。そうすると、私はいま眠りたがっているのか。心身が一致していない。私の体は、サクラコ様に謝罪しサクラコ様と話し続けたい心を裏切ろうとしている。
「気に入ってくださいましたか」
「……はい」
「それはよかったです」
もっとまぶたが重たくなった。これではいけないと思って立ち上がると、体が引っ張られた。そういえばサクラコ様に手を握られっぱなしだった。もやい綱のようだ。しかし、そのちょっとした衝撃で眠気が覚めた。それから、やっとサクラコ様を見た。
「どうされたのですか、リリハさん?」
私は、私という人間がとてつもなく自分に甘い事を知った。私は今、喉元まで来ている言葉をぎりぎり吐き出さずにいる。これを吐いてしまえば、私はもう形すら人でいられなくなるような気がしたのだ。人でありたいと思ってしまった。だが、トリニティから逃げ出す最後のチャンスを失ったと分かった。
「……座りましょう」
固まったままよりは幾分マシだ。もう一度座った。軽く腕を引かれるまま、さっきよりサクラコ様に近づいている。私はサクラコ様に向き合わなければならない。
「この二週間で考えたことがあります」
サクラコ様の握り方が少し強まった。私はサクラコ様を見た。その口から何が語られるのか。恐怖心が起こった。返事が出来ない。横顔は鋭い雰囲気がある。今度こそ、本当にぱちんと切られてしまうかもしれない。
「多くはシスターフッドのこれからについてですが、あなたの事も考えていました」
「……ご心配をおかけしました」
「いいえ……以前にお話ししたときに零した『ある疑惑』を覚えていますか」
そういえばそうだ。とても重大な事だと言っていたが、肝心の中身がさっぱりだ。あの時はサクラコ様から逃れたい気と諦観でいっぱいだったが、向き合わなければと思えば素直に聞ける自信があった。
「あれは私自身についてのことでした」
聞けば、「ある疑惑」を「お話」をする中でそれとなく確かめていたとのことだった。そして次第に疑念は確信へと変わり行き、先生を呼んであの演説をさせたのである。
「私は人々に恐れられている。それは揺るぎない事実なのです。それを解消するためにいろいろとしてきたのですが……現状は芳しくありません」
つまり、サクラコ様は自らの行いが私を引きこもらせるに至ったというのだ。それは違うと言おうにも、口を開きたくなかった。内心に溜めた言葉の一片でも外に出せば、きっと雪崩れだし、ぐずぐずとサクラコ様に投げて、傷つけてしまう。そんなことはしたくない。
「このシスターフッドを心安らぐ場所として提供できるように、私は目指しています……ですが、正直なところ、自信が無くなってしまいました」
私はもうサクラコ様に目を向けられない。私は、私を殺したい。私のような人間のせいで、尊い人の心が壊れてしまう。許されることではない。どうにかしなければならないが、私ではどうしようもない。
「それでも、どうか諦めないでほしいと先生は仰いました」
いつの間にかサクラコ様の手を握り返していた。何をしているのだと困惑する半面で、これで良いと感じる心があった。気分が悪くなった。私のこころは一つではないらしい。
「リリハさん。あなたはシスターフッドの一員です」
じくじくと胸が痛んだ。サクラコ様の芯のある声が私をやさしく射殺した。いますぐに手を払って逃げ出したかった。それなのに体は動かない。優しさに縋りたい根底の私が、体を支配している。
私のように根底で人を信じない人間は救われてはいけない。いっそサクラコ様の手を振り払って、サクラコ様の優しさを裏切る言葉を吐いて、この身一つでトリニティから出て行ってしまえれば、どれほど楽だったろう。それが出来ないのは、自分のために誰かを傷つけることを恐れるからだ。結局は、方法が異なるだけで傷つけることに変わりないのに。
「誰しも語るに語れない事や、時には吐き出したい事の一つ二つはあるでしょう。たとえ語れなくても、語れない事があると知ってもらえるなら、それを受け入れる場所は皆の居場所となり得ると、私は思います」
シスターフッドがそういう場所であればいいと、サクラコ様は言う。尊い考えだ。救われるべき人が救われる場所が、ただそういうだけの場所ではないようになる。サクラコ様の温かい心が人に伝わればいいと思う。しかし、私はそこに居てはいけない。私という人間は、あの部屋のように冷たい世界の住人なのだと知った。サクラコ様はその世界の人ではない。それでも暖かい所から手繰り寄せるように私の手を掴んでいる。それは優しさだった。どうして、この人はこんなに優しいのか。
「本当に、それでもよいのですか」
「もちろんです。私がそうなのですから」
サクラコ様はすこし気恥ずかしそうな声で笑った。私はその声に返事できない。胸がじくじくと痛みだしては微睡むような温かさで鈍くなるのを繰り返している。これが私の弱さをまざまざと見せつけてくるのだ。
サクラコ様の目を見てしまって、乱暴に突き放そうとする心が折れてしまった。それが出来ないのならば、私はサクラコ様に向き合わなければならない。だというのに、自身の性根を理由にサクラコ様から遠退きたいと駄々をこねて騒がしい。根底の私は唾棄すべき存在だ。そうだ、殺してしまおう。これは正しい事だ。自信が湧いてくる。
もう誰も傷つけないように私を殺して生きていこう。根底の私を、新しい私で塗りつぶしてしまえ。だが、バレてはいけない。奥の奥に秘密のように隠し込んで、いずれ忘れてしまうつもりだが、それは結局のところ嘘を吐き続けることに外ならない。この嘘が看破されたときが、私の終末だ。今以上にサクラコ様を苦しめるだろう。それでも、サクラコ様の優しさに応えられるなら今までの私なんて要らない。
「サクラコ様、私はサクラコ様にとても酷い事をしました。重ねてお詫び申し上げます」
「構いません。それで……シスターフッドには残ってくださるのですか?」
「はい。私は、きっと酷く拗れた考え方をしてしまっていたのだと思います……サクラコ様」
「なんでしょう」
固く結ばれていたはずの手は、私が腕を引くと驚くほど簡単に解けた。だんだん体が冷えていく。今日は少し寒い。
「また明日から、よろしくお願いします」
「……ええ、張り切って参りましょう!」
サクラコ様は笑った。この笑顔に嘘はない。私の笑顔はちゃんと作れているのだ。
これで終わりです