祥子は病院の個室に足を踏み入れた。
Ave Mujicaの解散後、睦は精神的な限界を超え、入院していた。
世間のバッシングは彼女にも容赦なく襲いかかり、「親の七光りでバンドにいただけ」「仮面を外して注目されたのも親のおかげ」といった言葉が、彼女の心を深く傷つけていた。
睦は病室のベッドで膝を抱え、誰とも話さず、ただ静かに閉じ籠もっていた。だが、その日は違った。
部屋の空気が急に冷たくなり、睦の瞳が虚ろに変わった瞬間、彼女の口から低い声が響いた。
「また来たんだ、祥子ちゃん。悪いね、おもてなしできなくてさ」
それはモーティスだった。睦のもう一つの人格が、再び姿を現したのだ。祥子は一瞬息を呑んだが、気を取り直し、優雅な仕草で椅子に腰掛けた。
「調子はどうですの?」
モーティスは冷たく笑う。
「駄目だね。睦と私の切り替えが上手くいかない。突然切り替わったり、逆にずっと出現したり。あの子はもういないと考えたほうが良いかもね」
祥子は唇を噛み、モーティスの言葉に耐えた。彼女は静かに切り出した。
「私、知っておりますわ。睦がどれほど傷ついているかを。世間の下卑たバッシングが、彼女を閉じ籠もらせてしまったことも。『親の七光り』などという無礼な言葉で、彼女の努力を踏みにじったことも」
モーティスの目が鋭く光った。
「仮面を外した日から、あの子は視線に耐えきれなくて、毎晩泣いてた。『親のおかげ』って言われるたび、自分が価値のないゴミみたいに感じてた。責める気は無いけど、状況はかなり厳しいよ」
その言葉が祥子の胸を抉った。彼女の目が潤み、声が震えた。
「私……確かに全てを守れませんでしたわ。睦の苦しみを、十分に理解できなかった罪は、わたくしにもございます。でも……だからこそ、今ここに参りました」
モーティスは黙って祥子を見つめた。彼女は深呼吸し、心からの言葉を紡いだ。
「モーティス、貴女が睦を守ろうとしているのは分かりますわ。貴女は彼女の一部であり、彼女の盾なのでしょう。ですが、聞いてくださいまし。私は睦とモーティスの味方です」
どんなバッシングがあろうと、どんな無礼な言葉が彼女を傷つけようと、わたくしは睦を見捨てない。
彼女の努力も、音楽への想いも、わたくしは知っている。
「親の七光りなどでは決してない、彼女自身の輝きを…」
モーティスの表情が一瞬揺れたが、すぐに冷たく言い返した。
「格好良いけど、綺麗事なんだよ。それはさ。祥子ちゃんがそばにいたって、世間は変わらない。睦はもう立ち直れないよ。私があの子を守る。それでいい」
祥子は立ち上がり、ベッドに近づいた。彼女の声は優しく、しかし力強かった。
「いいえ、貴女一人ではございませぬわ。わたくしがいます。初華も、きっと他のみんなも……睦が閉じ籠もっても、わたくしはそばにいます。彼女が再び笑える日まで、どんな時も味方ですわ」
モーティスはしばらく黙り、祥子をじっと見つめた。その瞳に、ほんの一瞬、睦の怯えた光が混じったように見えた。
祥子はそっと彼女の手を握り、温もりを伝えた。
「睦……わたくしは貴女の味方ですわ。どんな時も…そばにいますから」
睦の目から涙がこぼれ、彼女は小さく頷いた。モーティスはまだ疑いを持っていたが、祥子の決意が睦の閉ざされた心に微かに届いた瞬間だった。
病院の個室は静かで、白い壁と消毒液の匂いが漂っていた。
モーティスはベッドに座り、膝を抱えたまま窓の外を見つめていた。
解散後のバッシングと「親の七光り」という言葉に傷つき、閉じ籠もっていた彼女だが、祥子の訪れと「味方」という言葉が、彼女の心に微かな変化をもたらしていた。それでも、まだ立ち直るには程遠く、表情は虚ろだった。
ドアがノックされ、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、長崎そよだった。MyGO!!!!!のメンバーであり、かつてAve Mujicaと関わりのあった彼女は、手に小さな花束を持って入ってきた。
「久しぶり。睦ちゃん。お見舞いに来たよ」
そよの声は明るく、率直だった。彼女はベッドの横に椅子を引き、気軽に座った。睦は、そよをちらりと見て、小さく頷いたが、言葉は出なかった。そよはそんな彼女を見て、少し眉を寄せた。
そよの観察と気づき
「睦ちゃん、ずいぶんやつれてるね。大変だったね、色々」
そよは花束をテーブルに置き、睦の顔をまじまじと見た。目の下の隈と痩せた頬が、彼女の苦しみを物語っていた。
そよはAve Mujicaの解散やバッシングのニュースを耳にしていたし、睦がどれだけ繊細かを知っていた。
「世間の人達、ひどいこと言ってるみたい。『親の七光り』とかさ……そんなの、睦ちゃんが頑張ってきたこと知ってるやつには分かるよ。私だって、睦ちゃんのベース聴いて、すごいって思ったもん」
モーティスの目が一瞬揺れ、そよを見つめた。だが、すぐに視線を落とし、小さく呟いた。
「……ありがとう。そよちゃん。でも…もう、いい……んだ」
その声は弱々しく、諦めが滲んでいた。そよはそれを聞いて、少し苛立ったように頭をかいた。
「いいわけない。ここにいても意味はない。睦ちゃんには刺激が必要なんだと思うよ」
そよは立ち上がり、ベッドに近づいて睦の肩に軽く手を置いた。彼女の目は真剣で、優しさに満ちていた。
「もし外出許可が取れたら、私たちMyGOの練習、見に来ないか? 睦ちゃん、音楽好きでしょう? だったらさ、ちょっと外に出て、私達が音出してるの見てみない?」
睦は目を丸くし、そよを見上げた。言葉が出ず、ただ驚いたように瞬きを繰り返す。
そよは笑って続けた。
「MyGO、最近けっこういい感じなの。燈ちゃんが歌って、私がベースでさ。たまにケンカもするけど、なんか楽しい。睦ちゃんにも、それを感じてほしいの」
睦の手が震え、膝を握る力が強くなった。そよの提案は、彼女の閉ざされた心に風を吹き込むようだった。だが、すぐに不安が顔を覗かせ、彼女は小さく首を振った。
「私…外に出るの、怖い…。また、見られる…」
そよはそれを聞いて、少し声を低くした。
「分かるよ、怖いよね。でも、私達がいるよ。燈ちゃんも、私も、睦ちゃんを守るから。練習なんて、ただのスタジオだよ。誰もお前を責めないし、好きなだけ見てればいい。どう?」
睦はそよの真っ直ぐな瞳を見つめ、胸が締め付けられるのを感じた。祥子の「味方」という言葉が頭をよぎり、今度はそよの優しさが心に響いた。彼女は目を伏せ、かすかに呟いた。
「……考えさせて…」
そよは笑う。
「うん、無理にとは言わねぇけどさ、許可取れたら連絡ちょうだい。私、楽しみにしてるから」
そよは立ち上がり、花束を指差した。
「これ、置いてくよ。なんか元気でる気がする。じゃあね、睦ちゃん。また来るから!」
そよが部屋を出ると、睦は花束を見つめた。色とりどりの花が、彼女の暗い心に小さな光を投じた。そよの提案が、閉じ籠もる彼女に新しい刺激を与える一歩となるかもしれない。
そんな予感が、睦の中で静かに芽生えていた。
睦は長崎そよに連れられ、MyGO!!!!!の練習が行われる小さなスタジオに足を踏み入れた。
入院生活で閉じ籠もっていた彼女にとって、外の世界はまだ怖かったが、そよの真剣な誘いを断れなかった。
スタジオの中では、燈が歌い、そよがベースを弾き、他のメンバーが音を重ねていた。ぎこちなくも熱い演奏が響き、睦の胸に懐かしい感覚が蘇った。Ave Mujicaの音楽が遠くに感じていた彼女に、MyGO!!!!!の純粋な情熱が刺さった。
練習の終盤、睦は無意識に涙を流していた。音楽が彼女の心を揺らし、閉ざしていた感情が溢れ出した。祥子の顔が頭に浮かび、「味方だ」と言ってくれた彼女に会いたい、謝りたいという思いが抑えきれなくなった。
「……さき…会いたい…ごめんなさいって……言いたい……」
小さく呟き、睦は立ち上がった。そよが驚いて「睦ちゃん、どうしたの?」と声をかけたが、彼女は返事もせずスタジオの外へ飛び出した。
外の空気が冷たく、街の喧騒が耳に響く。睦は走り出し、祥子の家を目指そうとしたが――その瞬間、頭の中で声が響いた。
「待って、待って、待って。段階を刻もう」
モーティスだった。彼女のもう一つの人格が、再び現れた。
人格の入れ替わりと路上の混乱
睦の足が止まり、身体が震えた。
次の瞬間、彼女の表情が一変し、焦った顔のモーティスが口を開いた。
「祥子ちゃんに会うのは良い。謝るのも良い。だけど、今すぐは早い。ここは外なんだ。落ち着ついて」
睦の声がすぐに割り込んだ。
「私、謝りたい。さきに……」
涙が頬を伝い、彼女の瞳が揺れた。モーティスが再び支配を取り戻し、鋭く言い放つ。
「睦ちゃんは何も分かってない。謝るのは良い。だけどまずはMyGOのみんなと話すべき。お礼を言ったりとか!」
睦が叫び返す。
「やめて…私、前に進みたい……! さきに謝る……!」
路上で、睦とモーティスの人格が次々と入れ替わり、声が切り替わる。彼女は立ち止まり、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
涙を流しながら祥子を呼び、モーティスがそれを否定する会話が、まるで一人芝居のようだった。通行人たちが異様な光景に気づき、スマホを取り出して写真や動画を撮り始めた。
「何あれ?」「やばい、撮っとこ」「あの子、Ave Mujicaの睦じゃね?」
ざわめきが広がり、睦の周りに人だかりができた。
長崎そよはスタジオから追いかけてきて、その光景に飛び込んだ。睦が混乱し、泣きながら頭を抱える姿と、群がる通行人の冷ややかな視線に、彼女の胸が締め付けられた。
そよは即座に睦を庇うように覆いかぶさり、叫ぶ。
「撮らないでください、撮らないでください!」
彼女は睦を庇うように近づき、肩を抱いた。
「睦ちゃん、大丈夫だよ…私、いるから……」
通行人の中には「何だよ、うぜぇ」と呟く者もいたが、そよは構わず睦を支えた。
「お願いですから、撮らないでください」
その切実な訴えに、数人がスマホを下ろしたが、好奇心に駆られた者たちはまだ遠くから撮影を続けていた。
そよは睦を強く抱きしめ、彼女の震えを抑えようとした。
睦の声が小さく漏れた。
「そよ……ごめん…私、さきに…」
モーティスが割り込み、低く唸った。
「睦ちゃん、話を聞いて欲しい。祥子ちゃんと話すなとは言わないから、今日はとりあえず病院に帰ろう」
再び睦に戻り、涙声で呟く。
「でも……私、謝りたい……祥子に……会いたい……」
人格が入れ替わるたび、睦の身体が震え、混乱が深まった。そよはそんな彼女をしっかりと抱き、耳元で囁いた。
「うん、分かった。祥子ちゃんに会いたいなら、私が連れていってあげる。私が守るよ」
その言葉に、モーティスの気配が一瞬弱まった。
そよは睦を連れて人だかりを抜け、近くの路地に逃げ込んだ。通行人の視線から解放され、睦はそよの腕の中で小さく息をついた。
彼女の心はまだ揺れていたが、MyGO!!!!!の音楽とそよの支えが、祥子への想いを抑えきれなくさせていた。モーティスは黙り込み、睦の涙が静かに地面に落ちた。
「……ありがとう……そよ…」
そよは睦の頭を撫で、笑った。
「いいよ。睦ちゃんが元気になれるなら、手伝うよ」
睦は小さく頷き、混乱の中で一歩を踏み出す決意を固めた。
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