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あの日の事を竜華キサキは忘れることができない。
退学処分を言い渡した時の申谷カイの憎しみと失望が浮かぶその顔を忘れることはできない。
彼女の主張を封殺し、伝統を捨てて、問答無用で目先の事件解決を図り、真実を闇の中へ捨てた自分を、申谷カイは許さないだろう。
復讐する、と言われた時、当然だと思った。そして、彼女が歪み続けた理由が自分であると思い知った。
申谷カイとはそこまで仲の良い相手ではなかった。
親友でない。友人ではない。たまたま目が合えば挨拶する程度の顔見知り。家に遊び行ったり、外へ行くことも無かった。
だが、申谷カイは仙丹に詳しく、それはつまり薬に詳しいということ。病気に詳しいということ。
竜華キサキの体が弱くなる原因を作った彼女だ。その後遺症は未だ尾を引いている。
だからしかし竜華キサキは、申谷カイを恨んではいない。むしろ尊敬すらしていた。
他者を踏みつけにしてでも、ひたすら己の目標に前進する姿は、破滅的だからこそ美しく、そう有れない者を魅了する。
堂々と、自信満々に、不敵に笑う姿が心の天蓋に焼き付いている。
竜華キサキが門主となり、その第一の仕事として申谷カイに審判を下す時、自分で良かったと思った。
彼女に関わる不幸は全て自分が負いたいと思うほど、竜華キサキという人間は心底、申谷カイに憧れていた。
山海経の状況を変えたいと願う自分だからこそ、申谷カイの強さが理解できる。
その怪物的な精神異常が、周囲を喰らうのに納得ができる。
他者に配慮しかできない自分と、自分にしか眼中がない他者。
鏡だからこそ憧れる。
心を奪われる。
その心を自分に向けてしまいたくなるほどに。
「遅かったね、キサキ。日が暮れているよ」
「どこかの誰かが派手にやらかしてけれたからのぅ。収拾する側のことも考えてほしいものじゃ」
「誰がそんな事を望んでいるんだい? 相変わらず軸がブレているんだねぇ」
「川の中の声が聞けないそなたにはわからぬじゃろうて」
「喋る努力をしない音を聞く必要が? それで一度負けて逃げた門主が、何を言いに来たのか聞かせてくれるかい?」
「そうさな。どうやら、そなたに言いたいことがあるのは妾だけじゃないようじゃ」
「ほう?」
前に出てくるのは薬子サヤ。
「久しぶりなのだ。カイ先輩」
「これはこれは、誰かと思ったら後輩さんじゃないか。ククッ、私がいない間に錬丹術研究会を運営するのに苦労したようだねぇ?」
「ボク様に取ってはカイ先輩は何もわからない人なのだ」
薬子サヤにとって申谷カイは理解不能な変人だ。
神仙に至る為に仙丹を研究するのは理解できる。しかしそれ以外に何をしたいのかがわからない。
人を傷つけ、搾取し、惑わせる。
意味ないだろう、そんな事。
馬鹿なんじゃないの? 神仙に至るんじゃないのか?
そんな毒にも薬にもならない無駄なことをして何になるというのだ、と薬子サヤは思う。
「何を言うのかと思ったら、君は私と同じだと思うがねぇ」
「どこがなのだ?」
「君の調剤記録は調べさせてもらったよ。薬の開発を口実に、色々な実験をしていたのは君も同じじゃあないか」
「違うのだ。ボク様の作った薬は……!」
『サヤの薬は、サヤ自身の幸せのためではなかったよ』
申谷カイは、口を挟んできたシャーレの先生へ目を向ける。
「貴方がシャーレの先生か。貴方も実験対象になっていたようだけど、それでもサヤを庇おうとするのか。実に興味深い」
『偶に困ったこともあったけど、サヤの視線はいつも他人に向いていた。薬と引き換えに富を得ようともしなかったし、人々の不幸がなるのを防ぐために様々な損害にも耐えてきた』
「そこが問題だよ。薬子サヤは他人に配慮しすぎるきらいがある。失敗と副作用を恐れていては、何も成し遂げる事は出来ない。不利益が利益を上回るならば問題視する必要ない。自分の研究を進めないで他人を気に掛けるなんて、随分と余裕があるんだねぇ」
「カイ先輩が誰よりも進んでいるのは理解しているのだ。でもやっぱり先輩のやり方は、みんなを不幸にするだけなのだ」
申谷カイは肩の力を抜いて、リラックスした様子で怪しげに笑う。
「それはそうだろうねぇ。究極の仙丹なんて万能薬は、できてしまえば争いの火種だ。利益よりも不利益が高くなる典型だろう。けどやる。目指す。何故だろうね? やりたいと思ったからだ。確かめてみたかったからだ、自分が成し遂げられるのか。神仙がどのようなものなのか」
「だったらやめるべきなのだ、そんなことは」
「前にも同じ話をしたねぇ。幸せの定義は自分で決めるべきだ。自分に何が足りないかわからない愚者に、自らの幸せの方向性が決められないだろうけどねぇ」
「…………」
「求められたから、足りない部分を埋めてあげたというのに、そのせいで不幸に成ったという文句を言う恩知らずばかり。失敗から学べよ、それが人間だろ」
「そなたの薬で身体を壊した生徒を覚えているかの? それともそんな些事、覚える価値が無かったと?」
キサキが問いかける。
「覚えているよ、貴重なサンプルだからね」
「ならば、その生徒を治療するために、自分の研究をできなかったことも知っておろう?」
「無視すれば良いよ、そんなの。ハッキリさせておくけど、薬を望んだのも本人。副作用を恐れない、もしくは必要ないと聞かなかったのも本人。服用したのも本人だ。そして副作用の治療を望んだのも本人。薬剤を造る者としての責任は十分果たしているだろう」
「自らの願望を正確に把握できている者は少ない。その選択がどのような結果を招くのか理解が及ぼず、結果に耐えられないことも多々ある」
「それこそ良い薬といえるだろうねぇ。自分の愚かさを反省し、次へ活かす。それが人間だ。他者の責任まで我々が負う必要はない。その観点には同意できないねぇ」
「我らは皆、凡夫である部分を持っている。じゃから、互いに寛大に接するべきではないか? という話をしておるのじゃ」
申谷カイは頷く。
「その話ならば同意できる。人間は均一ではない。能力に差があり、その特性ごとの優劣がある。だからこそ互いの違いに気を配るのは人間社会を形成する上で効率的かつ実践的な話だ。しかし、優秀である者や、人より真面目で誠実な人間に、そのしわ寄せがいくのはおかしいとは思わないか? キサキ」
「それも含めて凡夫という話じゃ。優れているのならば多少の不利益には目を瞑るしかないじゃろうて」
「恩恵もないのにか。ある程度、自主性のある学園ならばそれも良いかもしれないけどねぇ。この山海経は例外の一つだろう」
「何の話じゃ?」
「伝統を言い訳にして、嫌なものは全部他人任せだ」
申谷カイは、大きくため息をつく。
「この山海経は、責任逃れしかできないような案山子ばかりという話さ。君だって、それは実感しているだろう? 都合の悪いことは全て門主様のせいで、自分は命令に従っただけ、だから悪くないし、謝りたくない。耳を塞いで知らない、自分じゃない、ほかのみんなが悪いの一点張り」
「…………」
「私を受け入れろ、キサキ。私なら君の力になれる。仙薬を作らせてくれるのならば、人に危害を加える真似はしないし、君の完全な治療もしよう。自主性を放棄して流れされるまま、文句だけを垂れ流す俗物たちに尽くす真似はやめるんだ」
シャーレの先生は、言葉尻が熱くなる申谷カイの様子に、意外という心情を抱いた。
「やつらは尽くしても報われない。それどころか害悪となる存在だ。頭のない猿。そんなものは力で抑えつけて、餌を与えておけば良い。家畜と同じ扱いでも構わない。捨てるべきだ」
「断言しよう。凡夫の一人として告げよう。ここにそなたの居場所はない」
「劣等に自分の体を切り分けて何になる。自分の価値を下げるな。君は……こんな山海経でも唯一無二の、優れた人間だろうに」
「優れているわけではあるまいよ。たまたま妾が、門主という人身御供に相応しかったというだけの話じゃ……それにそなたに大きな傷を与えた。その罰を受けなくてはな」
「そこまで理解しておきながら、何故だ。捨ててしまえば良い。重荷なんて。人の願望を叶えるだけの人生になんの価値がある。人生は一度だけだ。自分の望みを叶えず、俗人の顔色を伺うだけなんて寂しいだろう。虚しい筈だ。苦しく、辛く、冷たい」
「それでも、妾は人が醜いだけではないと知っているからの。無碍にはできんよ。悪いだけの人はいない、良いだけの人間もいない。だから、妾は人を助けようと思う」
申谷カイは凍えるような冷たい声で言った。
「失望したよ、キサキ」
「ふふっ、妾に対して復讐を誓っているというのにとんだ言い草じゃな?」
「そんなに愚者の王でいたいかい? 粗雑な者に情をかけるのがそんなに楽しいと? 祭り上げられ、偽りのお世辞がそんなに欲しいか。そんなに……奴隷でいることが誇らしいか」
「門主とは元来そういうものじゃ。面倒事を背負う為の役職じゃ。そして、今のそなたを作り上げたのは自分自身じゃ。他者を見下し、傲慢に溺れた。故に追放される。至極真っ当な話じゃ」
「傲慢だな。言うじゃないか……じゃあ、力ではどうだい? 今が絶好調の時期なんだろう?」
「……! 気づいておったのか。その割に余裕そうじゃが、秘策でも?」
申谷カイは首をふる。
「解毒されたのなら負けは確定しているだろう。けど、挑まない理由にはならない。何故ならばそれが申谷カイだからねぇ。不可能だからこそ挑む価値がある。誰にも理解されなくても、手を伸ばす。そういう性分でねぇ、特に仙薬に関しては、諦める真似はできない。光は誰にも奪わせない」
「そうか……見ない間に随分と熱い性格になったようじゃな」
「昔からだよ……申谷カイは、常に人生に全力だ」
そして申谷カイは、竜谷キサキに敗北する。完膚なきまでな一方的な試合展開だった。
「それで、処分はどうする?」
「そなたは山海経では手におえんかった。だから矯正局じゃな」
「矯正局……同じことの繰り返しだと思うけど?」
「そなたが言ったのであろう。同じ行動で違う結果を期待するのは狂気だと。次は違う方法を試してみることじゃ。それこそ愚者に尽くすとかの。案外、上手くいくかもしれんぞ?」
申谷カイは目を丸くする。
「まさか君がそう言うとはね。けど、それも悪くない。考えておくよ。ああ、シャーレの先生。いくつか質問しても良いかねぇ?」
『何かな?』
「シャーレの先生は生徒の味方だという。なら私も入るのかな?」
『もちろん』
「こんな、人に迷惑をかけることしかできない私でも?」
『勉強が必要だと思う。それがカイの味方にならない理由にはならないよ。人間関係が苦手なら、できるまで手伝う』
「……先生。一つお願いがあるんだ。聞いてもらえるかい?」
『内容次第』
「矯正局を出たらシャーレで雇ってほしい。無所属だし、何かと困ってね。ごはんもお風呂も……それに仙薬をつけるにも金は必要だ。そして……人に迷惑をかけずに仙薬を作る方法を、一緒に模索してほしい」
『よろこんで』
二人のやり取りを見て、思う。
竜華キサキは心底思う。
申谷カイは眩しいと。
諦めないのだ。絶対に。
己の目的を果たす為ならば、どんな手段でも使う。今までは邪道を試してもダメだった。だから今度は正道で挑む。
己の感情を無視して、恥ずかしさやプライドをかなぐり捨てて、ただ目的のためにその時に最善と思う手段を選び続ける。
「ああ、眩しいのぅ」
だから憧れる。
だから尊敬している。
毒である今の彼女は、いつか薬になるのが見えるようで。
「偉大なものは輝いて見えるものじゃな」
申谷カイは傲慢な人間である。多くの人を傷つけて、踏みつけてきた。そして他者を顧みない冷淡さがある。人間の愚かさを理解している。愚者の愚者たるを理解している。
醜く、汚れて、気持ちの悪い。
そういった感情を持ちながら、申谷カイは笑顔を浮かべて、今度は仲間に入ろうとするのだろう。完璧な仮面を被って。それはただ仙薬を造るためだけに。
「申谷カイ」
「なんだい? キサキ」
「自分を、諦めるような真似はやめよ。そなたの能力は、門主たる妾が保証する。そなたは神仙に到れる。だから、諦めるではない。人を傷つけずとも、そなたならば至れる」
息をするように人を傷つけてきた彼女は、息をするように自分を傷つける。
化物のような精神。しかし同時に、それは、彼女が神仙に至る理由である気がするのだ。
「言われなくても」
完全敗北。
一方的な展開。
負けたことは屈辱的だし、キサキの考えは理解できないし、仙薬は作れない。
良いことは一つもない。だけど。
だけど、なんだか清々しい気持ちだった。
身を焦がす憎悪が消えている。
これが、他人に頼られる気持ちということか。
本当に憎たらしい。本当に本当に。
ああ、だから申谷カイは、竜華キサキを尊敬しているのだ。