「ぬぅ……また落ちたのじゃ……っ!」
シロがクレーンゲームの前で小さな拳を握りしめ、悔しげに唸る。
ガラスの向こう、微妙なバランスで立っていたカエルのぬいぐるみは、アームに掴まれた一瞬の希望を裏切るように、するりと滑り落ちてしまった。
「おお……またダメだったか」
「今のは完璧な角度じゃった! 一瞬浮いたのじゃ! これはアームが悪い! アームのトルクが足りんのじゃ!」
「いや、たぶんアームの問題じゃないと思うよ……」
僕は苦笑しながら、シロに代わってコインを投入する。
ピコピコと音を立てて動き出すアームに、ちょっとだけ気合を入れてみる。
「ふむ……こういうのは、コツだよ、コツ。物理演算の乱数がこの辺で――」
カシャンッ。
無情にもアームは景品を掠めることすらなく、虚しく空を掴んで戻ってきた。
「……」
「……」
沈黙。
シロがじと目で僕を見る。
「……主、向いておらんのじゃ」
「うわあ、傷つくなあ……いやでも、ほんと一瞬浮いたでしょ? 今のは惜しかったでしょ?」
「さっきの我と同じこと言っておる!」
そうして二人、なんとなく負けた気分でゲーセンの外に出る。
コンビニの前のベンチで、僕は缶コーヒーを開けて、空を見上げた。
――なんか、違和感。
「……空が、ちょっと変だなあ」
「ぬ? またクレーンの話か?」
「いや、今度はマジで空の話……なんか、空が平べったい気がしない?」
ぽつりと呟いた僕の言葉に、シロがきょとんとする。
「ぬ? 空が?」
「うん。別に“見た目”の話じゃないよ。……空が“空としての役目”を、ちょっとだけやめてる感じっていうか」
もちろん、青空はそこにあって、雲もゆっくり流れている。
けれどその奥に、かすかな違和感がある。
深さが失われているというか、奥行きの概念がほんのわずかにズレている。
世界の一部が、“違うスクリプト”で動き出しているような。
「ぬぅ……なんじゃ、それは。空が職務放棄でもしたのか」
「いや、そういう比喩でもないんだけどね……あー、やっぱ変だな、これ。いくつかの層が、ズレてる。時間軸もたぶん」
「むむ……」
シロが眉をひそめ、軽くあたりを見渡す。
人の流れ。音。光。温度。
一見していつも通りだけれど、目に見えない“背景”が、ほんの少しだけ波打っている。
「うわあ……」
僕は顔をしかめて、頭を軽くかいた。
「……目覚めさせちゃったかなあ、“あれ”」
「“あれ”……というと、太平洋の底におるという……?」
「うん、たぶん。静かだったし、気づかないふりもできたはずなんだけど……ちょっとだけ、見ちゃったからなあ」
シロが小さく呻く。
「ぬぅ……主、また余計なことを……」
シロがうらめしそうな目で僕を見上げる。
「もしこれでそやつが目覚めたら……全部、主のせいじゃからな! 世界がどろどろになっても知らんぞ!」
「うん、たぶん、そうなるね」
僕は缶コーヒーを一口飲みながら、軽く頷いた。
「でも、もし起きたら――そのときは、僕が何とかするよ」
さらりとした言い方だけど、言葉の奥には妙な実感がある。
その雰囲気に、シロが首をかしげる。
「……そやつって、そんなにヤバいのか?」
「うん、かなりね。理屈とか整合性とか、世界そのものの“仕様”を塗り替えるタイプ。しかも静かに。気づいたときには、だいたいもう手遅れ」
「ぬぅ……そ、それって災害とかいうレベルではないのでは……?」
「そうだね、強いて言えば“現実そのものが寝ぼける”感じかな」
シロが顔を引きつらせる。
「ぬぅぅ……主、そういうのはもっと早く言うてくれ……」
「いや、言ってもきっと“ぬぅ?”ってなるでしょ」
「なるけど! 心の準備くらいはしたいのじゃ!」
「まあ、大丈夫だよ。世界が壊れる前に、僕が止める。たぶん、たぶんね」
「最後の“たぶん”がすごい不安を煽るのじゃ……」
ふと、通りの向こうを歩いていた男が、何もない空間につまずいた。
地面を見ても、段差も障害物もない。けれど確かに、つまずいたように足を取られ、転びそうになって、慌てて姿勢を立て直す。
「……今の、見た?」
「見たけど……ぬ? そこ、何もないはずじゃよな?」
「うん。でも、一瞬だけ“何か”が存在してたんだと思う。現実が、うっかり置いちゃったというか」
「なんじゃそれ! 誰がそんなヘマを!」
「うーん……まあ、僕だね。今回は、たぶん、明確に僕のせい」
「ぬぅ……」
シロがじと目で睨んでくる。
僕は缶コーヒーを軽く振って、最後の一口を飲み干した。
「でも、見ちゃったからには……うん、対応した方がいいかな。悪化する前に」
「ほんとに“ちょっと見た”だけでこうなるのか……?」
「それだけ強いってことだよ。あれは、“見られる”ことに対して過敏なんだ。干渉っていうより、視線だけでスクリプトが変質する」
「ぬぅぅぅ……」
シロが頭を抱える。
「主、まさかその存在に“おはよう”とか言ってないじゃろうな」
「言ってないよ。ちゃんと“寝てていいよ”って伝えた。でもたぶん、もう聞いてない」
僕はベンチから立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。
「行ってくる。まだ浅いはずだから、記録だけ取って、刺激しないように引き返す」
「ぬぅ……簡単に言いおって……!」
シロが呆れ混じりにため息をつく。
「世界がどろどろに溶けてしまっても、主はきっと『やっちゃった』とか言って済ませそうじゃ……」
「そんなことないよ。今回はちゃんと責任を取る。……いや、取らされる、かな?」
僕は軽く笑って、空を見上げる。
「世界が寝ぼけてるなら、起こす前に、もう一回ちゃんと毛布をかけてあげないとね」
─────
僕はスマホで航路を確認しながら、さっきまで座っていたベンチの横に立つ。
「……よし、行くか。たぶん、こっちだね」
「どこへ行くんじゃ、そんなに唐突に」
「太平洋」
「……」
隣でシロが時を止めたように固まる。
「……ぬえっ!? たいへ……! 太平洋!? あの“太平洋”!? なんでそんなとこへ行く流れになっておるのじゃ!?」
「ちょっと見に行くだけだよ。深くは潜らない。“そいつ”のすぐそばまでは行かない。多分ね」
「“多分”が信用ならんのじゃ……!」
シロはジト目で僕を睨みながら、言葉を続ける。
「……ていうか、そんな場所に近づいたら、むしろ逆効果なんじゃないか? そやつを刺激してしまうのでは?」
「うん、確かに。見られるだけでもスクリプトに影響するタイプだし、距離を間違えたらアウト。でもね」
僕は缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れて、ポケットに手を突っ込む。
「――このままでも、遅かれ早かれ目覚めるよ」
「……!」
「今の時点でも、もう“現実”のほうが寝返りを打ち始めてる。なら、ちょっとだけ先に手を打つほうが、まだマシ」
「ぬぅぅ……! なんで主、そんなに落ち着いとるのじゃ……!」
「慣れだよ。あと、今回は……たぶん、本当に僕のせいだし」
「……むぅぅぅ……」
シロがしばらく口をへの字にして、黙りこくった後で、小さく呟く。
「……で? 主は一人で行くつもりだったのか?」
「いや、シロも一緒に来てよ。そっちの方が安心する」
「えっ、我も!? えっ……いや、まあ……うむ……それなら……」
頬をぷくっと膨らませながら、シロは複雑そうな顔でうなずいた。
「でも、約束じゃからな! やばそうになったらすぐ帰るぞ! あと、帰ったらクレーンゲームのリベンジにも付き合ってもらう!」
「わかった、ちゃんとそれもやる」
風がちょっとだけ冷たくなってきて、空の青も薄くにじんでいた。
「……まったく、なんでこうなるのじゃ」
シロがぶつぶつ言いながらも、隣に並ぶ。
僕は肩を回しつつ、最後にもう一度、空を見上げた。
――うん、やっぱりちょっとだけ、変だ。
「それじゃ、行こうか」
「ぬぅ、軽いのじゃ!」
そんなツッコミを背中で受けながら、僕たちは歩き出した。
行き先は、太平洋。