まずは人目につかないところに移動して、それからワープ――という段取りは、一応守ったつもりだ。
たとえば、誰も使っていない裏路地の奥。電波も光も届かない、機械にも感知されないような場所。そこから、ごく短い沈黙を挟んで、転移。
観測装置の類には、まるで“突然消えた”ように記録されたことだろう。
ほんの一瞬の空白。
たぶん、“ワープ”とでも分類される、そんな感じのログ。
はい、到着。
視界いっぱいに広がるのは、どこまでも青く、どこまでも深い海。
太陽の光を反射してきらめく水面の上、僕たちは静かに浮かんでいた。
「ぬええええっ!? えっ、えっ!? いつの間に!? え、ここ、海!? 浮いとる!? 我、浮いとるぞ!?」
となりでシロが、宙に浮いたままバタバタと手足を動かしている。
「大丈夫、ちゃんと空間固定してるよ。落ちないし、風もないし、むしろ快適」
「そういう問題ではないのじゃっ! 我、心の準備をっ、せめて心の準備をする暇をっ!」
「いやあ、準備してる間に日が暮れるかなって」
「ぐぬぬぬ……っ!」
小さく唸りながらも、シロは不思議そうに辺りを見回している。
僕も視線を巡らせる。
四方八方、何もない。
空と海だけ。
人間の気配は、皆無。
航空路も回避してあるし、島もない。理想的な場所だ。
「それにしても……」
隣でシロがぽつりとつぶやく。
「広いのう……まるで、どこにも“地”がないようじゃ……」
彼女の足元は空間固定でしっかり支えられている。
落ちることは絶対にない――というのに、シロはなぜかそわそわと僕の袖を掴んできた。
「お、お、落ちぬことは、分かっておるぞ! 分かっておるのじゃが……!」
「怖いんだ?」
「こ、怖くはないっ! その、な……ちょっと、ちょっとだけ、落ちそうな気がしただけで……!」
顔をそむけながら言い訳する様子が、逆に分かりやすい。
「安心して。落ちても僕が受け止めるから」
「そ、それはそれで別の意味で不安じゃあ!」
でも、シロは僕の袖を掴んだまま、もう片方の手で目を細め、遠くの水平線を見つめた。
「……で、ここにおるのか? 主が言っておった、変なやつ」
「うん。ここで一応“眠ってる”。今は、ね」
「目覚めたら、どうなるんじゃ?」
「どうなるだろうね」
と、その瞬間。
かすかに、何かが触れた気がした。空間の構造が、微かに軋んだような感覚。
「――あ」
遅かった。
空間固定が、ふっと消える。
「え?」
シロの体が、すうっと沈むように傾き――
「おわああああっ!? け、結局落ちておるーーーっ!!?」
僕もすぐさまバランスを崩し、そのまま一緒に空中へと滑り落ちた。
二人まとめて、ふわっと数メートル落下し――直前で僕が空間制御を組み直す。
足場が再び生成され、僕とシロは軽く跳ねるようにして着地した。
「ふぅ、セーフ。ぎりぎり」
「ぎりぎりじゃと!? おぬし、ぎりぎりの意味を知っておるかっ!? 我、心臓が止まるかと思ったぞ!!」
ぷるぷると震えながら、シロが僕の腕にしがみついたまま抗議してくる。
「僕も想定外だったよ。これは……驚いたなあ」
僕は彼女を支えながら、もう一度静かに海を見渡す。
今のは明らかに、“反応”だった。
眠っているはずのそれが、僕たちの存在に気づいて、一瞬だけ力を漏らした。
「やるなあ……さすがに、こっちに干渉してくるとはね」
僕の腕の中で、シロがぷるぷる震えながら、じと目で睨んでくる。
「やるなあ、ではないわっ! なにが“快適”じゃ! なにが“大丈夫”じゃーっ!! 全部うそじゃったではないかーーーっ!!」
叫びつつも、彼女は自分の胸元をぎゅっと押さえていた。
心臓の辺り。びっくりしたせいで、まだどくどくと脈打っているのだろう。
「……ど、どきどきが止まらん……っ。落ちるの、いきなりすぎるのじゃ……」
うん、それはまあ、さすがに怖いよね。
「ごめんごめん。でも、僕もびっくりしたんだよ。まさか、あれで“起きかける”とは思ってなかった」
僕は視線を戻し、静かな海をじっと見つめる。
さっきの反応――あれはただの気まぐれじゃない。
眠っているはずの存在が、確実に“こちらを見た”気配があった。
「見ただけでも目覚めそうなやつなのに、こっちから近づいたから、そりゃ反応もするよね……」
軽くつぶやいたその瞬間。
海が、呼吸するようにふっと膨らんだ。
ほんのわずかに、波紋でもなく、風でもない“うねり”が走る。
海の中心――何もなかったはずの一点が、静かに、しかし確実に“動き始めて”いた。
「……あーあ。出ちゃったか」
僕はため息混じりにそう言って、軽く首を傾げた。
嫌な予感はしていた。
していたけど、まさか本当に起きるとはね。
「な、な、なになになに!? お、おぬし、なんか見えておるのか!? この海、絶対に今なんかおかしいぞっ!?」
「うん。起きるね、これ。間違いなく」
海面が、ごくわずかに“凹んだ”。
そこに何かが存在しているのではなく、
“そこだけ”重力の向きが変わったみたいに、空間の中心が引きずられていく。
見えないはずの何かが、今まさに――こちらに向けて、顔を上げようとしていた。
「さて。次の段取り、考えないとね」
僕は静かに手を上げ、シロの頭をぽん、と軽く撫でた。
「えっ? なにその意味深な撫で!? えっ!? 我、無事なんじゃろうな!? なにが出てくるんじゃ!?」
シロの声を背中に聞きながら、僕はもう一度、静まり返る海を見下ろした。
「……世界が一度死ぬようなやつだよ。目覚めたらね」
─────
【機密記録断片】
出典:異常存在監視機構・深層観測第七系統/自動転送ログ
時刻:12:13:44(UTC)
観測地点:太平洋第七深層域・コード[SEA-D7]
記録形態:高次異常振動ログ/視覚補正付き
<自動警報発令:レベルC→Bへ昇格>
SEA-D7にて、通常海流・磁場・大気組成に異常偏差を確認
軌道観測衛星[O-17]より、半径約400m範囲に重力異常を観測
空間構造に対し、内部からの反転圧力を検出(断続的)
<観測対象Aおよび対象Sの存在確認>
対象A、対象Sともに同地点に突如出現。
出現から約3分後、SEA-D7の沈降パターンが急変。
重力異常および深層振動と直接の因果関係が疑われる。
補足メモ(解析班・Y)
SEA-D7の反応は、対象Aによる観測開始と同時。
目覚め兆候は段階3(構造ゆらぎの顕在化)に移行済み。
今後は段階4への移行リスクを想定し、接触対策班の待機を推奨。
最終行動記録:
「対象Aが視線を向けた瞬間、海が“呼吸した”。
我々は、沈黙する深淵が目を開く、その時を観測している。」