棚の奥、薄暗い通路のような隙間。
少女は、僕が追いつくのを待っていた。
「すみません、急に……」
そう言って、彼女は小さく笑う。
その表情は、ほんのりと照れくさそうな色を帯びている。
こうして見ると、やっぱり見た目はごく普通の、可愛らしい女の子だ。
でも――まあ、油断はしない。
「実は……あの、変なこと言ってもいいですか?」
急に何かを決意したような声音。
見上げてくる瞳が、やけに真剣だった。
「……え、うん。まあ、どうぞ?」
返事をすると、彼女は小さく息を整え――そして。
「一目惚れ、しちゃったんです」
……はい?
あまりにテンプレすぎて、逆に戸惑う。
え、なに、そういう路線?
僕が返答に迷っていると、彼女は恥ずかしそうに視線を落としながら、さらに一歩、距離を詰めてくる。
「さっき、作業してる姿を見て……なんだか、すごく気になって……」
……いや、倉庫整理で惚れる要素あったか?
「だから、つい……声をかけちゃって……その……」
そして、彼女は、そっと両手を広げた。
「抱きしめても、いいですか?」
いや待って。
いろいろ急じゃない?
あと、そのポーズ、吸う気満々じゃない?
明らかに首元に顔を持っていきやすい角度だし、なにより雰囲気が完全に“献血前”なんだが。
内心でツッコミを入れながら、僕はほんの少しだけ体を引く。
「ええと……なんで、ハグ?」
「感情を、伝えるには……やっぱり、触れたくて」
うん、確かに。
確かに、触れると色々伝わる。
血の味とか、体温とか、たぶん、情報量も豊富だと思う。
でもね、そういうのは普通、もう少し段階を踏むものなんだよ。
少女は一歩、さらに距離を詰めて――そして、にっこりと笑った。
「大丈夫、痛くしませんから」
それ、完全にアウトなセリフだよ。
そんな事を思っている僕をよそに、少女はまた静かに腕を差し伸べてきた。
控えめで、けれど、迷いのない仕草。
「……ちょっとだけ、いいですか?」
まあ、そう来るだろうなとは思ってた。
その手の距離感の詰め方、いかにも何かあるやつだ。
「どうぞ」
僕は軽く頷き、手を広げる。
少女の体がすっと近づいてきて、柔らかな温もりが触れる。
細い腕。あどけない呼吸。
そのまま、肩に頭を預けて――
――そして。
チクリ、と。
わずかに皮膚が裂ける感触。
吸い込まれる気配。
熱と、微かな震え。
ああ、やっぱりそっちか。
でもまあ、別に構わない。
しばしの沈黙。
吸われている感覚だけが、静かに続く。
けれど――
やがて、動きが止まる。
少女の肩が、わずかにこわばるのが分かる。
……ん?
顔を上げた彼女が、じっとこちらを見つめていた。
その表情は、驚きとも、困惑ともつかない。
何かが違う。
そんな顔。
「なんで平気なの?」という言葉を、言葉にせず、視線だけで訴えてくる。
僕はその視線に、特に反応もせず、ただ言う。
「終わった?」
少女は目を瞬かせ、そっと唇を離した。
沈黙。
じっとこちらを見つめたまま、困ったような、微妙な顔。
なんか、ごめんね。
君が思ってた反応じゃなかったのかもしれないけど。
でも僕、わりとそういうの、慣れてるんだよね。
一方で彼女は、しばらく視線を彷徨わせたあと――ふと、目の奥を光らせた。
今度は雰囲気が違う。
まるで、別の方法で確かめようとするみたいに。
彼女は一歩だけ下がると、ふっと目元の表情を変えた。
さっきまでの戸惑いとも照れとも違う、どこか冷静な、試すような色。
そして、見つめてくる。
真っ直ぐに、揺るぎなく。
――ああ、次はそっち?
視線が合った瞬間、ほんの一瞬だけ意識にノイズが走った。
けれどそれも、すぐに消える。
世界が染まるような感覚。
心を溶かすような誘導。
おそらくそれは、“魔眼”と呼ばれる類のものなのだろう。
でも――効かない。
少女は、またしても動きを止める。
目を見開いて、僕の反応を探るように。
けれど、僕は特に変わらず、ただその視線を受け止める。
「……?」
言葉にならない音が、彼女の唇から漏れる。
まるで、初めて計算が狂った数式を前にしたような顔だった。
でも、それもほんの一瞬。
彼女はすぐに表情を整えると、ふたたび近づいてきた。
今度は、少しだけ遠慮がちに――でも、その奥には確かな熱を秘めて。
「……もう一度、いいですか?」
静かな声だった。
けれど、視線は真っ直ぐで、微かな決意が滲んでいる。
「うん。どうぞ」
僕が答えると、彼女はそっと腕を伸ばしてきた。
柔らかな体が触れて、静かに、ゆっくりと頭を預けてくる。
そして――
唇が、また僕の首筋へと近づく。
吐息がかかる。肌がざわめく。
――その瞬間。
「手伝ってほしいんじゃが……」
通路の奥から、間の抜けた声が響いた。
うん。
すごいタイミングで来たなあ。
僕ら二人がぴったり抱き合っているところへ、現れるには完璧すぎるタイミングだ。
視線を向けると、そこには木箱を抱えたシロ。
そして、シロの視線もこちらを向き――ピタリと止まる。
「……お、お主ら、何をしておるんじゃ……?」
シロの声が、妙に平坦だった。
白い髪の幼女が、微動だにせず固まっている。
その顔は、半分くらい「見てはならぬものを見た」みたいな空気だ。
「……というか、お主、吸血鬼とハグって……」
シロの声が、通路の奥からひょっこり響く。
その瞬間――
少女の腕が、ぴたりと止まった。
「……え?」
最初の反応は、間の抜けた小声だった。
一瞬、何を言われたのか分かっていないような、素っ頓狂な顔。
けれど、次の瞬間。
ぞわり。
背筋をなぞるような緊張が、彼女の表情を強張らせた。
視線が、ゆっくりとシロの方を向く。
その目には、明らかな動揺――そして、恐れが浮かんでいた。
でも彼女は、なんとか平静を取り繕おうとする。
視線を逸らし、苦笑を浮かべて言った。
「きゅ、吸血鬼? え、な、なにそれ? 怖い話?」
その声は、明らかに裏返っていた。
そして、ちらっと僕を見上げてから、そっと腕を離す。
「あ、あの……ちょっと……違うんです、これは……」
いやいや、どれのことを言ってるの?
シロは特に動じた様子もなく、木箱を片手に首を傾げた。
「ふむ……なら、この者の首筋の噛み痕はなんじゃろうな?」
「えっ!? あ、いや、それは、その……!」
少女は、言葉に詰まったまま、じり、と後ずさる。
「虫刺され……? いや、あの、ハグしてたら偶然……うっかり……」
しらを切ろうとしてるのは分かる。
でも言い訳が雑すぎる。
「お主……」
シロがじっと少女を見つめる。
その目に浮かんでいたのは、ほんの少しだけの好奇心と――それ以上に、底の見えない静けさだった。
「……観測、済みじゃ」
その一言で、少女の肩がビクリと震えた。
……うん。バレたこと自体より、その“観測済み”って言葉が、いちばん効いてる気がする。
ってかそのセリフは何だ。
少女は肩を震わせたまま、ゆっくりと後退する。
「……っ、ちょっと、失礼しますね。今日はこれで……」
そう言って、壁際へと歩き出す。
まるで、この場から“溶けるように消える”つもりのようだった。
でも――
「それ、今帰ったら無断離脱扱いだよ?」
僕は軽く、右手をかざす。
その瞬間、空間が“固定”された。
少女の動きが止まる。
足も、腕も、表情すらも。
その場に、時間が流れていないかのように。
「え……?」
困惑の声だけが、妙に遅れて響いた。
でも、体はもう動かない。
まるで空間ごと真空パックされたみたいに、きっちり密閉されてる。
「あー、今ちょっと動けない仕様なんだよね」
僕は軽く言って、少しだけ歩み寄る。
少女の目が、じわじわと恐怖に染まっていく。
まあ、そりゃそうか。
「……でさ。ちょっとだけ話、聞かせてもらってもいい?」
軽く問いかけるような声のまま、僕は少女との距離を、あと二歩だけ詰めた。
――そして、尋問が始まろうとしていた。