空間を固定し、観測座標を定める。
時間軸をねじ込み、因果律のねじれを最小化。
そして、重力特異点の残滓をかいくぐって――僕たちは、「かつて世界だったもの」の中心に降り立った。
「……うわ、これは……」
見渡す限り、虚無だった。
大地はなく、空もなく、太陽も星も、ただ一点の光すらない。
ただ、ブラックホールに吸い込まれた“痕跡”だけが、泡のように揺らめいている。
「……やばいね。これはやばい」
「お主! は!? なんも無いんじゃが!?」
シロが虚無の空間を前に盛大にツッコミを入れた。
「そうなんだよねえ。びっくりするほど何もない」
「なんでこんなとこ来たんじゃ……! もっとこう、火山が噴いてるとか、廃墟がゴロゴロしてるとか、あるじゃろ!?」
シロは腕をぶんぶん振り回して虚空を睨みつけているが、当然ながら何も出てこない。
視界のすべてが“情報のない領域”――いわば物語にすらなっていないキャンバスだ。
「いやまあ、ほら。せっかくだから見ておきたかったんだよね。世界がブラックホールに吸い込まれた“その後”ってやつ」
「観光か!? お主、観光気分か!? なあ、観測とか言ってたが、それ観光の婉曲表現じゃろ!?」
「……バレたか」
ぶちぶち文句を言いつつも、シロは僕の肩にぴとっとくっついて離れない。
彼女ですら、この場所にいるのは少し怖いのだろう。
無理もない。空間は安定していても、“何もない”というのはそれ自体が異常なんだから。
「で、これは……結局どういうことなんじゃ? ブラックホールが星を全部飲み込んだ結果、こうなったってことか?」
「うん。まあ、厳密にはもう少し複雑なんだけどね。あそこにある泡みたいなもの、あれが重力井戸の縁だよ」
僕は指をさして、淡く揺れる“痕跡”の一つを示す。
かつて恒星系だったものの終着点。
物語の書きかけの行末のような場所。
「科学文明が調子に乗って、ブラックホールの生成実験を成功させちゃったのが運の尽きだった。そこから加速度的に……うん、まあ全部飲まれた」
「……バカじゃな」
「うん、バカだったね」
僕たちはしばし、虚無を眺めて浮かんでいた。
何もないということが、これほど圧迫感のあるものだとは思っていなかった。
「で、お主。そろそろ帰るんか?」
「うーん、でもせっかくだし、試してみたくない?」
「……何を?」
「ブラックホールに吸い込まれるのって、実際どんな感じなんだろうって」
「は?」
シロが本気で呆れた顔をした。
ここまで真正面から「は?」を食らうのも中々ない。
「いやほら、せっかくここまで来たんだし、体験型観測っていうか、ね?」
「お主、自分が観測者とか言っといて、やってること無計画な観光客なんじゃが!?」
「理性はそう言ってるけど、好奇心が止まらないんだよね……。というわけで、ちょっと行ってきます」
「ちょっとってなんじゃ! あほ! 死ぬぞ! いやお主は死なんかもしれんが、正気が吹っ飛ぶぞ!? それとももう飛んでるんか!?」
「まあまあ、ちょっとだけ端っこに触れてみるだけだから」
そう言いながら、僕は慎重に“痕跡”の一つに接近する。
泡のような揺らぎは、まるで意志を持っているかのように僕を誘い込む。
そして――
「うわああああああああ」
想像以上にヤバかった。
重力の概念が引きちぎられ、身体の輪郭が拡張し、思考がノイズに飲まれかける。
ほんの0.4秒。
僕は即座に反転して座標を跳ね返し、全力で引き戻った。
「…………」
「…………」
無言のまま、シロと目が合う。
「……で?」
「ちょっとヤバかったね」
「ほんとバカじゃな……」
呆れ果てたようにシロが頭を抱え、肩をすくめながら僕にぴとっとくっついた。
「……もうええわ。帰るぞ。次はちゃんと空気のあるとこにするんじゃぞ……?」
「はーい」
僕はシロを片腕で抱えて、指を鳴らした。
座標がずれ、虚無が遠ざかる。泡のような痕跡は、何も語らず、ただそこにあるだけだった。
それでも――
「うん、来てよかったかもしれない」
「お主、またそんなこと言って……ほんま変なやつじゃなあ……」
呆れた声に笑いながら、僕は次の世界の準備に取りかかる。
まあ、こんな虚無の観光も悪くなかったけど――もうちょっと物語が転がってる場所が恋しくなってきた。
「さて、次は……どんなところかなあ」
ふわりと浮かぶ重力の抜け殻を背に、僕たちはまた一つ、世界を渡る。
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