靴がアスファルトを踏んだとき、かすかに弾力を感じた。
重力、気温、湿度、空気の組成。
どれも人間に最適化された、よくできた地表。
今回も無事に着地成功。
どうやら都市部のど真ん中に降り立ったらしい。
場所は都市部のど真ん中――とはいえ、ビルとビルの狭間。
目立たない裏手の通路に、そっと身を滑り込ませるように降りた。
ビルは高く、道路は滑らかで、空には交通ドローンが行き交っている。
人々は端末を片手に、一定の間隔で足を止めては、何かの通知を確認していた。
認証ゲート、識別タグ、データリンクの光。
あちこちに、市民階級とID制度のようなものが根を張っている気配があった。
一見すれば整った未来都市――だが、その整いすぎた秩序が、かえって不気味だった。
そして通行人の顔が、妙に沈んで見えた。
疲れているのか、不安なのか、あるいは別の何かか。
言葉にしづらい、灰色がかった表情が、街全体に薄く覆いかぶさっていた。
違和感は、それだけじゃない。
目には見えないが、確かにこちらをなぞるような“何か”の気配があった。
「……ああ、うん。捕捉されたかもね」
何に、とは言わない。言えない。
ただ、そうとしか言いようのない感覚が、空間の縁からじんわりと滲んでいた。
「ん? なにがじゃ?」
隣にいたシロが、鼻先に指を当てて首をかしげた。
彼女はまだ、気づいていないらしい。無理もない。
あれは普通の知覚には引っかからない。
「ちょっと、視線みたいなものを感じてね。上の方から」
「上の方……って、空に何かおるんか?」
「んー、空っていうより、その上の階層というか。構造の上って感じ」
「またようわからんことを……。お主以外にも、そんなことできるやつおるんか?」
「……まあ、いないとは言わないよね。僕だって、たまに他の観測者の残滓みたいなものに出くわすし」
「残滓ってお主……え? じゃあ今見とるのって、そういう類なんか!?」
「どうだろ。はっきりした意志は感じないけど……でも、見られてる感じはある。ぴったりと、ずっと」
ふと、上空を滑る広告ドローンが不自然に揺れた。
風は吹いていない。重力制御も正常。
それでも、一瞬だけ空間の“面”が歪んだように感じられた。
「まあ、気づかれたとしても今すぐどうこうってわけじゃないだろうし。大丈夫大丈夫」
「いや、大丈夫の根拠が謎すぎるんじゃが……」
シロは不安げに辺りを見回す。けれど、どこまでいっても普通の都市。
誰も彼も、僕たちのことなんて見えてないように通り過ぎていく。
でも、たぶん“それ”は、見てる。
この世界の最上層。
物語の支配構造のさらに上――そこの“何か”が、僕の存在にほんの少しだけ指を伸ばした。
「……面白くなりそうだね」
「またそういうこと言う……。お主ほんと好きじゃなあ、そういうの……」
僕は笑って、歩き出す。
世界の皮をめくるには、まず足元から。
高いところに触れるには、下から順に積んでいくのが、案外いちばん手っ取り早い。
しばらく歩いてみたが、道行く人々の視線は、やはりどこか焦点が合っていない。
それでいて、こちらのことは“何か”として認識されているらしい。
さっきから、通りすがりの数人が、すれ違いざまにちらっと僕の方を見ては、すぐに視線を逸らす。
そして、次の瞬間だった。
カツン、と鈍い音がした。
街角の柱に埋め込まれた認証ユニット――無人スキャン装置のようなものが、赤い光を点滅させた。
『ID未検出。登録記録に不整合。再確認を推奨』
僕のすぐ横を通った人物が、ちらりと警戒するような目を向けてきた。
「……お主、今の、なんじゃ?」
「どうやらこの世界、街歩いてるだけで自動的に個人識別されるらしいね」
「で、お主にはIDがない、と……うわぁ……」
シロがそう言いかけたとき、今度は別のユニットが彼女に反応した。
ピコン、と控えめな警告音。
赤いランプがまた点滅する。
『ID未検出。未登録個体を確認――』
「……って、我もじゃったか!」
「そりゃそうでしょ。君もこの世界の市民じゃないし」
「むう……この世のすべてが敵に思えてきたのう……」
また別の場所で、同じようにユニットが赤く点滅する。
僕たちの通過に合わせるように、街のあちこちで認証エラーが積み重なっていく。
『再認証試行中……失敗。異分子反応検知』
何気なく歩くだけで、街が少しずつ“ざわつき”始めるのがわかった。
今のところ騒ぎにはなっていないが、警戒レベルは確実に上がっている。
……まあ、こうなるのも無理はない。
前の世界みたいに、スマホやらが勝手にポケットに収まっていることもあるけれど、
さすがに「市民ID」なんてものが最初から用意されてるはずもない。
そもそも僕、たぶん市民ですらないし。
「うーん……こうなるとさすがに無視できないなあ。どこかで仮IDでも拾わないと、監視網に引っかかるかも」
「お主ほんとにこのへん、適当じゃな……もっと準備して来いという話じゃ……」
ちょうどそのとき、近くの広告ディスプレイが切り替わる。
無機質な女性音声が、街に注意を促す。
【防犯情報:未登録人物の接近が報告されています】
【付近の市民は警戒をお願いします】
完全に一致です、はい。
「ねえ、これもう、我らのことじゃろ……?」
「うん、だね。もはや異分子として正式認定された感じ」
「……我、別に悪いことしてないんじゃが……」
いやほんと、この世界、セキュリティ意識だけは無駄に高い。
再認証の失敗音が、またひとつ遠くで響いた。
今や街の“ざわつき”は、無視できないレベルになってきている。
通行人が僕たちから自然と距離を取り、ちらちらと視線を向けてくる。
中には小走りでその場を離れていく人の姿もあった。
ああ、これはもう時間の問題だ。
「そろそろ来るね。そういう人たちが」
「そういう人たち、って……具体的に?」
シロの問いに答える間もなく、通路の先から、低く機械的な足音が響き始めた。
金属が地面を叩くような、重たくて冷たい音。
ビルの影から現れたのは、黒い制服に身を包んだ数人の人影だった。
ヘルメットのバイザーにはHUDの光。腕には識別装置。
武装は軽めだが、動きには無駄がない。訓練された“公的機関”のにおいがした。
彼らは真っ直ぐ、僕たちの方へ向かってくる。
「お主……またやらかしたのう……」
「いや、これは想定の範囲内だよ。むしろ予定通り」
「予定通りでこの事態って、逆にすごいと思うんじゃが!?」
彼らは一糸乱れぬ隊列で、ぴたりとこちらの十メートル手前で立ち止まった。
先頭の一人が、手のひら大のデバイスを構える。
そこから投影された立体ディスプレイには、僕たちの姿が――というか、僕たちが歩いたルートと認証エラーの軌跡が、赤い点線でくっきりと表示されていた。
「未登録の個体を確認。身元を照会中」
機械音声のような声だった。
声に感情はないが、態度にはしっかり“警戒”がにじんでいた。
まあ、無理もない。
あれだけエラーをばら撒いて歩いたら、そりゃ記録も残る。
「えっとー、こんにちは。観光で来たんだけど、市民登録の方法がわからなくてですね?」
僕は両手をゆっくりと上げ、敵意のない笑みを浮かべた。
警戒されるのは仕方ないが、銃口を向けられるのはゴメンだ。
「……観光?」
「うん。ほら、ちょっと前に市民じゃなくても短期滞在が許可されたってニュース、出てなかったっけ? あれで来たんだよ。たぶん」
「制度の対象者には事前登録が必要。記録に該当なし」
「そっかー……えーと、じゃあ、もしかして登録端末の場所、教えてもらえたり?」
あくまで“しれっと来ちゃっただけ”という体で押し通す。
とにかく、こちらが悪意のある異分子じゃないという印象を与えることが大事だ。
「なんか、お主ずるくないか? 我が横で緊張してるのがアホみたいなんじゃが……」
シロが小声でぼそっと言うが、今は聞こえなかったことにしておく。
隊員たちは視線を交わし、何かを確認するように一瞬だけ動きを止めた。
……いけるか?
……いや、まだか?
その時、通信機らしきものから、別の声が聞こえた。
『一時保護の対象とする。過剰反応は避け、引き続き観察を継続』
なるほど、拘束はしないが“見張る”という方針か。
「一時的に、案内施設への同行を求める。拒否は非推奨」
……これって、事実上の“連行”だよね?
「観光案内ってことでいいんだよね?」
僕は何気ない顔でそう言いながら、内心で次の手を考え始めていた。