風が、すこし生ぬるかった。
どこかの世界の、どこにでもあるような公園。
ベンチに腰かけて、三人で時間を潰していた。
僕は買ってきたポテチを一枚つまみ、ぱりっと食べる。
――うん、美味い。塩加減ちょうどいい。
そんなふうにごく平和に時が流れていた、そのとき。
「ねえ、地獄って知ってる?」
エルが、これまた唐突に言った。
口調はあくまで軽く、まるで天気の話でもするようなテンションだった。
「……は? 地獄って、あの……なんか怖いやつ? 針山とか血の池とか、叫び声とか、そういう?」
隣でシロが一瞬フリーズしてから、引きつった顔で言い返す。
そりゃそうだ。
さっきまでただの午後だったのに、急に“地獄”である。
「そうそう、それよ。なんかね、最近ちょっと気になってて。実際どうなってるのか、一度ちゃんと見てみたいのよねー。地獄」
エルは足を組み替えて、空を見上げながらさらりと言う。
まるで「今度の旅行、温泉と地獄めぐり、どっちがいい?」みたいなノリで。
「……え、無理無理無理。なにそれ、観光のテンションじゃないんじゃが!? こっちは一回聞いただけで背筋ぞわっとしたんじゃけど!?」
シロが完全に引きつった声で叫んだ。
肩をすぼめ、僕のほうへじりじりと距離を詰めてくる。
いや、物理的に頼られても困る。
「ねえ、いいでしょ? ちょっとだけ。ね?」
エルが身を乗り出してくる。
上目遣い。
甘えるような声。
「まあ……“ちょっとだけ”なら」
気づけばそう答えていた。ポテチの後味が、妙に塩っぱく感じた。
「うわー、行くのか……」
シロが呆れた声を漏らす。
そして、小さくぼそりと付け足した。
「……というか、本当にあるんじゃな、地獄……」
遠いものとして語られていたはずの場所が、ぐっと現実味を帯びる。
その言葉のあとで、空気が、微かに焦げる匂いを帯びた。
世界が、また“ずれる”予感がした。
─────
視界がぐにゃりと歪んだ。
熱い膜を顔に押し当てられたような圧迫感。
足元の地面がひび割れ、肉のように蠢いている。
――到着。
気づけば、空気が変わっていた。
硫黄と焦げた血の匂い。
肺にまとわりつくような粘度のある空気。
吐き気を催すほどの重さが、胸に、喉に、絡みついてくる。
空は、黒と赤が溶け合ったような色をしていた。
まるで巨大な血管が脈打つように、雲の奥で雷光が走る。
地面のあちこちには、焼け焦げた手足が突き出していて、ひくひくと痙攣している。
どこかで誰かが、絶え間なく呻き、叫び、笑っていた。
「………………」
沈黙。
「………………あのさ、帰らんか?」
沈黙を破ったのは、シロのか細い声だった。
その目は怯えと怒りと困惑で濁っていた。
「やっぱり観光のノリじゃなかったのじゃ……なんか、踏んだし……ぬるっとしたなにか……!」
端の方で、溶けた人の顔みたいなものが壁にめり込んでいるのが見えた。
目だけがまだ動いていた。
僕は目を逸らさずに、ただ思った。
――うん、わりと本気の地獄だな、これは。
「ふふ。いいわね、イメージ通り」
エルが、足元でぐずぐずと崩れる何かを避けながら、愉快そうに笑った。
「いや、愉快そうに言うタイプの場所じゃないじゃろこれ!? どこに需要があるんじゃ!」
「“地獄”って、定義が曖昧なのが面白いじゃない? 生きてる人が勝手に想像して、作り上げた怖い場所。そこに実際、こうして来てみるって――すごく素敵じゃない?」
その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「観測者冥利に尽きるね……とでも言っておこうか」
僕はそう言いながら、足元のひび割れから覗く歯茎のような構造を見下ろした。
――さて、本日の観光地は、地獄です。
しばらく、三人で無言のまま歩いた。
歩くたびに、地面の表面っぽい何かがぺちょぺちょと音を立てて、無駄にリアルな感触を靴越しに伝えてくる。
あちこちに肉の柱、骨の階段、噴き上がる血の滝。
どこかで絶え間なく誰かが叫んでいて、そして笑っていた。
視界の端を、誰かの顔をつけた腕だけの存在が這っていく。
声は出してないのに、助けて、と聞こえた気がした。
「なあ……」
沈黙の中、シロがぽつりと呟いた。
「……ここって、いったいどういう場所なんじゃ……?」
その声には、困惑と困惑と困惑と、あとちょっとの恐怖が詰まっていた。
僕は立ち止まり、溜め息ひとつ。
目の前を通り過ぎていった脊髄だけの生き物(?)に軽く会釈しながら、説明を始めた。
「うん、まあ……いわゆる“構築型地獄”ってやつだね。地獄を信じてる人が多い世界ほど、自然発生しやすい構造でさ。集合的無意識が形になったみたいな場所。信仰とか恐怖とか、そういうのが物理的に固まった感じ」
「……ぜんぜん“自然”じゃないんじゃが! なんで血の滝があって、手だけのやつが這ってるんじゃ!?」
「信仰ってすごいね。あと、想像力の暴走ってやつ。だいたいは“こうだったら怖いな”っていうのを人間が思いついて、そういうのが固まって、実体化して、地獄ができる」
「なるほどねー。ちゃんとした仕組みがあるのね、面白いじゃない」
と、そんな話をしながらも、エルは周囲をきょろきょろと見回していた。
あからさまに楽しそうだ。
足元で蠢く肉を避けるどころか、しゃがみ込んでつついたりしている。
壁に埋まった歯列を観察して「へえー、ちゃんと人間っぽい」とか呟いている。
表情はずっと晴れやか。
ちょっとしたハイキング気分である。
「いや、なんでそんなにテンション高いんじゃ!? こんなん怖がる以外の感情がある世界なんか、地獄だけじゃろ!」
「でも、よくできてるわよ。構造が。地形とか流れとか、ちゃんと理屈があるもん。私こういうの好きよ、発想と再現度が両立してるタイプの場所」
エルはそう言って、地面に空いた穴を覗き込んでいた。
穴の奥から、焼けただれた声が「殺して、ころして、たすけて」と交互に響いてくる。
彼女は目を丸くして、「すごい、ハーモニーになってる」とか言っていた。
その後ろで、シロは完全に固まっている。
「……もう、我の感情が処理落ちしとる……」
そっと僕の袖を引きながら、シロはそう呟いた。
僕はというと、わりといつも通りにポテチの袋を握ったまま、脳内でまとめていた。
――本日の観光地は、“思考と恐怖の残滓でできた構築型地獄”。
滞在時間は未定。出口は不明。ルールブックは、ない。
でもまあ、こういうのもたまには、悪くない。
たぶん、僕たちが生きて帰れれば、だけど。
少し歩くと、広場のような場所に出た。
地面は鉄板のように平らで、ところどころから血煙が立ち上っている。
まるで、拷問装置を展示しているブースのようだった。
その中央に、人がいた。
いや――“人”と呼んでいいのかは、ちょっと迷う。
見た目はだいたい人間だ。
首から上が三つあることを除けば。
三つの顔がそれぞれ違う方向を見ていて、片方は笑い、もう片方は泣き、最後の一つは無表情で何かを呟いていた。
「あ、あれ……生きてるんじゃよな……?」
シロが不安そうに問う。
「うん。というか、ここにいる連中、基本的には“死んでない”よ。死ねない、っていうのが正しいかもだけど」
「……え?」
「ここにいるのは、いろんな世界の“極悪人”たち。罪の重さも、バリエーションも豊富。人を百人単位で騙して破滅させた詐欺師、国家を裏から壊した扇動者、異能で無差別に都市を吹き飛ばしたテロリスト……とにかく、“どの世界でもアウト”なやつらが揃ってる」
僕は、視界の端を通り過ぎた影に目をやった。
皮膚のない巨人。
全身が嘘の記号で構成された女。
口のない子供の群れ。
みんな、何かしらの「終わったやつ」だ。
「へえ。じゃあ、ここってある意味“博物館”みたいなものなのね」
エルが愉快そうに言う。
「“罪の見本市”……あるいは、“存在の墓場”。でも本人たちは気づいてない場合もある。“自分が地獄に落ちた”って自覚すらない。自分の世界では正義だった、って思ってたりするから、タチが悪い」
僕はそこで一拍置いた。
「とはいえここのルールって、実は一つだけあるんだ。心の底から自分の過ちを悔いて、それを言葉にできたら……ここから解放される。ごく稀にだけど、そういうやつもいる」
「……ほんとに?」
シロが、おそるおそる尋ねる。
「うん。でも、それが一番難しい。自分を悪だと認めることができないから、ここにいるんだし。たとえ一生、同じ後悔を繰り返してても、“本当の意味で”反省できるやつなんて、ほとんどいない」
「……なんか、それ、地獄より地獄じゃな……」
シロがぽつりと呟いたその直後、まるでそれを肯定するかのように――あちこちで、呻き声が交差する。
無限に後悔を繰り返している男の幻影が、壁に自分の頭をぶつけ続けていた。
見えない罪を抱えた少女が、泣きながら誰かに許しを請い続けている。
「……なにこの、情緒のジェットコースター……」
シロがまた一歩、僕の背中へと縮こまる。
「まあ、そういう場所なんだよ、ここは。信仰と恐怖と、後悔と暴力と、あとちょっとの悪意でできた、地獄の真ん中」
僕は、溜め息交じりに周囲を見渡す。
――ここにいる奴らは、地獄に落とされて当然のやつばかりだ。
でも、それを“そうだよね”と笑えるほど、僕も正しくはない。
だからこそ、他人事ではいられないのだ。
「ふふーん。じゃあ、私もそのうちここに住むのかしら?」
エルが、そんなことを軽口で言ってくる。
「いや、君の場合、“地獄”の管理側にスカウトされる可能性の方が高い」
「えー、そっち?」
そんなわけで、極悪人たちの墓場を、今は観光中だ。
さて、この先に何があるやら――。
─────
血の池の上で手を振ってくる両腕だけの群れを見送りながら、次の地獄層へ向かおうとしたところで。
「ねえ、天国行ってみない?」
またもやノータイムの唐突さで、エルが振り返った。
血に濡れた靴のまま、きらきらした目で。
「天国……」
ぼそりと、シロがうつろな声を漏らした。
振り返ると、彼女はいつのまにか焼けた髪の先をぱしぱしと指で千切っていた。
なんかもう疲れの極地という顔で。
「……そっちのほうが、まだ……いいのじゃ……」
意識が遠のきかけてるやつのテンションだなこれ。
じゃあまあ、行ってみようか。
地獄よりは天国の方がマシっていう期待もあるし。
「了解。目的地変更、天国へ向かいまーす」
「ほんと!? 天使っぽいやつ、いるかなっ」
「まあ、期待していいと思うよ」
ちなみに補足しておくと、地獄とか天国って、べつにどこにでもあるわけじゃない。
世界観によっては存在しないし、存在してても行けないし、あるいはものすごくフワッとしてる場合もある。
今のところ僕らが訪れているのは「構築された」地獄。
地獄らしさを担保するために、何かしらの意思で整備されてるタイプのやつだ。
天国も、たぶん似たようなもんだろう。
光が多くて、神々しい感じで、わりと目が多めで。
「……こっちよりグロくないといいのう」
シロがぼそっとつぶやいたが、それはフラグというやつだと思う。