ストックが尽きるまではどんどん投稿していくつもりなので、よろしくお願いします。
寿司屋のテーブル席で、僕たちはそれぞれに手元の皿と向き合っていた。
さっきまで、高次元的な話題で盛り上がっていたせいかもしれない。
その流れで、ふと気になったのだろう。
「……なあ、仏って、本当におるんかの?」
いくらを一粒ずつ箸でつまみながら、シロがぽつりと呟いた。
「んー、いるにはいるよ。結構レアだけどね」
僕は茶碗蒸しの蓋を開けながら答える。
エルがずっと食べてたのでそろそろ僕も食べたくなった。
「やっぱり珍しい存在なんじゃな……。なんか、もっとこう、めちゃくちゃ修行して、山に籠もって、悟り開いて……みたいな」
「そういうルートもあるけど、悟ったらわりと自然となるよ。仏」
「……え?」
「僕、一時期仏だったことあるし」
シロの箸が空中で止まった。
「ええぇ……?」
「まあ、いろいろあってちょっと悟っちゃってね。気づいたら仏になってた。そんなもんだよ」
「そんなもんなんじゃろか……?」
シロは困ったような顔で、手元の寿司に視線を落とす。
たぶん、彼女の中の“仏”のイメージが、今ぐらぐらに揺れている。
「まあ、実際そんな簡単じゃないよ。悟りって、自分のあらゆる欲とか執着とか、全部手放して世界と調和することだからね。完全に自我が溶けるまで、何重にも重なった認識の層を一つずつ剥がしていく感じ」
「うへぇ……めちゃくちゃ大変そうなんじゃが……」
「うん。だからこそ、仏ってのは滅多に見かけない。僕でも、そうだな……数えるくらいしか見たことないな。ほんとに、稀有な存在」
「そんなレベルなんじゃな……」
シロがぽつりと呟いたそのとき、エルがガリをつまみながらぼそっと言った。
「私もね、やろうとしたことあるのよ。仏」
「え?」
僕とシロが同時に顔を向ける。
「一回くらい、やっとこうかなーって思ってさ。全部の執着とか欲とか、きれーいに捨ててみようとしたのよ。記憶とか、感情とか、自分の核みたいなとこまでバラして」
「で、どうなったんじゃ……?」
「無理だったわよ。最後の最後で、『あ、これは捨てられないな』ってとこが残っちゃって。もうちょいで悟れそうだったんだけどねー。惜しかったわ」
エルは気軽な口調のまま、肩をすくめる。
「ってか、仏になれた人、ちょっと頭おかしいわよあれ。マジで」
そう言いつつ、エルがちらりと僕のほうを見た。
別に何も言ってこないけど、目が全部を語っている気がする。
「おおぅ……」
シロが箸を止める。
「そういう意味じゃ、仏って、ほんと異常なレベルで自分を手放せる存在なのよ。あそこまでいくと、逆に執着の塊より怖いっていうか……」
「うん。たしかに、あれは普通じゃないよね」
僕も頷きながら、湯呑みに口をつける。
……で、まあ。
せっかくだし、ちょっとだけ持ってきてみるか。
仏の空気。
僕は湯呑みを置いて、ふっと目を閉じる。
一瞬だけ、自分がかつてアクセスしていた層へ、意識を軽く触れさせる。
ただそれだけで——
店内の空気が、静かに、しかし確実に変わった。
あらゆるものがなぜか遠くに感じる。
音も気配も輪郭がぼやけて、代わりにじわりと胸の奥に沁み込んでくるような、なんとも言えない感覚が広がっていく。
ありがたみ、としか言いようがない何かが、そこにあった。
「……え、なにこれ……?」
シロが眉をひそめて辺りを見回す。
ガリを口に運ぼうとしていたエルの手も、ぴたりと止まっている。
「空気……変わったわよね?」
「うん、ちょっと仏の気配、出してみた」
「気配ってレベルじゃないんじゃが!? なんか、胸の奥があったかくて、逆に怖い!」
「ありがたみで窒息しそう……いや無理無理無理、ちょっとやめて!」
エルが慌てて僕に詰め寄ってきたので、仕方なくアクセスを切った。
すうっと空気が戻る。
「はー……普通の現世の空気って最高ね……」
「……今のなんなんじゃ……。寿司屋で感じるもんじゃなかったぞ……」
「いやー、仏ってああいう感じなんだよね。世界がじわっと染みてくるというか、ありがたさが物理現象になるというか」
僕はあくまで茶碗蒸しを平然とすくいながら言ったけど、たぶん二人とも、しばらく魚の味がわからないと思う。
「……なんか、会ってみたいような……でもやっぱ、会いたくないような……」
シロがぽつりと呟く。
まだどこか表情に余韻を残したまま、ぼんやりと寿司を見つめている。
「やめといたほうがいいよ。マジで」
僕はスプーンを口に運びながら、さらっと釘を刺す。
「え、なんで?」
エルが顔を上げる。
「同じ空間に存在するだけで、問答無用で“解脱”するから」
「……え?」
シロの表情がぴたりと固まる。
「そいつらにとっては、“在る”って状態がそもそも慈悲の否定だからね。“まだ個として存在してる”ってだけで、“あ、未練あるんだな。かわいそうに”って処理される」
「処理て……」
「その場で、ふわっと“無”に還してくれる。ありがたく、やさしく、物理的に」
そこだけ聞くと、ちょっといい話に聞こえるのが腹立たしい。
「いやいやいや、それ殺されるのと何が違うんじゃ!? ありがたみの名を借りた分解じゃろ!」
「うん。だから危ないんだよ。慈悲ってのは、“まだ残ってる”ってことを許さないからね」
僕の言葉に、シロがぞわっと肩を震わせる。
「……ちょっと……怖すぎるんじゃが……」
「でしょ? 仏、地味にヤバいからね。ありがたみって、過剰になると世界そのものに牙を剥くんだよ」
「それはもう……仏じゃなくて兵器なんじゃ……」
「いや、だから仏なんだよ。それが」
僕はそう言って、茶碗蒸しを飲み干す。
ありがたさってのは、適量がいちばん。
下手すると、世界そのものがやさしさで溶ける。
「あれね……“やさしさの極致は、個体に対する残酷”ってやつよね。思ったよりリアルで、思ったより怖いわ」
エルが箸を置きながら、ふっと息をつく。
テーブル席に、ひとときの静けさが落ちた。
空の皿が並ぶその向こうで、店内のざわめきだけが、少し遠くに聞こえていた。