風呂から上がった僕たちは、そのまま四次元空間へ入った。
きっかけは、ごく自然な一歩だった。
僕が進み、エルが続く。
シロもその背を追って――空気が、ねじれた。
次の瞬間、視界が破綻した。
シロの後頭部が見えた――いや、正面から。
背中が、胸の向こうに透けて見える。
空中をふらふらと漂うように浮いた彼女の髪が、時間の流れに逆らって巻き戻される。
その身体も、輪郭が不定形に波打ち、まるでゼリーのように揺れていた。
「――は!? なんじゃこれ!? 我、背中が……えっ、手が!? いや、ちょ、なんか曲がっとる、っていうかこれ、どっちが前じゃ!? えええええ!?」
シロが空間に混ざりそうな勢いで、混乱しながら手を振り回す。
その手も、二重三重にずれて見え、指が一本ずつ異なる方向に曲がっていた。本人は至って真面目に叫んでいる。
僕の視界にも、確かに異常があった。
エルの背中が、僕の右側に、同時に左側に、いや真上にも見える。
地面のアスファルトが呼吸するように脈打ち、街灯のポールが蛇のようにうねっていた。
「脳がバグるなあ」
僕はぽつりと呟く。
事実として、それ以上の言葉は要らなかった。
「ほんと、これよね」
エルが笑いながらくるりと一回転――したかと思うと、彼女の姿が複数の角度から“同時に”現れては溶け合った。
「やっぱここ、脳がバグるわね。三回くらい通ると慣れてくるけど」
「慣れるとかそういう問題じゃなかろがああああああ!! 空が! 空が手じゃあ!!」
空を指さすシロの手が、ぐにゃりと空間に沈みこむ。
その指先はどこか別の方向から、彼女の頭を撫でていた。
――これが、四次元空間。
形の定義が破綻し、距離も位置も自我すらも、曖昧になる世界。
「こ、ここ……やばすぎるのじゃ……」
シロがそう言いながら、肩を落とした。
そしてあ、落としたな、って思った瞬間、その肩が三方向にズレて見えた。
俯いたはずの頭は、なぜか背中側からこちらを向いてるし、口元は震えてるのに、背中の“別の顔”が真顔で無言の圧をかけてくる。
なんなら、耳の位置に目が生えてるようにも見える。
たぶん視界バグだけど、純粋に怖い。
足元にできた影は三つあって、それぞれ別の動きしてるのも謎ポイントが高い。
一番左の影だけ、数秒遅れて涙を拭ってたのはちょっとホラー演出が過ぎると思う。
「……うーん普通にホラーだ」
別に幽霊が出てくるわけじゃない。
ただ、視覚情報が物理的にホラー。
認識が負けそうになるだけ。
シロはそのまま“後ろに向かって後退”してきた。
いや、こっちに向かってるのか? 反対側に逃げてるのか?
よくわからないけど、顔は増えてる気がする。
たぶん気のせい。
そんな中、ふと視界の端に動きがあった。
エルが駆け出していた。
本人はめちゃくちゃ楽しそうだ。
けど、見えてるその姿はだいぶヤバい。
まず走り方が意味不明だった。
一歩ごとに“次元”をまたいでるのか、足が地面に着いた瞬間、別の場所から別の足が出てる。
同じエルが何人も同時に走ってるように見えるのに、それらが全部“本人”なのが怖い。
見てるこっちの頭が追いついてないだけで、たぶん物理的にはちゃんと繋がってるんだろうけど……。
正面を向いたまま、背中側にも腕を伸ばして手を振ってきた。
それがなんか、“裏面の笑顔”みたいにぐにゃって歪んでて、正直ちょっと怖かった。
口がこっちに向いてるのに、目が左右に分かれてるし、なんなら片方の顔だけ泣いてる。
いや怖いって。
なんで半分だけ情緒バグってるんだ。
さらに意味不明なのは、走ってるはずなのに、脚が“逆向きに”曲がってることだった。
関節が多いとかじゃない。
膝から先が、Z字の逆みたいになってて、接地するたびにぐにゃぐにゃと揺れてる。
あれでスキップできるの、どういう理屈なんだろう。
「……あれ、本人はすごい楽しそうなんだけどな……」
言葉にすると、なんか負けた気がした。
視線を上げると、今度はエルの姿が“天井側”から覗いてきた。
こっちを見てる。
いや、正確には“全部の方向から”同時にこっちを見てる。
同時に笑ってる。
全部違う笑い方で。
脳の処理が追いつかない。
けど、なんか楽しそうだなってのだけは分かる。
「やっぱここ、最高ね!」
四方八方から響いてくる声。
音の出どころが同時に複数あって、どれも本人。
聞いてるだけで脳がバグる仕様。
ちなみにその直後、僕の影が勝手に逃げ出したのは、ちょっとやりすぎだと思う。
まあ、色々と怖いっちゃ怖いけど……慣れると意外と、悪くない。
視覚がバグってるだけで、実害はそんなにないし。
むしろちょっと面白い。
脳がバグる感じを味わえるアトラクションというか。
現実の設定ミス、みたいな。
すごく軽いノリで「行こう」なんて言ったせいかな、シロが今、三方向から同時に怒ってるのは。
たぶんそのせい。
怒るのは正しいと思う。
でもそんな顔で怒られても、笑うしかないよ。
そんな中僕はぐにゃった空間で、ぼんやりとエルの背中(っぽい何か)を眺めていると、ふと思った。
「……ねえ、エル。握手してみない?」
四次元空間で言う“振り向き”が発生し、複数のエルが同時に僕を見た。
視線が五方向から刺さる感じ、物理的にちょっと怖い。
「握手? あら、いいわね。確かに気になるもの。どうなるのか!」
思ったよりノリノリで返ってきた。
エルのテンションが上がると、映像的な混乱も増える気がする。
「まさか自分の手が自分の背中から出てくるとかないわよね? ないわよね?」
不安なのか楽しんでるのか判断に困る発言が飛んでくる。
どっちかっていうと僕の方が不安かもしれない。
とはいえ実際どうなるのかは、割と気になる。
エルは楽しそうに両手をくるくると回した。
指がさっきより多くなってる気がするのは、気のせいであってほしい。
僕はとりあえ、右手を前に出した。
ただ、それが本当に“前”だったのかは、正直怪しい。
伸ばしたはずの手は、なぜか――エルの頭に触れていた。
ぺた、という軽い感触。
指先がふわふわの髪を撫でるように動いていて、彼女の頭が、ちょっと揺れた。
「あら」
エルが上目遣いにこっちを見上げ――いや、見下ろしてきた。
上下の感覚がぐるぐると反転していくなか、視線だけはしっかり僕を捉えている。
「握手、じゃなくて……ナデナデ、かしら?」
「いや、たぶん手の方向がズレたんじゃないかな、たぶん……僕としては握手のつもりだったよ。脳内ではね」
戸惑いながら手を引こうとしたら、その手はさらにぐにゃりと曲がり、今度は彼女の背中を撫でていた。
いや、正確には“背中の方向にある、顔っぽい何か”を撫でていた。
エルがにこ、と笑う。
その笑顔がどこにあったのかは、もうわからない。
「面白いわね、これ。握手ひとつでここまでズレるなんて。……ね、今度は私からいくわよ?」
そう言って伸ばしてきた手が、僕の足元から生えたのは、もうツッコミすら追いつかなかった。
「……我から見たら、エルの手が……お主の鼻の穴に入っとるんじゃが……」
ぽつりと呟いたシロの声が、三方向から届く。
僕は思わず手を止めて、なんとも言えない表情になった。
「でも、実際は頭を撫でとるんじゃろ? そのはずじゃよな……?」
シロの視線がぐるぐると空間を泳ぎ、首が九十度ずれた方向で止まる。
そこから見える“現象”があまりにバグりすぎていたのか、彼女は静かに口を閉じた。
「……これはもう、あれじゃな。理解しない方がいいやつじゃろ……我、脳が持ってかれる前に撤退する所存じゃ……」
シロがすっと後ろに“落ちて”いった。物理的に。
背中から沈みこむようにして、ふわりと空間に溶ける彼女の姿が、なんかすごく、正しかった。
……四次元空間は、やっぱり脳に悪い。
でも、なんだかんだで――ちょっとだけ、楽しかった。
ちなみに三次元に戻ったあと、シロが「地面が曲がっとるうう……」と呻きながら地面を匍匐前進していたのは、ここだけの話だ。