――カフェの窓際、午後三時。
新しい世界に降り立った僕たちは、とりあえずありふれた喫茶店で休憩を取ることにした。
今のところは、何も起きていない。
少なくとも、目に見える範囲では。
「この店、甘味に本気じゃな。見ろ、このプリン、すでに光を放っておるぞ」
スプーンを握ったシロが、真顔で言う。
あながち間違っていない気がして、僕は曖昧に笑った。
「わかる。味も情報密度も高い」
エルもカップを傾けながら、目を細めている。
僕たちは三人、喫茶店の奥の席でスイーツを囲んでいた。
……と、そこで、ふと。
「……なんか、いるな」
僕の声に、エルがすぐ反応する。
「あー。いるわね」
相変わらずの軽い口調だった。
彼女はプリンに視線を戻しつつ、まるで天気でも話すように続ける。
「入り口の隅。冷蔵ショーケースの脇。背、二メートルくらい。顔、ぐちゃぐちゃ」
「えっ?」
シロが止まる。
スプーンが宙で止まる。
「なんじゃ? 何の話をしとるんじゃお主ら」
「いや、なんかいるっぽいなと思って」
「え、どこに!? なんもおらんぞ?!」
シロは辺りを見回すが、異常には気づけない様子だった。
だが、僕の視線の先にある“それ”は、確かにそこに立っていた。
……じっと、こちらを見ている。
……ああ、なるほど。
そういうのが“いる”世界か。
ぶっちゃけこういうのが紛れ込んでるのは珍しくない。
たぶんこの世界では、あれが“見えてしまう側”に僕とエルが振り分けられているのだろう。
特に危害はなさそうだ。
今のところは、だが。
「な、なんかおるんか? 本当に……?」
シロの声が、わずかに震えている。
さっきまでご機嫌だったのに、急にスプーンを持つ手が落ち着かなくなっていた。
「うん。たぶん常在型のアレ系。向こうからは接触してこないタイプじゃないかな」
僕がそう言うと、エルも軽く頷いた。
「そうね。あれは動かない系。立ってるだけのやつ」
「は、はぁ!? 何じゃその“系”って! 怖いじゃろ!」
怯え始めたシロを見て、僕はちょっとだけ申し訳ない気持ちになった。
が、それ以上に「そういえば彼女は“見えない派”だったな」という認識の方が先にくる。
僕とエルはあまり気にしていなかったけど、よく考えたら絵面としてはそこそこガチのホラーだった。
「気にしないでいいよ。たぶん無害」
「たぶんって何じゃ!?」
シロはついに、プリンに背を向けて身を固くした。
その様子を、僕とエル、そして冷蔵ショーケースの脇にいる“ぐちゃぐちゃの何か”が、黙って見ていた。
……ん?
ふと視界の端で、“それ”の腕がわずかに動いた気がした。
というか、確実に動いた。
肘から先が、すーっとカーテンでも払うように滑った。
……うん。まあ、あるよね、こういうの。
シロはまだ見えていないし、言わない方がいいかもしれない。
これ以上怖がらせてもしょうがないし。
そっとしておこう。
「……あ、動いたわね」
エルがさらっと言った。
「うごっ……!? い、今なんと!?」
シロの反応が爆速だった。
「動いたって言ったの。さっきの“ぐちゃぐちゃ”。右腕、ぬるっと」
「ぬるっと!? ぬるっとって何じゃ!?」
完全に声が上ずっている。
スプーンはもう手から離れ、膝の上でぎゅっと拳を握っていた。
「でもまあ、たぶんアレね。動くだけで何もしない系」
「“動くだけで何もしない系”とかいう新カテゴリ作るのやめい!」
なだめようとした努力が全てパーになったので、僕は紅茶を一口飲んだ。
「……あれってさ、触れるのかしらね?」
エルが、スプーンを口元に運びながら、ついでのように言った。
「やめい! やめいったらやめい!」
シロの反応は早かった。
即座に身を乗り出してエルの袖をつかむ。
顔はもう半泣きである。
「いや、ただちょっと気になって。ああいう存在って、だいたい視認までで終わることが多いじゃない? でも、ここまで実在感あると、物理干渉できそうじゃない?」
「その干渉で何か起きたらどうするつもりなんじゃ!?」
「そしたら、観測結果が得られるわ」
「得られるのは“後悔”じゃ!」
それにしても、シロ――
……シャレにならないレベルで怖がってるな、これ。
袖をつかむ手は本気で震えてるし、顔色も明らかに青い。
スプーンどころか、息するのも忘れてそうな勢いだ。
まあ、気持ちは分からんでもない。
たぶん、“ぐちゃぐちゃ”が見えてたら、普通にガチ泣きするかもしれない。
それくらいには情報の形が崩壊してる。
顔なのか、別の何かなのかも判別できないし、視線を向けた側から脳が解釈をやめていくような感じ。
そもそも目が合ってるのかどうかも分からない。
ずっとこちらを見ている“気がする”だけで、確証はない。
存在してるのに“認識拒否されてる”っていう矛盾の塊。
情報災害の初級編って感じ。
見た目的にもかなりホラーだ。
目のない顔にじっと見られてるような、そういう質の悪さがある。
僕とエルはもう慣れてるけど、一般の感性持ってたらたぶん無理ゲーだ。
――と、そこで、なんとなく肘あたりに違和感。
見ると、シロが知らぬ間に僕の隣にぴったり寄ってきていた。
ほとんど距離ゼロ。
というか、物理的に僕の腕に触れている。
「……くっつきすぎでは?」
つい聞くと、シロはビクッと肩をすくめてから、むすっとした顔を向けてきた。
「べ、別に……寒かっただけじゃ。悪いか」
全然寒くない。
この店、むしろ室温ちょい高めだ。
けど、たぶん本人も無意識なんだろう。
体が勝手に“怖さ”から逃げようとしてるだけで。
――まあ、かわいいっちゃかわいいけど。
でもね、シロ。
君ならたぶん、あの“ぐちゃぐちゃ”、一瞬で塵にできると思うよ。
……まあ、それを言うのも野暮か。
――などと思っていたら、エルがふいに立ち上がった。
「ちょっと、見てくるわ」
そう言って、スプーンを皿の上に置く。
その仕草があまりにも自然すぎて、一瞬、ただのカフェの客として立ち上がっただけに見えた。
「う、嘘じゃろ!? ほ、ほんとに行くんか!?」
シロが素っ頓狂な声を上げる。
驚きと困惑が入り混じったその顔は、さっきまでプリンを褒めていた人とは思えないほど真剣だった。
エルは気にも留めず、髪をひとつかき上げると、そのまま“それ”のいるショーケースの脇へと、すたすた歩き出した。
エルの金髪が、ふわりと揺れる。
光を反射してきらめきながら、まるでこのカフェが普通の場所であるかのように、優雅に揺れている。
でも――向かってる先は、全然普通じゃない。
店の入口の隅、冷蔵ショーケースの脇。
“それ”が、じっと立っている。
あからさまにホラーの現場だ。
なのに、エルの足取りは軽い。
その背中からは「気になるから見に行ってくるだけですけど?」というニュアンスしか感じられない。
「ひ、引き返せ! 今ならまだ戻れるぞ! な、なあ!」
シロが席から立ち上がりかけるが、怖さが勝ったのかすぐに座り直した。
そのまま僕の袖をがっちりつかんでくる。
「む、無理じゃ……行ったら、絶対ろくなことにならんやつじゃろ……!」
まあ、気持ちは分かる。
それにしてもエル、迷いがなさすぎる。
すたすた、すたすた。
まるで公園の鳩でも見に行くかのようなリズムで、一直線に歩いていく。
――そして。
“ぐちゃぐちゃ”との距離、50センチ。
エルはそこで、ぴたりと足を止めた。
何のためらいもなく、手を伸ばす。
触れた。
――びちゃっ。
……うわあ、音の質感がリアルだ。
例えるなら、冷蔵庫の奥で忘れられたゼラチン系スライム。
しかも多分、生きてる。
エルはしばらく、その手をそのままにしていた。
“ぐちゃぐちゃ”も動かない。
音以外のリアクションは、特にない。
数秒後、エルはゆっくりと手を離し、何事もなかったかのように席へ戻ってきた。
紅茶を一口飲み、僕の方を見て言う。
「……多分、これ私、呪われたやつね」
「なるほど」
僕も頷く。
「呪い系のやつか!? なんでそんな涼しい顔しとるんじゃお主ら!!」
シロが机をばんばん叩いた。
さっきまで怯えていたのに、今は逆方向に振り切れて怒っている。
「だって、呪われたって言っても、今すぐどうこうじゃないっぽいし」
「“っぽいし”で済ませる話じゃなかろうが!!」
エルは手をひらひら振って、自分の手のひらを確認している。
「感触としては……そうね。生暖かいこんにゃくを、ちょっとミキサーにかけてから戻した感じ」
「やめんか! 食レポ形式で語るな!」
「いやでもほんと、食感で言えば――」
「言うな!!」
もう、シロの脳内メモリは限界だった。
──あ、これ、確かに呪われてるな。
ぱっと見は普通だけど、情報の奥のレイヤーがちょっとだけ“ずれてる”というか、所々、観測に対して抵抗するような構造が混ざってる。
完全に典型的な呪い系の挙動だ。割とよくあるやつ。
まあ、エルだし問題ないか。
というか、絶対わざと受けにいったっぽい。
僕たちの場合、そういう“呪いっぽいもの”って、そもそも基本的に通らないし。
とはいえ、僕もたぶん同じ立場なら受けると思う。
ちょっと気になるし。
高次元存在って、そういうところがある。
効かないくせに、試してみたくなる性分というか。
僕がそう思ってると、当の本人がふわっと紅茶を一口飲んで、さらりと言った。
「ま、解呪しようと思えばできるけど……しなくてもいいわね。面白そうだし」
その瞬間、横でシロの表情が止まった。
「……え?」
間を置いて、椅子から立ち上がる勢いで叫ぶ。
「なんでほっとくんじゃ!? なんで“面白そう”で呪い放置するんじゃ!?」
「だって、ほら、こういうのって後々、楽しい展開になりがちじゃない?」
エルがご機嫌に言いながら、スプーンでプリンをつつく。
「お主ら、感性どうなっとるんじゃ……」
シロが震える声で言って、目を逸らす。
僕とエルを交互に見て── 距離を取ろうとして、でもやっぱり怖いのか、ひっついたままだった。
エルはというと、いつも通りというか何というか。
バグ空間であれだけ叫んでたから、こういうのも苦手なんじゃないかと思ってたけど──本人はそうでもないらしい。
地獄で平然としてたし今更かな。
まあ、僕も割と感性がおかしいところがあるから、とやかく言える立場でもないんだけど。
そしてその日、僕たちはスイーツを食べ終えると、特に何も言わずに席を立った。
会計を済ませて、店を出るまで、全員いつも通りの動きだったと思う。
エルは最後にもう一度メニューを見ていたし、シロは袖を少し引っ張ってきた。
“ぐちゃぐちゃ”は、最後まで特に動かなかった。
喋りもしなければ、こちらを見ることもなかった。
ただ、そこにいた。
変わらず。
まるで最初から最後まで、風景の一部だったかのように。
外に出ると、少し風が強くなっていた。
空は晴れていたし、僕たちはそのまま何事もなかったように歩き出した。