あの後、例の“ぐちゃぐちゃ”を見かけることはなかった。
別に消えたとも、いなくなったとも言えないけど、とにかく視界には現れなかったし、エルも何も言わなかったし、シロも時間が経って落ち着いたし、まあ、そういうことにしておこう。
で、夜になった。
僕らはだいたい、どの世界にいても夜はちゃんと宿に泊まる主義だ。
別に謎空間で無限ループしながら仮眠してもいいけど、それだとどうにも風情がない。
せっかく旅をしてるんだから、ちゃんとベッドがあって窓があって、ルームサービスのメニューが分厚いやつの方がいい。
そういうものだ。
今回は、高級ホテルである。
「ここがいいわ」
通りすがりにエルが突然そう言って、何の迷いもなく決めた。
名前に“レジデンス”とか“スイート”とか“グラン”とか、そういう豪華っぽい単語が三つ以上並んでる時点で、予算について話し合う余地はないらしい。
シロは「なんだか、えらい場所に来たのう……」と小声でビビっていたが、気づいたときには自動ドアが開いて、僕らは絨毯の海に足を踏み入れていた。
ロビーは無駄に広かった。
天井が高すぎて雲でも浮かんでそうだし、シャンデリアが星座みたいにぶら下がっている。
床はピカピカで、どこを歩いても「高級そうな音」が鳴る仕様らしい。
グランドピアノはもちろんあるし、フロントには金の鈴が置かれていた。
何に使うのかは知らない。
ひとしきり圧倒されたあと、僕らはエレベーターに向かった。
そして、タイミングよく、目の前の扉が「チン」と開く。
……中にいた。
ぐちゃぐちゃの、あれが。
エルが、ほんのわずかに眉を動かした。
どうやら、彼女にとってもこれは“想定外”の登場らしい
乗ろうとした足が止まり、僕とエルは、ただ黙った。
というか、絶句した。これはもう反射的なやつだ。
まさかこんなところで、しかもエレベーターの中で再会するとは思わなかった。
もうちょっと、廃墟の隅とか、深夜の鏡の中とか、そういう場所にいてくれよ。
「……? どうしたのじゃ?」
シロだけが、不思議そうに首を傾げている。
そうだ、彼女には見えていないのだ。
エルが何か言いかけたが、隣でシロが小刻みに震えていたので、言葉を飲み込んだ。
彼女なりに空気を読んだらしい。
いや、空気というより“恐怖成分”を読んだのかもしれないけど。
エルがちらりと僕を見た。
「……行く?」という視線だったので、僕も無言でうなずく。
そうして僕らは、ぐちゃぐちゃのそれと一緒に、エレベーターに乗り込んだ。
完全に満室だった。
いや、物理的には空間に余裕はある。
あるのだけど、存在感が飽和しているというか、情報密度で圧迫されているというか、とにかく精神的にはギュウギュウだ。
「な、なんじゃ? そんなに詰めて乗らんでも……我ら三人しかおらんじゃろ?」
シロが少し戸惑い気味に言うが、いや、その“らん”のカウントには含まれてないんだよ、と説明する勇気はなかった。
ボタンはエルが押した。
彼女の指先が一瞬ためらったのは、たぶん気のせいじゃない。
エレベーターは静かに上昇を始めた。
メロディも鳴った。
なんだかやけに明るいやつ。
その場に流れているのが軽快なエレベーター音楽ではなく、未知の存在が出す情報ノイズじゃないかと、一瞬錯覚しかけた。
ただ、それでもドアはちゃんと閉まり、ちゃんと開いて、ちゃんと部屋のある階まで辿り着いた。
僕たちは静かに、でも確実に、“ぐちゃぐちゃ”のそれと同じ空間から出ていく。
いや、出るというより、脱出という表現のほうがしっくりくる。
僕とエルは何も言わずに、廊下を進む。
ようやく部屋の前に辿り着き、エルがカードキーをかざす。
小さな電子音とともに、ドアが開いた。
部屋は、まあ、いかにも高級ホテルって感じだった。
広いし、天井は高いし、床のカーペットは歩くたびに高そうな感触がするし、ソファは座った瞬間、思考力を奪ってくる柔らかさだった。
ベッドもでかい。
全員が大の字で寝ても、まだ余る。
窓の外は夜景がキラキラしてて、「はい非日常です」と言わんばかりの光量だったし、部屋に置かれてるグラスとか照明とか、いちいち「壊したら請求がやばそう」な存在感を放っている。
でもまあ、そういうのはわりとどうでもいい。
とりあえず荷物を置いて、ソファに沈みながら一息ついたところで、シロがふらりと立ち上がった。
「のう、風呂……見てくるのじゃ」
急にどうした、と聞く間もなく、彼女は部屋の奥へと消えていった。
気になるらしい。風呂が。
確かに、ここまで来たら風呂も期待していいレベルではある。
エルはソファに倒れこんだまま、軽く手を振った。
なんかすでに完全にくつろいでいる。
やけに馴染んでる。
絶対この空間に慣れてるやつだ。
僕はというと、ぐちゃぐちゃが部屋の隅にいないことを確認してから、ようやく、少しだけリラックスした。
「……絶対、呪いのせいだよね」
シロの足音が遠ざかったタイミングで、僕はぽつりと言った。
このタイミングで言うのもなんだけど、今しか言えない気もした。
「そうね。まさか、ついてくるとは思わなかったわ」
エルは目を閉じたまま、まるで紅茶の味でも確かめてるみたいな声で答えた。
ソファに沈みすぎて、もはや人としての形を保っていない。
「……いや、普通は来ないよ。エレベーターまで」
「私もそう思う。あのタイプ、そういう“空気読めない”系ではなかったはずなんだけど」
どうやら、分類はされているらしい。
「……で、解呪とかしなくていいの?」
シロの気配が完全に風呂方向に消えてから、僕はぼそっと聞いた。
エルはソファに沈んだまま、目を閉じていたけど、しばらくしてからゆるく口を開いた。
「うーん……まだ、いいんじゃないかしら」
その言い方が、やけに含みがあった。
「『まだ』?」
「どうなるか、ちょっと気になるのよね」
目を開けたエルは、紅茶でも味わうような声音で言った。
呪われてるのは事実。
しかも相手はあの“ぐちゃぐちゃ”。
本来なら即座にお祓いコースなんだろうけど、どうにもこの子は……いや、僕も含めてだけど、興味が勝ってしまうタイプらしい。
「……まあ、確かに」
ソファに沈みながら、僕も天井を見上げる。
「ちょっとだけ、気になるのは否定できない」
不穏だし、存在感バリバリだけど――あれがこのままどうなるのか、何をするつもりなのか、それとも何もしないのか。
僕の視界には、あの“ぐちゃぐちゃ”の構成情報がうっすら残っている。
やろうと思えば、波形を追って正体を探ることもできるし、構造を分解して意味論的に分類することもできる。
でも、それをやると――つまらない。
正体がわかってしまえば、ただのバグでしかなくなる。
それは、“面白さ”の死だ。
多分、エルも似たようなことを考えているのだろう。
なんとなく、それっぽいことを水を向けてみたら――案の定、返ってきた答えはこれだった。
「謎のままのほうが、楽しいもの」
彼女は、手にしたカップをくるくると回しながら、視線は宙を泳がせたまま言う。
あの“ぐちゃぐちゃ”を見た時と、まったく同じ顔だった。
興味はある。
けれど、解析するほどの野暮はしない。
彼女なりの、遊び方なのだろう。
……これをシロに聞かれたら、間違いなく怒られる。
「なにを呑気なことを言うとるんじゃ!」とか、そんな感じで。
でも、仕方ないのだ。
僕らは好奇心に弱い。
そういうのが、やたら気になってしまうのだ。
それに――まあ、シロには言わないでおこう。
怖がりだし。
いや、すでに一度震えてたから、事実としてこわがってるんだけど。
今のところ、彼女には“ぐちゃぐちゃ”は見えてない。
それなら、見えてないままでいいじゃないか。
わざわざ呪いの話をして、不安の種を蒔く必要はない。
ほら、そういうのって、「知らなければ平和」ってこと、あるし。
――決して、言いそびれたとか、タイミングを逃したとか、そういうのではない。
たぶん。
シロが戻ってきたのは、それから少ししてからだった。
「……のう、風呂もまた、でかかったぞ」
開口一番、彼女はそう言った。
うん、知ってた。
高級ホテルの風呂って、なんであんなに無駄に広いんだろう。
泳げるんじゃないかってサイズで、だいたいジェット機能とかついてる。
「あと、アヒルが三匹おった。なぜか整列しとる」
「整ってるのが高級ってことじゃない?」
ソファに沈んだまま、エルが小さく笑った。
夜は、静かに更けていく。