——ふと、目が覚めた。
暗い。
窓のカーテンは閉じられていて、かすかに非常灯の赤い光だけが部屋をぼんやり照らしていた。
それは、視界の端にいた。
あまりにも自然に、そこにいた。
ぐちゃぐちゃの顔。
正面か、逆さまかもわからない。
笑っている。
ぬめったような、ただの“形”だけが笑っていた。
「うわ、びっくりした」
思わず声が出た。
軽めのトーンで。
その“何か”は、こちらを覗き込んだまま、じっと動かない。
まるで、こちらの目が開くのを、最初から待っていたかのように。
あまりにも唐突すぎるホラー展開だった。
っていうかこれ、さっきと同じぐちゃぐちゃじゃ無さそう。
別個体だろうか。
何となく横に視線をやる。
ベッドは広めのダブルサイズで、なんとなく川の字になって寝ていた。
左にエル、右にシロ。
シロは熟睡中。たぶん爆睡というやつ。
で、エルは——起きていた。
目が合う。
エルは無言だった。
代わりに、ゆっくりと、上を指差す。
声を出さないのは、たぶんシロを起こさないためだろう。
こっちも無言で頷いて、視線だけ上に向けてみる。
正直、だいぶ嫌だった。
——いた。
天井に、何かが、逆さまに張り付いていた。
ぐちゃぐちゃ。
けど、さっきのやつともまた違う。
こっちは、顔らしきものすら無くて、ただ“ぐにゃぐにゃした塊”がこっちを見ている。
目があるわけじゃないのに、見られてる感じがするのが微妙に怖い。
「……これが“ぐちゃぐちゃの呪い”ってやつかしらね」
エルが小声で、でもわりと楽しそうに言った。
肝試しにきた小学生みたいなテンションだった。
「呪いにしては、だいぶ物量で攻めてくるタイプだなあ……」
天井の塊は、じわじわと位置を変えてる。
さっきよりも少し、近い気がする。
やめてほしい。
ちらっとシロのほうを見る。
ぐっすり寝ている。
寝顔は穏やかで、今にも「んふぅ……」とか寝言言いそうな感じだった。
……いや、マジで見えなくてよかったね、シロ。
もしこれが視界に入ったら、たぶん一発でアウトだった。
怖いものが“見える”ってのは、便利だけど、だいぶ損もある。
それにしても、まあ——
ぐちゃぐちゃしたのが、いて。
天井にも、壁にも、ひょいっと現れて。
こっちをじーっと見てる。
やはり、そういうのが“いる”のが、この世界なのだろう。
こっちからすると、魔法が飛び交う異世界みたいなもので。
ただただ、「そういうのもある」っていうカテゴリの話。
そんな感覚で、まあ、なんとなく納得しておくことにした。
……なんて思っていたら、エルが浮いていた。
天井までふわっと上がって、例のぐにゃぐにゃに、手を伸ばそうとしている。
やめといた方がいいと思うよ。
いやほんとに。
そういうの、だいたいロクなことにならないから。
「ぬちょっ」て、なんか気持ち悪い音がした気がするけど——気のせいってことにしておく。
ふと見ると、シロはまだすやすや寝ていた。
平和だなあ。
何より。
……まあ、どうにかなるでしょ。
僕はもう一度、布団に潜り込んだ。
─────
朝が来た。
ホテルの窓からは、やけに眩しい朝日が差し込んでいて、世界は一見、平和そのものだった。
いい朝だ。
ベッドの上で伸びをして、ふわっと欠伸。
隣を見れば、シロがまだ寝ぼけまなこで「ぬがぁ……」とか言ってるし、エルはすでに身支度中。
タオル巻いて髪拭いてた。
こんなふうに普通の朝が来ると、「昨夜のあれ」は夢だったんじゃないかって思えてくる。
でも——
視界の隅に、“いる”。
天井の角。
廊下の鏡の中。
窓ガラスの外。
ふと目をやれば、そこに「ぐちゃぐちゃ」がいる。
昨日より、明らかに“数”が増えている。
しかも、こちらに背を向けてるやつとか、壁と同化してるやつとか、わりとバリエーション豊かになっていて、ちょっとしたフェス感ある。
……これは、流行ってきてるな。
ぐちゃぐちゃブーム。
目が合うと、すっと動きを止めるのがちょっと怖い。
バレた、みたいな雰囲気出すのやめてほしい。
そっちが勝手に出てきたくせに。
とはいえ、こっちはこっちで朝ごはんのことを考えていた。
パンとサラダか、和食か、どうしようかな。
いや、ここはあえてフルーツだけで攻めるのもアリ——
「……ねえ」
エルの声。
鏡の前で、じっと何かを見ていた。
「昨日より、多い気がするのよね。気のせい?」
たぶん気のせいじゃない。
でも、それを言うと空気が重くなるので、とりあえず黙っておいた。
まあ、朝は朝で、やるべきことがある。
そう、朝食バイキングである。
朝食バイキング会場は、ロビーの先にある大広間だった。
内装はやたらとゴージャスで、天井は高く、どこからかクラシックっぽいBGMが流れている。
パンの香りとバターの香りが混ざって、いかにも“ホテルの朝”って感じだった。
けれど。
そこかしこに、“いた”。
壁の隅に、ひっそりと張りついてるやつ。
カトラリー台の下で、足だけぴくぴくしてるやつ。
バナナの山の向こうで、頭だけにゅっと飛び出してるやつ。
「いや、どう考えても増えてるだろ」って言いたくなるくらいに、わらわらしていた。
それでも、シロは——
「ん〜……焼きたてパンの匂いがするのう……ほわぁ……」
寝ぼけた声で、ふらふらと歩いていく。
その動線上には、当然のように“ぐちゃぐちゃ”がいて。
ぬちっ。
ずるっ。
べちょん。
そのたびに、なんとも形容しがたい音が響いた。
湿度の高いスライムでも踏んだみたいな、生命的な“何か”を感じさせる音。
シロは全く気づいていない。
目の前にいる“それ”を、あっさりとすり抜ける。
むしろ一瞬だけ“それ”のほうが圧縮されて変形している感じすらある。
そしてシロは現在パンコーナーの前で、ぐるぐるに巻かれたクロワッサンを見つけて、嬉しそうに「これがええ、これ!」と指さしていた。
その背後の壁には、四つん這いのぐちゃぐちゃが逆さまに貼りついて、こっちを凝視していた。
めっちゃ目が合ってた。
こっちとしてはもう、なるべく見ないようにして、視界に映った瞬間だけ「あっ」と思うくらいの受け流しモードに入っていた。
……まあ、せっかくだし朝は美味しく食べたい。
そう思いながら、僕もトングを手に取った。
パンを皿に乗せて、コーヒーも注いで、とりあえず朝の儀式は完了。
席に戻ろうとしたその時——
「あ、ここにするのじゃ」
シロが、ふわっと椅子に腰を下ろした。
……いや、それ椅子じゃない。
僕とエルが、同時に動きを止めた。
そこにあったのは、“ぐちゃぐちゃ”だった。
正確には、四肢が変な方向に折れ曲がった、椅子サイズの“ぐちゃぐちゃ”である。
たぶん、今朝生まれた新人。
妙に綺麗に形が整っていて、確かに遠目には椅子っぽく見えなくもなかった。
でもそれ、“座る用”じゃないと思うよ。
物理的にも倫理的にも。
シロはまったく気づいていない様子で、パンをもぐもぐし始めた。
むしろ「ふかふかじゃな」とか言っている。
たぶん、質感は悪くなかったのだろう。問題はそこじゃない。
エルが、すんごい微妙な顔でこっちを見た。
なんていうか、「さすがにこれは注意したほうがいいのでは?」という表情。
でも、本人が幸せそうならそれでいい気もしてきた。
それにしても——
「……君は今、とんでもないところに座ってるよ」
僕は小さくつぶやいた。
もちろん、本人には聞こえていない。
“それ”は、シロに座られたまま、ぺしゃんこになって微妙にぷるぷる震えていた。
ちょっと可哀想になってきた。
……ふと。
気づいた。
“それ”——シロに椅子として座られていたぐちゃぐちゃ——の“形”が、明らかに変質していた。
ぬるっとしていた粘体っぽい表面が、どこか乾いた感じに変わっていく。
色も、さっきまでの黒っぽいものから、灰色がかってきていて。
ぷす……ぷす……と、どこか遠くで水が蒸発するような音。
——ああ。
これは、まずいかもしれない。
「……エル」
「ええ、見えてるわ。たぶん、溶けてる。というか、消えていってる感じ」
そう、つまり。
接触してる時間が長すぎたのだ。
シロはただ、ふかふかの何かに座って朝食を楽しんでいるだけ。
でも、それだけで“それ”が崩れていく。
“ぐちゃぐちゃ”にとって、シロという存在は、構造的に有害すぎたのだろう。
——というか、ここまで物理干渉できてたことの方が異常だった。
「……じゃあ、あのぐちゃぐちゃって、案外優秀だったんだな」
なんとか“座れる程度”には自分を固定していた、という点において。
だけど、それも限界があったらしい。
シロがパンをもぐもぐしている間に、それは音もなく崩れていき、最終的には——
「……ぺしゃんこ」
まるで、パンケーキの下に敷かれたバターのように、跡形もなく潰れていた。
幸せそうにパンを食べるシロと、何かを失ってしまった異形の気配だけが、そこに残っていた。
……まあ、当然か。
シロは“人型の情報災害”みたいなもんだし。
触れただけで消し飛ばないあたり、この“ぐちゃぐちゃ”はわりと根性があったみたいだ。
とまあ、そんな感じでシロは昨日のぐちゃぐちゃ騒ぎを引きずる様子もなく、けろっとした顔で高級ホテルのバイキングを満喫していた。
僕とエルはというと、視界の端に大量のぐちゃぐちゃを収めたまま、黙々と朝食をとった。
うん、まあ、わりと普通に。