これまた違う世界に降り立った僕たちは、全裸のおじさんを発見した。
街中の歩道。午後の日差しがやや強めに照りつける中、普通に散歩していたはずなのだが──ふと気づけば、前方に笑顔の全裸のおじさんがいた。
「な、なんじゃあやつは!?」
隣でシロが、目を剥いて叫ぶ。
全裸という点では彼女も似たようなものだったが、今はちゃんと服を着ている。なので、発言権はある。
驚きのあまり、指差しながら後ずさるシロ。
が、周囲の人々はまるで気にしていない。
彼は、ぱっと見ただの中年男性だった。
薄くなった頭髪に、少し腹の出た体型。
どこにでもいそうな、冴えないおじさんだ。
だが今、そのおじさんは、笑顔で全裸だった。
服を着るという常識をどこかに置き忘れてきたかのように、堂々とした佇まい。
堂々としているが、やはり全裸である。
すれ違った女子高生は、くすりと笑って「変なおじさん」と呟いたが、それはあくまで“笑える存在”としての認識でしかなかった。
「……あの男、“気づかせない”ようにしている」
僕は冷静に言った。
彼を取り巻く情報層を見るに、恐らく、彼は“ある日”能力を得たのだ。
自分の存在を“都合よく解釈させる”力──つまり、催眠能力。
それは世界にとって不自然なはずの全裸すら、常識の一部として上書きさせる。
「本来なら、軽犯罪として即通報されているはずだ。しかし現実は……誰も通報しない。いや、“通報できないようにされている”」
僕は、少しだけ面白くなってきた。
なんて思っていると、そのおじさんの視線がこちらに向けられた。
「お、おい、これどうするんじゃ!?」
シロが慌てたように僕に問いかけてくる。
「いや、まだ観測だ。彼がこの力で“何をしようとするのか”──それを見届けよう」
そして、全裸のおじさんは、満面の笑みで近づいてくる。
この世界の“倫理”が、試されようとしていた
その動きはゆっくりと、しかし確実に僕たちのもとへとやってきている。
足音がするたび、周囲の雑踏がほんの少しだけ歪んで聞こえる。
僕にしか分からないだろうが、彼の能力が範囲内の“常識”をじわじわと塗り替えている証拠だ。
そして──おじさんが立ち止まり、口を開いた。
「そっちの白い子、服を脱いで?」
無邪気な声だった。まるで「今日はカレー?」くらいのテンションで、ありえない要求を口にする。
「──ッッ!?」
シロが目を剥いた。
顔が一瞬で真っ赤になる。
「な、なにを言っとるんじゃこやつはァ!! いきなり何の文脈もなく脱げとはどういう了見じゃ!!」
シロの怒声が響きわたった。
だが──その反応に対し、全裸のおじさんは、困惑したように眉をひそめた。
「……効いてない?」
小さく、呟く。
まるで、電子レンジで温めたはずのごはんが冷たかったときのような、素朴な困惑だった。
次いで、彼は自分の手を見つめ、指を何度かぱちぱちと鳴らしてみる。
「いや、確かにさっきのOLさんには効いてたし……さっきの女子高生も自然だったし……あれ? あれれ?」
何かがおかしい、とでも言うように、首をかしげる。
もちろん今も全裸のまま。
中年男性特有の、若干くたびれた肉体が、午後の陽光を反射している。謎の無防備さが逆に怖い。
「お、おい……この世界、もしかして、我らが思っとるよりもヤバいのではないか?」
シロが肩越しに囁く。
怒りが冷めたというよりは、事態の異常さが上回ったのだろう。
声に微かな震えがあった。
全裸の中年男性に服を脱げと言われる幼女。
その構図の時点で、すでにこの世界は終わっている気もしたが──僕たちはまだ“観測者”であり、干渉者ではなかった。
「いや、ほんとおかしいなぁ……」
おじさんは、ぼやくように言いながら、こちらへとさらに二歩、距離を詰める。
完全なる無警戒。
疑うことすら知らない目で、シロを見つめている。
僕もいるんだけどね。
「いつもなら、ほら。こうやって“お願い”すれば、みんな自然に──こう、ぬぎぬぎって……」
手のひらで服を脱ぐジェスチャーをしながら、真顔でそう言った。
狂気か、神か。
判断に迷うほどの堂々とした所作に、僕のほうが一瞬、何も言えなくなった。
「お、おい主よ……早くなんとかせい……! もう倫理とか理性とか、そういうもんがガタガタと崩れていく音が聞こえてきとる……!」
シロが必死に僕の袖を引っ張る。
だがその顔は、怒りでも怯えでもなく──どこか、“素で引いていた”。
これはシロにとっても未知の存在だったのだろう。
情報災害で人類を絶滅させた彼女ですら、「全裸のおじさんに脱げと命令される」経験は初めてなのだ。
一方そんな事を誰構わずといった調子で全裸のおじさんは、なおも笑顔を崩さず、シロに向かって語りかける。
「いやぁ、君ほんと可愛いねぇ。似合うと思うんだよ、裸」
その言葉に、シロの全身がビクリと震える。
「うーんおかしいなあ……」
おじさんがまるで理不尽な不具合に直面した技術者のような顔をする。
そしておじさんは次に、なぜか腰のあたりに手をやった。
いや、正確には「腰のあたりの、ポケットがあるべき場所」に、である。
もちろん、ポケットなど存在しない。
なにしろ彼は全裸なのだ。
ズボンすら履いていない。
にもかかわらず──おじさんは、ごく自然な動作で指をその“空中の虚無”に差し入れると、
「よいしょっと」
という掛け声とともに、何かをつまみ出した。
空間が歪んだわけでも、光が弾けたわけでもない。
ただ、おじさんが当たり前のように“そこから取り出した”のだ。
その手には懐中時計──どこからともなく取り出したそれが、ゆらゆらと揺れていた。
「そっか……そっかそっか。今日はちょっと入りが悪いだけかもしれないね」
そう言って、おじさんはポンと手を打つ。
「じゃあ次は、目を見て……そう、僕の目をじっと見てごらん?」
ぐいっと顔を近づけてくる。
全裸の中年男性が、満面の笑みで幼女に顔を近づけるという構図。
シュールを通り越して、もはや哲学的な情景だった。
「君は、僕の声を聞くと……自然と体が熱くなって、リラックスして……思考がふわふわしてくるぅ……」
「……」
シロの顔がこわばる。
この世のものとは思えない微妙な空気が、その場を支配していた。
だが、おじさんは本気だ。演技でも狂気でもなく、ただただ“信じている”のだ。
自分の声が、人の意識に届くと。
「ほら……もう言葉が頭に入ってこなくなってきたよね……?」
とろんとした目で見つめてくる。
「なってない」
シロが真顔で言った。
「えぇ……? いや、でもさ……」
おじさんは、一瞬だけ時計を見下ろし、またシロの目を見て言った。
「いまのテンポも、イントネーションも悪くなかったはずなんだけどな……あれ? あれ?」
小声でぶつぶつとつぶやきながら、何かを確認するように指を折って数えている。
「視線誘導……間の取り方……リラックスさせるワード……どれも悪くない……はず……」
冷静にチェックしているのが逆に怖い。
むしろ“催眠術師としての誇り”を持っているのかもしれない。全裸なのに。
……全裸なのに。
「じゃあ、最後の手段だよ」
おじさんが、急に“奥の手を出す時の顔”になる。
「な、なんじゃあ? まさか、ここで秘奥義でも出すつもりか?」
シロが身構えるが、彼はにこにこと言った。
「名前を呼ぶと、強くかかるって聞いたことあるんだよね。だから──ねぇ、君の名前、教えて?」
「断る!」
「えぇ……なんでぇ……?」
おじさん、ついに困惑を通り越して、ちょっと寂しそうな顔になる。
だが、それでも──まだ“催眠”という奇跡を信じていた。
「うーん……変だなぁ……やり方、間違ってないと思うんだけどなぁ……」
おじさんは、全裸のまま腕を組み、真剣に悩み始めた。
その姿は、どこまでも“努力する人”のそれに似ていたが、やっぱりただの変態だった
おじさんはまだ諦めていないのか、懐中時計を手に、にこやかに語りかける。
「じゃあ、時計の音に集中して……ほら、カチッ、カチッって……ね?」
ゆら、ゆら、と懐中時計が左右に揺れる。
金属の表面が陽光を受けて鈍く光り、まるで意識そのものをすべて吸い込もうとするかのようだった。
だが、シロは一歩も動かない。
というより、むしろちょっとだけ眉間にしわを寄せていた。
「なんなんじゃこやつは……我に何をさせたいんじゃ……」
懐中時計の揺れに目を奪われるふりすらしない。
「うーん、やっぱりおかしいなぁ……ふつうは、これでふにゃ〜っとなって、言うこと聞いてくれるんだけどな……」
おじさんは時計を見つめながら、真剣に悩んでいる。
その様子は“技術的失敗”に向き合う職人のようですらあった。
「そ、そうじゃ! その前に、まずおぬしが服を着……いや、なんで我がこんな奴とまともに会話しとるんじゃ……!」
シロがぶるっと震える。
羞恥か怒りか、それとも単なる拒絶反応か。
しかし、おじさんはまったく気にしていなかった。
「ねえ、ちょっと肩の力抜いてさ? リラックス、リラックス。まずは深呼吸からいこうか」
時計をゆらしながら、おじさんは優しい声で続ける。
その声音には、不思議な説得力があった。
「…………」
シロが沈黙する。
しかしそれは従う気配ではない。
ただひたすら、「どうリアクションするべきか」を計算しているような、そんな硬直した沈黙だった。
「……なにが“リラックス”じゃ、全裸の男に言われたら一番難しい行為じゃろうが!」
シロが一喝すると、おじさんは少しだけしょんぼりした。
「えー……でも、気持ちよくなるよ?」
「ならんわッ!!」
この日、街の一角で繰り広げられた光景は、倫理と理性と羞恥の三つ巴の戦いだった。
そしてそのどれにも勝っているようで、実は全敗している存在──それが“全裸のおじさん”だった。
全裸のおじさんは、しばし懐中時計を見つめたあと──近くの若い女性のもとへ歩んだ。
通りかかった女子大生らしき女性。
イヤホンで音楽を聞きながらスマホを操作していたが、おじさんが接近すると、不思議そうな顔をして立ち止まった。
「こんにちは〜。ちょっとだけ目を見てくれるかな?」
まるで道案内を尋ねるかのような気軽さで、おじさんは声をかける。
女子大生は一瞬戸惑ったが、にこにこしているその姿に妙な安心感を覚えたのか、イヤホンを外して顔を上げた。
──そして、次の瞬間。
「はい、じゃあゆっくり息を吐いて……リラックスして……目の前の時計の音に集中……そう、そう……」
カチッ、カチッ、と時計が揺れ、音を刻む。
おじさんの口調は、いつの間にか滑らかな催眠誘導のテンポに変わっていた。
「うーん……そうそう、そのまま……だんだん、まぶたが重くなってきて……もう、動かせない……」
女子大生の瞳がふわっと焦点を失い、ゆっくりと半開きになる。
効いている。
完全に、効いている。
その場の空気が、わずかに軋む。
「……やばい、本当に効いとるのか!?」
背後で、シロが青ざめた顔で囁いた。
「うん、あれは“素直な一般人”だ。おじさんの催眠能力は、最低限の条件さえ揃えば、それなりに強力みたいだね」
「じゃが、なんで我には効かんのじゃ?」
「君はそもそも“素直な一般人”じゃないからね。情報災害であって観測不可能な存在、しかも“概念的に服を着ている”と自認してるし」
「なるほど、我は倫理の彼岸にあるからの!」
ちょっと誇らしげに言うなよ。
一方、おじさんは催眠の進行にうっとりとした顔で頷いている。
「うーん……やっぱり、この感覚だよ……“届く”って感じ……」
と、そのとき。
催眠にかかっていた女子大生の腕時計がピピッと鳴った。
「あ、やばっ、バイト遅刻──」
ばっちり目が覚めて走り出していった。
おじさんは、しばし呆然とその背中を見送った。
「……ええー?」
見事なまでの、肩すかしだった。
全裸のまま突っ立っているその姿は、どこか切なく、やっぱり変態だった。
──この男は、ただの“おじさん”である。
ただし、“全裸で催眠を行使する”という一点において、誰よりも真剣だった。
だが、そんな彼がふいにこちらを振り向いた。
「……ていうか、君。さっきからそこに立ってるけどさ」
僕のほうを見て、にこやかに言う。
「君にはちゃんと、効くかな?」
全裸の男が、懐中時計を手に近づいてくる。
ようやく、観測対象が僕に向いたようだった──。