現在、僕たちは中華料理屋に来ていた。
昼だし、そこそこ混んでいる。
客層は地元の人っぽい。
いい雰囲気の、普通の店だ。
最近、なんだか食べてばかりな気がするなあ。
朝はホテルでバイキング、夜は夜で何か食べて、昼もこうして――って、こういうのって旅っぽいってことでいいんだろうか。
僕は、メニューの中でも特に主張の強そうな「やたらデカイチャーハン」を頼んでみた。
エルは担々麺と烏龍茶、シロは中華粥に胡麻団子。
三人三様に、それぞれの気分である。
そうしてやって来た、やたらデカイチャーハンは、想像以上にやたらデカかった。
大皿というより、もはや盆。
直径三十センチはある銀の皿に、山のように盛られた黄金の米が、湯気を立てて鎮座している。
「これ、たぶん二人前じゃなくて四人前あるよね」
スプーンを手に、僕はもはや笑うしかなかった。
エルはちらりと皿を見て、
「そのまま丼にして頭に乗せて歩けば、祭りに出られると思うわよ」
と言っていた。
そういう発想どこから出てくるんだ。
そんな感じで、ワイワイと料理が運ばれてきて、食事が始まってしばらく――
「……そういえば、じゃが」
中華粥を小さくすくいながら、シロがぽつりと呟いた。
「呪いはどうなったんじゃ? エルが変なのに触ってしもうたやつ」
……うん、それ言うか。
僕はチャーハンを口に運ぶ手を止める。
視線の端に、ふと映り込んだのは――
床とテーブルの隙間に、ぐちゃぐちゃと歪んだ“何か”が這っている光景だった。
いや、這っているというか、沈んでいるというか。
さっきまでいなかったのに、今は確かにいる。
ぐちゃぐちゃのひとつが、シロの椅子の脚にめり込みながら、音もなく蠢いていた。
当然のように、ぐちゃぐちゃはまだいた。
何事もなかったような顔で粥をすすっているシロの足元には、さっきのそれと同じような“何か”が、じわりと広がっている。
床に染みる黒インクのように、ただただ静かに。
「……本当は、もう消えとるんじゃろ?」
不意に、シロが呟いた。
「え?」
「エルの呪いのことじゃ。まだ続いてるみたいな空気になっとるが……本当はもう、とっくに終わっとるとかじゃないんか?」
粥を見つめたままの、独り言みたいな声。
疑うというより、確かめるような響きだった。
僕はチャーハンを咀嚼しながら、黙ってエルを見た。
彼女は担々麺をずずっと啜っていた。
まるで、ぐちゃぐちゃの話題も、呪いの件も、まるで関係ないかのように。
「跡形もなく消えてたら、私が気づかないわけないじゃない」
「じゃが、我には見えぬ。音もせぬ。臭いもせぬ」
そう言って、シロは僕を見た。
「……なあ、もしかして――全部、嘘なんじゃないか?」
「嘘?」
「うむ。呪いも、ぐちゃぐちゃも、全部じゃ。我をびびらせようとして、適当なことを言っておるだけとか……」
その瞳の奥に宿るのは、純粋な疑いではなかった。
むしろ、それが嘘であってほしいという願いにも似た――怯えのような光が、かすかに揺れていた。
僕の視線の先では、ぐちゃぐちゃが、壁の影からぬるりと覗いていた。
音もなく、形も定かでないまま、そこにいた。
ほんの少しだけ、目が合ったような気がした。
僕のスプーンは、チャーハンの山腹を突いたまま停止していた。
言うべきか、言わざるべきか。
真実を語ることで場の空気が凍りつくリスクと、黙っていることで僕の良心がチクチク削れていくダメージと――。
ああ、どうしよう。
ちなみに今の心境は、「口内に熱い米粒を抱えたまま、ロシアンルーレットに参加させられている」くらいの緊張感である。
仮に今、「実はまだぐちゃぐちゃ、足元にいるよ」なんて言ってしまったらどうなるか?
――シロが泣く。
――それを見てエルが笑う。
――そして僕は、なぜか怒られる。
その未来が、はっきりと見えた。
……となると、これはいわば“地雷チャーハン”である。
どこまで食べたら爆発するか分からない、情報的リスクを孕んだ主食だ。
スプーンを構えたまま、僕は静かに考える。
言うべきか、言わざるべきか。
真実とは、時として人を救うが、同時に昼飯を台無しにもするのだ。
そんな中、スープを啜っていたエルが、ふと顔を上げた。
「……そこまで言うなら、見てみる?」
「む?」
「私が見えてるもの、ちょっとだけ――あなたの視界に乗せてあげる。フィルターっていうか、上から重ねる感じね。痛くはないわよ」
淡々と、まるで「醤油つける?」くらいのノリで言ってのける。
「……できるんか、そんなこと……じゃなかった。我に、それが見えるようになるということか?」
「そうよ。視界に、私が知覚してるものを“足す”だけ。ちょっとくすぐったいかもしれないけど、耐えてね」
エルはにこりと笑った。
担々麺の赤いスープをレンゲにすくいながら、まるで今からデザートでも出すような顔で。
シロは一瞬だけ迷ったように口を開けたが――やがて、眉をきゅっと寄せて、頷いた。
「……よし、構わん。見るぞ。我は騙されとるのか、真実なのか、確かめねばならぬ気がしてきた」
やめとけ、という僕の心の叫びは、もちろん音にはならない。
そして次の瞬間――
「はい、どうぞ」
エルが小さく指を鳴らした。
その瞬間、シロの顔が、ゆっくりと、静かに、蒼白になっていくのが見えた。
口は開きっぱなし、手はお粥の椀を握ったままピクリとも動かず、まるで時が止まったかのように。
見開かれた瞳は何かを見ている。確かに“そこにある”ものを。
だけど、声が出ない。
叫ぶべきだと、頭ではわかっているのに。
筋肉が、凍りついたかのように動かない。
「……あら、硬直したわね」
エルが楽しげに言う。
担々麺をすする手は止めず、スープの表面をレンゲでくるくると撫で回していた。
「ふふ、ほらそこ。椅子の下、増えてきたでしょ。七体目、頭だけ突っ込んでる。気づいてる?」
シロのまぶたが、一度だけぴくりと震えた。
返事はない。
静かだった。
あまりにも静かすぎて、厨房の中華鍋が鳴らす火の音まで、遠くから響いてくるようだった。
まるで、世界のBGMだけが置き去りにされたみたいな空間。
「……見えてるよね?」
僕がぽつりと訊くと、シロは、ものすごくゆっくりと頷いた。
その首の動きも、まるで映像をスロー再生したかのようにぎこちない。
「うん。見えてるわよ。ちゃんと視界に入ってる。目が合ってるもの、ぐちゃぐちゃと」
エルがにこやかに追い打ちをかけた。
一方の僕はチャーハンの山を見つめながら、ため息をついた。
だってほら、よく見たら、スプーンに盛った米粒の隙間から――小さな目玉みたいな何かが、こっちを覗いている。
「エル、これも重ねてる?」
「それは天然」
「天然かあ」
――そして。
何気なく、ふと背後を振り返った僕の視界に入ったのは。
ああ、いたよ。
ぐちゃぐちゃのやつ。
カフェにいたやつ。
ぐちゃぐちゃの、顔がどこかわからないやつ。
よりにもよって、普通に中華料理屋の丸テーブルに座ってた。
メニューを読んでるふうでもなく、注文を取ってるわけでもなく、ただ、そこにいた。
謎の質量と存在感を放ちながら。
いやちょっと待って、まさかとは思うけど――あれ、うちのテーブルの真後ろじゃないか?
僕はゆっくりとスプーンを下ろし、口を閉じ、呼吸を止めた。
うん、これはアレだ。
RPGで突然「敵シンボルが後ろからエンカウント」したときの、あの心境に似ている。
そっと、真正面のシロを見る。
彼女はまだ、視界に乗せられたまま、世界の真実を目の当たりにしていた。
眉は引きつり、口元は震え、粥は冷え――それでも頑張って耐えていた。
えらい。
でも、これはさすがに予想外だったらしい。
僕がチラリと後ろを見たことに気づいたのか、彼女もおそるおそる視線を振り返る。
次の瞬間。
シロの全身から、「魂が5センチだけ浮いた」ような絶句が漏れた。
「……あ……え、あ……えぇ……?」
声にならない声。
音にすらなりきらない困惑の、気配だけが震えている。
僕は、そっとチャーハンのスプーンを置いた。
今はもう、それどころじゃない。
「うん、いるよね。そこに」
と僕が言うと、
「おった、のじゃ……っ……あ、あれが、カフェの……」
と、シロはひくひく口を動かしていた。
さすがに動揺が限界を突破しかけている。
あんなに可愛く胡麻団子を食べていた姿はもう、どこにもない。
「エル、アレって……」
「たぶん、ついてきちゃったのねー」
エルは、まるで“雨の日に犬が家までついてきた”的なテンションで、呑気に答える。
「……呪い、じゃろ……やはり、我の感性は正しかったんじゃ……っ……」
震える指先で粥の器を抱えたまま、シロはそう言った。
えらい。
ほんと、よく頑張ったよ。
でもたぶん今夜、君は夢に見る。
エルは微笑を浮かべたまま、こちらを向いた。
「いたわね、やっぱり。というか、こっち見てるの気づいてる? さっきから」
言われて意識を向けた瞬間だった。
ぶわっと、来た。
冷や汗が噴き出すような、体の奥底から急激に広がる感覚。
胸の奥が焼けつくように熱くなり、逆に手足は氷のように冷えていく。
――死にたい。
脈絡もなく、理屈もなく。
ただそれだけの、強烈な衝動が、脳の内側からせり上がってくる。
びっくりするくらい、自然に。
まるで「喉が渇いた」みたいな感覚で、「死にたい」が浮かんでくる。
隣のエルも、やや口角を引きつらせながら、スープの器をゆっくりと置いた。
「……あー、これは、だいぶ強いわね」
「エルもか」
「ええ。視界に入れただけなのにね。なかなか――ううん、かなりヤバい。シロ、大丈夫?」
エルが問うと、シロはぴくりとも動かず、かすかに首だけを横に振った。
蒼白な顔に、脂汗が浮かんでいる。
何か言いたいのに、言葉が出てこない。
だが、明らかに伝わるものがあった。
――これは、ただ“見た目が気持ち悪い”だけの存在じゃない。
違う。
もっと根源的な、情報として“在ってはならない”何かだ。
存在自体が毒。
接触どころか、視界に入っただけで精神を破壊しにかかってくるレベル。
「……あ、これダメなやつだ」
僕は口の中のチャーハンを、どう飲み込むべきかすら分からないまま、心底から呟いた。
「見えるけど無害」と思っていた自分が甘かった。
こいつ、普通に攻撃してくるじゃないか。
しかも自動で、無差別に、無意識に。
ただ“見ただけ”で、死にたくなる。
本来なら、こういう“視覚系の干渉”は僕の方でフィルタリングされる。
勝手に効かないモードが働いて、脳まで届く前にカットされる仕様だ。
でも今は——わざと、それを切ってた。
エルが本来カットされるはずの呪いを“受けた”ように、僕もわざとそういうのを受けるようにしていた。
だから、もろに入った。
エルも似たようなものだろう。
僕はスプーンをそっとテーブルに戻し、ゆっくりと息を吐いた。
このあと何か言葉を発した瞬間に、たぶん世界が一つ崩れる。
そういう予感が、確かにあった。
でも、言わなきゃいけないことがある。
だから、僕は言った。
「さすがに、解呪しようか」
「……そうね。シロがそろそろ限界っぽいし」
エルが、ようやく担々麺の丼を置いた。
空になったレンゲをくるくると回しながら、軽く手を上げる。
「じゃあ、解呪しまーす」
まるで注文取りの店員みたいなトーンだった。
エルがスッと手を伸ばす。
僕とシロの間を通して、空間に指先を差し込むように。
「……“記録”と“投影”を、分けて剥がす感じ。ほら、レイヤー解除するみたいな」
言葉と同時に、空気が少しだけピリッと緊張した。
静電気のような、膜が剥がれるような気配。
そして。
――スーッ。
それは、本当に“スーッ”と消えていった。
足元を這っていたものも。
椅子の下に滲んでいたものも。
壁の影から覗いていたものも。
後ろの丸テーブルに座っていた例のぐちゃぐちゃまで。
ひとつ、またひとつと、音もなく、痕跡も残さず、跡形もなく、空気に溶けるようにして――すべてが消えていった。
「……ふっ……はぁっ……」
ようやく、シロが息を吐いた。
肩を上下させて、何度か深呼吸する。
「き、消えた、のじゃな……?」
「ええ、今度こそ本当に」
エルが微笑む。
冗談めかして手をひらひらと振ると、その指先にはもう、何も残っていなかった。
「……あー……なんじゃ、なんというか……」
放心したように呟いてから、シロはぐったりと机に突っ伏した。
「怖かった……! なんじゃあれ、もう絶対嫌じゃ……!」
「いや、我慢強かったよ。えらいえらい」
僕は優しくスプーンでチャーハンをすくい、シロの空のお椀に少しだけ分けてやる。
こんな時くらい、慰労の意味を込めてね。
「……あー……でも、エル」
「なに?」
「僕たち、結構軽く見てたよね、あのぐちゃぐちゃのやつ」
「ええ。実際、そこまで影響ないし、呪いも取れるし。って思ってたけど……」
エルは、少しだけ視線を落とした。
「……思ったより、ヤバいやつだったかもね」
「かも、じゃない。シロ、軽く死んでたよ」
「確かに」
二人で頷きあいながら、残った料理を食べ始める。
ぐちゃぐちゃも、呪いも消えて。
静かで、穏やかな、中華料理屋の午後が戻ってきた。
――ああ、昼飯って、いいなあ。