僕たちは世界を、まるごと乗り換えた。
あの“ぐちゃぐちゃ”みたいなのが、もういない世界だと思う。
たぶん。
別に確証があるわけじゃないけど、あの世界に居続けるよりはずっとマシだろう。
というわけで、今は公園のベンチに座って、三人でアイスを食べている。
日差しはやわらかくて、風はほどよく涼しい。
「木星に行きましょ」
アイスのスプーンをくるくる回しながら、エルがいきなり言った。
いきなりだね、と思ったけど、いつものことだったので、驚きはそこまででもない。
「……これまた、いきなりじゃの」
シロが口元にアイスをつけたまま呟く。
最近は唐突な発言にも、少しずつ適応してきている気がする。
最初の頃なら、もっと取り乱していたと思う。
「だってほら、あの“ぐちゃぐちゃ”みたいなので、精神けっこう削られたでしょ?」
エルはそう言って、カップの底に残ったアイスを名残惜しそうに見つめる。
「だから気分転換。木星辺りでのんびりしようかなーって」
そこで木星が出てくるあたり、やっぱり高次元存在なんだなと思う。
普通の気分転換って、たとえば温泉とか、猫カフェとか、せいぜい深海くらいだと思うんだけどなあ。
でもまあ、そこにツッコんだら負けな気がしたので、あえて何も言わなかった。
こういうのは、勢いとノリが大事だ。
「……一応聞くが、木星って、あの木星じゃよな? でっかくて、ガスで、嵐がぐるぐるしとる……あれじゃよな?」
「当たり前じゃない。他に木星なんてある?」
エルが少し呆れた顔で返す。
いや、あるかもしれないけど。
「う、うむ……まあ、地獄とか四次元空間よりはマシ……いや、マシなのか? 我の感性が、最近ちょっとずつ狂ってきておる気がする……」
アイスを一口食べてから、シロが遠い目をした。
たぶん、それは気のせいじゃない。
でもまあ、これくらい突拍子もない場所の方が、かえって気分も晴れるのかもしれない。
少なくともぐちゃぐちゃに脳をかき混ぜられるよりは、でっかいガスの塊にぼんやりする方が健全なはずだ。
「じゃあ、そろそろ行きましょっか」
そう言ってエルが立ち上がると、公園の真ん中にある噴水を指差した。
「あれ、ゲートにするわね」
「えっ、噴水が?」
「うん。水、好きだから」
理由になってないような気もするが、エルの中では筋が通ってるらしい。
そうこうしてるうちに、噴水の水が不自然に逆流を始め、中央に渦ができた。
どう見ても普通じゃない。
「ちょ、ちょっと待て! あれ、吸い込まれるやつじゃろ!? 我はまだアイスを食べ終えておらんぞ!」
「持って入れば?」
エルが当然のように言う。
ちなみに僕はもう食べ終わってた。ちゃんと準備は大事だ。
渦の中心が光り出し、空間がぷつりと音を立てて、開いた。
「じゃ、出発〜」
エルが先に飛び込み、僕とシロは顔を見合わせてから、しぶしぶその後を追った。
そしてゲートに入った次の瞬間、僕たちは、宇宙にいた。
足元に地面はないけど、ちゃんと立っていられる。
不思議なことだけど、僕たちにはよくあることだ。
空気もある。寒くもない。酸素もたぶんある。
そういう環境的な不安要素は、高次元存在的配慮でまとめてなんとかしてくれている。
エルの雑な気遣いに、ほんのり感謝しておこう。
「……あれが、木星?」
シロの声が、いつもより小さく聞こえた。
というより、周囲の静寂が深すぎて、声が音として沈んでしまう感じがする。
僕たちの視界のほとんどを、巨大な球体が占めていた。
目の前にあるのは、あまりにも大きすぎて、もはや「物」って感じがしない、ガスの海だった。
色は飴色とオレンジのマーブル模様で、雲のような渦が、ゆっくり、でも確実に流れている。
あの「大赤斑」も見える。
何百年も吹き続けてる巨大な嵐だ。
地球が丸ごと飲み込まれるサイズらしいけど、今はそれを俯瞰で見てるのに、ぜんぜん実感が湧かない。
「……なんじゃ、あれ。見えてはおるのに、見えておらん感じがするぞ……」
「それ正しいわよ。あまりにデカいから、脳が全体像を処理できないの」
エルがちょっと楽しそうに答えた。
たしかに、木星の“上のほう”と“下のほう”が、同時に視界に入らない。
ただの球体のはずなのに、見るたびに大きさの感覚がバグる。
「ちょっと気分転換のレベルじゃないよね、これは……」
僕がぽつりと呟くと、エルは満足げにうなずいた。
「そうでしょ? こういう、脳がぐにゃってなる感じ。私、わりと好きなの」
「……我、気分転換で気分がバグりそうじゃが」
シロが目をぱちぱちさせながら、アイスのカップをぎゅっと握りしめた。
恐らく、アイスが正気の支えになっているのだろう。
木星に視線を戻し、少し目を凝らすと、木星の周囲に、小さな光の粒がたくさん浮かんでいるのが見えた。
「……あれ、全部、衛星なんか?」
「ええ。今見えてるだけでも五十個くらいあるわよ。もっと近づけば、ガレージみたいにごちゃごちゃしてる」
ガレージ。
宇宙最大の星を、そんなノリで例えるのどうなのと思ったけど、
妙に納得してしまった。
「そこのちょっと明るいのがイオ。火山がバンバン噴いてて、たまに宇宙に灰を撒き散らしてるわよ」
エルが適当そうに指さす。
確かに、一つだけやたらキラキラしてる衛星がある。
「で、その奥にあるのがエウロパ。氷の下に海があって、生命がいるかもって言われてる」
「あ、それ聞いたことがあるような……宇宙魚がおるんじゃろ?」
「まあ、いたらいいなって感じだけどね。実際は、地球から潜水艇を送り込むだけでも数十年コースだし」
「ふむ……この距離から釣れたりせんのかの……」
「それは無理ね」
そう言いながら、エルは飴色の惑星の“表面”をじっと見ていた。
「ちなみにあそこ、固い地面とかないからね。ただのガス。ずーっと沈んでって、気圧で押しつぶされて、最後には核のあたりで炊き込みごはんみたいになる」
「木星って、炊き込みごはんなんか?」
「イメージね。味はしないと思うけど」
想像したら、なんかお腹が空いてきた。
いや待て、炊き込み木星って何だろう。
あとよく見ると、木星にはリングもある。
土星ほど目立たないけど、ちゃんと輪っかがかかっている。
「ほら、あれがリング。氷の粒とか岩とか、細かいのが集まってる」
「リング……ほほう、見えぬくらい細く繊細じゃな……まるでエルの神経のよう……」
「それって褒めてる? それとも折れそうって言ってる?」
「う、うむ……我もよくわからん……」
言いながら、僕もぼんやり木星を見つめた。
ゆっくり渦巻く雲の動き。
巨大な嵐の痕跡。
音のない世界に漂う、気が遠くなるような質量感。
――やっぱり、デカいなあ。
全体が見えてる気がしない。
見えてるのに、見きれない。
見きれないのに、圧倒される。
ただのガスの塊なのに、理屈とか感情とかを全部飛び越えて、脳が「うわあ」ってなる。
「……ちょっと、泣きそうなんじゃが」
シロがつぶやいた。
「それ、分かるかも」
僕も、少しだけそう思った。
そして――エルは隣で、妙に楽しそうな顔をしていた。
「……のう、あの赤いぐるぐる、なんか“目”っぽくないか?」
シロがぽつりとつぶやいた。
僕は視線を木星の大赤斑に移す。
なるほど、確かに、そう言われると――
「あれ、じっとこっちを見てる気がしてきた……」
「……確かに」
幽霊的な怖さとかそういうのじゃなくて、単純に“いる”。
そこに。どっしりと、重さを持って。
まるで空気が避けてるみたいに、明らかに空間の密度が違う。
物理的に怖いやつだ、これ。
「うーん……目、ねぇ」
エルが腕を組み、なにやら真剣な顔で大赤斑を見つめる。
「じゃあさ――」
嫌な予感しかしない始まり方だった。
「中、覗いてみよっか?」
「ほらきた」
「えっ、我ら、目に吸い込まれるんか……?」
「吸い込まれるんじゃなくて、入ってみるの。内側から見るのって、新鮮じゃない?」
「お主の“新鮮”は、普通じゃないんじゃが……」
シロが若干潤んだ目で僕を見てくる。
気持ちは分かる。
「でもまあ、せっかくだし?」
エルは満面の笑みで、ガスの海を指差した。
この金髪ロリっ子は確実に人類基準で“せっかく”の使い方を誤解している気がする。
「……行くのはいいが、潰れんように、ちゃんと高次元バリアとかそういうの張っとってくれよ?」
「うん、それはもう。バリア三重にしとくから安心して。あとアイスは離さないでね」
シロが小さく頷いた。
命よりアイスを守る構えだ。
「じゃ、行こっか」
エルがひょいっと浮かび、ゆっくり木星へと向かい始める。
その後ろ姿を見ながら、僕たちも静かに後を追った。
うーん。
気分転換って、こういう感じだったっけ?
そんな疑問が頭をよぎったけど――まあ、今更だ。