エルの背中を追いながら、僕たちは木星の大赤斑に向かって進んでいた。
厳密には“進んでいた”というより“移動していた”というか……たぶん、傍から見たらとんでもないスピードで突っ込んでるんだろうけど、体感としては散歩くらいの気楽さだ。
それでも、近づくにつれて、大赤斑の“異常なまでの巨大さ”がじわじわ実感として迫ってくる。
あれ、もしかして僕たち、模様に吸い込まれてない? ってくらい、視界が赤茶色に侵食されていく。
「……デカすぎんか?」
シロがぽつりと呟いた。
その一言に、すべてが詰まっていた。
「まあ、地球がすっぽり入っちゃうくらいだしね」
僕がそう返すと、シロは「うはあ」と間の抜けた声を漏らした。
「模様が地球サイズって……なんじゃその……宇宙のスケール感……」
顔を引きつらせたまま、シロは大赤斑を見上げている。
というか、見上げるというより、既にもう“視界が全部それ”って感じだけど。
こういう時、初見の反応って面白いんだよなあ、と思いながら、僕は赤茶色の渦を見つめ続けた。
視界いっぱいに広がる赤茶色の渦は、まるで星そのものが怒ってるみたいだった。
中心に近づくほど色が濃く、深く、黒ずんだ赤に染まっていく。
縁は波立つみたいに揺れていて、うねりながら無数の雲が巻き込まれていた。
そのひとつひとつが、ちょっとした島くらいのサイズに見えるのが、もうおかしい。
「……なんじゃこりゃ、ずっと回っとる……?」
シロの声が、やけに静かに聞こえた。
その回転に吸い寄せられるみたいに、僕たちの進路も自然と渦の中へと引き込まれていく。
そして——そのまま、大赤斑の渦に突っ込んだ。
赤茶色の雲に視界が包まれたかと思うと、次の瞬間、全部がぐにゃっと捻れた。
空間が、じゃなくて、感覚が。
前も後ろも上下も、ぜんぶ巻き取られてミキサーにかけられてるみたいな感覚。
風が——風っていうか、もはや物理攻撃——が四方八方からぶつかってきて、体が吹き飛ばされそうになる。
いや、実際には飛んでないんだけど、バリア的な何かがなかったら、僕たちもう粉々になってる自信ある。
「あっ!? これ! これやばいやつじゃろ!!」
シロが叫んだけど、声が風にちぎられて、よく聞こえない。
代わりに聞こえてくるのは、低くうなるような風の音と、時折バチバチと弾ける雷鳴。
真横で光った稲妻が、雲の中を白く切り裂いていくのが見えた。
「視界、真っ赤じゃな……っ! 雷!? 雷まであるんか!?」
うん、雷はある。
ていうか、あちこちで空間ごと燃えてるんじゃないかってくらいの勢いで雷光が渦を縫っている。
渦の中心に向かって引き込まれていく感覚は、まるで星の怒りに飲まれているみたいで、どこか神話的ですらあった。
美しくて、狂ってて、絶対に肉体では耐えられない場所。
——と、そこでふと気づいた。
「あれ、エルは?」
さっきまで前を飛んでいたはずのエルの姿が、見当たらない。
と思った次の瞬間、
視界の端で、何かがビュンッと音を立てて飛んでいった。
真横を、高速で、金髪がひときわ目立つ何かがぶっ飛ばされていった。
……エルだった。
髪をぶわっとなびかせながら、空中でぐるぐる回転しつつ、赤茶色の渦の中に消えていく影。
「えっ!? エル!? 今、吹っ飛ばんかったか!?」
シロが目を見開いて叫ぶ。
でも僕は、ちゃんと見ていた。
僕たちの目の前を通り過ぎていく直前、エルがほんの一瞬、こっちを向いてニヤッと笑っていたのを。
だからたぶん、あれはわざとだ。
風速数百メートルの嵐に突撃して、ぶっ飛ばされるのを楽しんでるだけだ。
この状況でテンション上げてるの、冷静に考えると中々にクレイジー。
なお、吹っ飛ばされていく途中のエルの身体は、わりとシャレにならない感じに曲がってたりしたけど、まあ、たぶん平気。
……さて。
ここまで来て、ふと思ってしまった。
「……ねえ、僕たちも、やってみる?」
無責任に、でもちょっとワクワクしながら僕が言うと、シロはものすごく嫌そうな顔になった。
「な、なんでじゃ!? 見たじゃろ!? あの飛び方! エル、最後ちょっとバキってなっとったぞ!?」
言葉の最後が裏返ってるあたり、結構本気で嫌がってるっぽい。
「うーん、でも楽しそうだったじゃん? あれ。回転もすごかったし」
「楽しそうって感性がバグっとる! 我は無理じゃ! 絶対、絶対ふっとばされるやつじゃ!」
その通りです、と思いながら、でも僕の興味は既に“体験型赤斑ダイブ”に向かっていた。
まあ、僕にはいろいろバリア的な処理もあるし、最悪ミンチになってもどうにかなるし、大丈夫だろう。
「じゃあ……ちょっと、試してみるね」
「えっ!? 待て、今すぐ!? やめとけってば、やめ——」
シロの制止の声を、僕は風にまかせて軽くスルーした。
ちょっとだけ飛び出す角度を変えて、渦の気流に身体を預けるようにしてみる。
その瞬間だった。
バゴォォオオンッ!!!
って音が鳴った気がするくらい、僕の身体はありえない勢いでぶっ飛んだ。
まさに“撃ち出された”って感じで、ぐわんぐわん回転しながら、赤茶色の雲を斜めに突っ切っていく。
視界がぐるんぐるんと反転して、上下の概念が融解する。
内臓が3秒遅れでついてきてる気がするし、頭の中ではずっとバグったBGMが流れてる。
風! 雷! 渦! それにもっとよくわからない何か!
ひとつひとつがフルパワーでぶつかってくるせいで、もう僕、わりと真面目に「おもしろ宇宙アトラクションの限界突破バージョン」みたいになってる。
と、そこで——
視界の隅に、なんかいた。
金髪がふわっと舞ってて、片足を抱えるみたいに回転してて、どう見ても着地する気ゼロな飛び方。
あれ、エルだ。
さっき渦に飲まれてったはずなのに、別方向からまた飛んできて、しかもニコニコしてる。
いやニコニコというか、ぐるんぐるんの最中でもちゃんと“ドヤ顔”をキメてた気がする。
飛行ルートが自由すぎやしないだろうか。
が、その思考もまた、渦に巻かれてどこかへ吹き飛んでいった。
そして突然、渦の勢いがほんの僅かに、ほんっっっとうに微かにだけど、弱まった気がした。
「あっ……これ、そろそろ戻る流れだ」
なんとなく分かる。
身を任せてると、そういう気流の切れ目とか、わずかな変化に妙に敏感になってくる。
もちろん、依然として“吹き飛ばされてる”ことには変わりないし、嵐は相変わらずとんでもない勢いなんだけど——まあ、その中でもちょっとだけマシなゾーンに入った感じ。
で、次の瞬間——
ぼふっ。
って感じで、僕はシロのすぐ近くに着地した。
いや、正確には「地面がなかったから空中で止まった」みたいな感じだけど。
「うわっ!? び、びっくりしたぁああ!」
シロが肩をびくっとさせて、僕にしがみついてくる。
「ちょ、ちょっとおおお! どこ行ってたんじゃ! 我、ずっとひとりで、ぐるぐるの音だけ聞いて、雷とか光って、怖かったんじゃぞ!」
目が本気でうるうるしてる。
というか、しがみつきながら震えてる。
「ごめんごめん、ちょっと一周してきただけ」
「一周て! 回転寿司じゃないんじゃぞ!? 一人で待つ身にもなってみい!」
確かに、さっきの渦は完全にカウンター式回転だった気がする。
というか、僕が寿司だったらもう解体されてネタとシャリが分離してたと思う。
と、そんなシロの肩越しに、また何かがすーっと飛んできた。
ふわっと、でも超高速で回転しながら、金髪の人影が着地。
エルだった。
「ただいまー。うん、今のルート、結構当たりだったわよ。浮力の段差が絶妙で、途中すごい気持ちよかった!」
着地しながら、全身に雷スパークみたいなの散らしてるけど、本人は全然平気そう。
「気持ちよかったて……なあ、ほんとにこの人、感覚バグってないか?」
シロが僕の腕の中からひょこっと顔を出して、真顔で呟いた。
僕は軽く肩をすくめた。
「うん、たぶんバグってる。でも、そこがエルだからね」
シロは僕の顔をじっと見て、ため息まじりにぽつりと呟いた。
「……いや、エルもアレじゃが、そなたも大概じゃぞ?」
「うん、それは否定できない」
素直に認めたら、シロはますます呆れた顔になった。
「なんなんじゃ、我だけが唯一の常識枠みたいになっておるではないか……」
「まあ、事実そうだしね」
「それがまた腹立たしいんじゃがっ!」
そう言って僕の胸を軽くどんと叩いてくる。
怖がって震えてたさっきまでとは打って変わって、ちょっとだけ元気が戻ってきたみたいだ。
「どう? 気分転換になったかしら?」
そんなシロに向かって、エルがさらっと問いかけた。
口調はいつも通り、どこか優雅で飄々としている。
だが、シロの反応は、真逆だった。
「ならんわ!! むしろ精神的にめっちゃ参ったわ!!」
振り切れるように叫びながら、シロは僕にしがみついたまま、ぶんぶん首を横に振る。
「我、今、人生で一番“命の危機”を実感したぞ!? 気分転換どころか心拍数だけで三周ぐらいしたわ!」
おお、シロが本気で泣きそうだ。
それを見て、エルはひとつ小さく笑うと、さらりと肩をすくめた。
「そっか。まあ、好みは人それぞれだものね」
いや、そういうレベルの“好み”じゃないと思う。
でも、たぶんこの調子だとエルはまたやる。
そして僕も、たぶん付き合ってしまうんだろう。
……と、そんなことを考えていたら、今さらになって自分の髪の先がちょっと焦げてるのに気づいた。
うん、さっきの雷だな。
やっぱり、あれは完全に“気分転換”のスケールじゃなかったと思う。
シロはしばらく黙ったままだったけど、やがてため息まじりに呟いた。
「……我も、ちょっとだけ、やってみたいかも……」
えっ?
思わず聞き返しそうになったけど、シロはあくまでそっぽを向いたまま、ちらっと僕の袖をつまんだ。
「その、あんまり長くは無理じゃけど……さっきの、飛んでったときの顔……なんか、ちょっと楽しそうじゃったから……」
おや、これは貴重なシロの挑戦宣言ではないだろうか。
いつもなら全力で「絶対イヤじゃ!」って断固拒否するところなのに。
たぶん、渦のど真ん中で回転する僕やエルの姿を見て、ちょっとだけ心が動いたんだろう。
それって、なんというか——
「シロ、今すごく勇者っぽいよ」
「やめい! そういうの照れるから言うなっ!」
顔を赤くしながら、シロがぺしっと僕の胸を叩いてくる。
その手は震えてるけど、それでもしっかりと、前を向いていた。
「よし、じゃあ、僕が横についてるから。一緒に行こうか」
「……うむ。頼んだぞ」
「ふふっ、私も行くわよ。置いていかれたら呪っちゃうんだから」
渦はまだそこにある。
狂気と雷鳴が渦巻く、星の怒りそのものの空間。
でも、僕たちはもう、それに怖じ気づいたままじゃいない。
シロの手を握り直して、そっと一歩、渦の気流に踏み出した。
たとえバグったスプラッシュマウンテンだったとしても——
僕らは、それを“楽しい”って思える自分たちでいたいと思った。